では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(ローマの信徒への手紙3:27-28)
普通の日本人の感性ですと、「自分の罪滅ぼしをするために、良い行いをするのだ」というのは、実に理にかなっているように思えます。しかし、それはキリスト教的であるとは言えません。人が義とされるのは、行いの法則によるのではない、信仰の法則によるのだとパウロは今日の箇所で書いています。つまり、あなたがイエス・キリストを受け入れて洗礼を受けた瞬間に、あなたの罪は全部赦されているのです。「あなたを信じます」と言った瞬間、「あなたの罪は赦された。安心して行きなさい」と言われているのです。100億円の借金があった人が、それを全部帳消しにしてもらった後で、1万円や2万円を返す必要がないのと、同じ事です。
しかし、それだけ多くの借金を帳消しにしてもらった人は、たとえ帳簿の上ではもうお金を払う必要がなくても、借金を帳消しにしてもらった感謝の気持ちを、事あるごとに表すはずです。クリスチャンの全ての行いは、決して義務からではなく、感謝から自然と起こるものでなくてはなりません。そして、それら全ての行いをもって人が正しいとされるのではなく、「正しいとされた人が、行いをもって感謝を表し、神の栄光を表す」のです。「行いによってではなく、信仰によって義とされる」とは、「信仰だけあれば何の行いもなくて良い」という事ではなく、「信仰で正しいとされた者が、行いによってその証明をする」事であるのです。
ですから、毎回の礼拝でお献げする献金もそうですし、礼拝で司式をしたり奏楽をしたりなどの奉仕をすることもそうですし、あらゆる「良い行い」もそうです。罪深い自分をお赦しになった神様への感謝を示し、神様の栄光を表すのです。「行いをもって、過去の罪を償った」のではなく、「罪を赦された感謝を、行いをもって示す」のであります。
「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ福音書7:18)とあるように、良い行いが良い人を作るのではなく、良い人が良い行いを生み出すのです。そしてその良い人を作るのは、ただ信仰によってのみです。「行いは必要ない。ただ信仰のみである」というのは、そういう事です。
とは言え、私たちが信仰によって、世界に名だたる大事業をなす事ができるかと言えば、それは難しいかもしれません。しかしそんな大それた事でなくても良いのです。「食べるにしても飲むにしても、全て神の栄光を表すためにしなさい」と書かれている通りです。毎週礼拝に出席する事だけでも、あるいは聖書を一章読む事だけでも、それが心からの感謝から出るものであれば、私たちが信じて義とされた何よりの証拠であるのです。それこそが証しです。私は教会へ通い始めたばかりの頃、「証し」と言われても何をしていいやらさっぱり分かりませんでしたが、それが分かった時に、証しは苦痛ではなくなりました。ただ思うままに神の栄光を表せばそれでいいのですから。