しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。(フィリピの信徒への手紙3:20)
フィリピというのは、当時ローマ帝国の植民都市でした。当時のローマ帝国の支配は絶大で、フィリピの市民はローマ帝国の支配による繁栄を大いに喜んでいたのです。そんなフィリピの信徒に対し「わたしたちの本国は天にあり」とパウロは宣言したのですから、これはなかなか挑戦的です。
本国が天にあるという事は、この世は旅路に過ぎません。旅のメインは、旅路ではなく、行き先です。例えば、遠足のバスの中もなかなか楽しいものですが、目的地についてからの観光や食事の方が、バスの中よりもはるかに素晴らしいのは言うまでもない事でしょう。
もちろん、土砂降りで景色もろくに見えず、旧式で乗り心地の悪いバスの旅路よりは、天気は晴れで、バスは最新型で、バスガイドのお姉さんも美人の方が、道中楽しい事は間違いありません。しかし、旅路は所詮旅路です。どんなに道中が楽しくても、着いてみたら崖下に真っ逆さまだった、というのでは、何の意味もありません。逆に、例えば山登りで道中どんなに苦しくても、頂上に着いて、雄大な景色を目にした時は、途中の苦労すらも喜びに変わるでしょう。
しかも、キリストを信じる者たちに入る事を許された目的地は、神の国、天国です。これ以上の目的地はありません。そして、目的地へたどり着けるかどうかの一番の鍵を握っているのは誰でしょうか。バスであれば、それはもちろん、運転手です。運転手の腕前や地理的な知識次第で、目的地へたどり着けるかどうかが決まります。乗客は、運転手に全てをゆだねるしかありません。
では、人生の運転手とは誰なのか。言うまでもなく、それは神であります。キリストを信じたものは、天国行きのバスへ乗せられるだけでなく、神自らが運転席でハンドルを握り、天国へ導き入れてくれるのです。
言うまでもなく、目的地が決まっていたとしても、道中は平坦とは限らないでしょう。思わぬ事故に巻き込まれるかも知れません。道路が酷い状況で、車酔いを起こしてしまうかも知れません。しかし、道中がどんなに大変でも、天国という目的地があり、更には神という運転手に全てをゆだねた時、乗客である私たちには、何の不安もなくなるのです。これこそが、キリスト者に与えられた平安であります。
神がハンドルを握り、天国へ向かうバスへ揺られている時の安心感。そのような奥の深い喜びを感じられる事こそが、キリスト教の提供する最大の「ご利益」です。キリストを信じない人生は、途中こそ楽しくても、崖下へ転落するかも知れないバスに乗っているようなものです。そのような日々と比べれば、キリストを信じ、神と共に天国へ向かう旅路を歩めるとは、何と大きな喜びではありませんか。