日本基督教団小月教会

余は如何にして基督信徒となりし乎

余は如何にして基督信徒となりし乎 ■内村鑑三著/鈴木俊郎訳
■岩波文庫
■A6版・286ページ

日本のキリスト教を論じる上で、避けて通れない人物の1人が、内村鑑三です。彼の無教会主義などから、必ずしも彼の思想に共感するものではないのですが、やはりこの本は読まない訳にはいかないでしょう。

あらかじめ断っておきますが、この本はキリスト者でないと、その価値の半分も分からないのではないかと思います。ノンクリスチャンの人が、この本を「駄作」と切って捨てていましたが、それはそうでしょう。単なる手記とか歴史ものと思って読むと、拍子抜けする事間違いなしです。逆に、キリスト者ならば必読の書であると思います。キリスト者でないと理解できないような箇所はありませんけどね。

まず、内村自身も書いていますが、この本は「如何にして」キリスト者となったかの記録であり、「何故」かを書いたものではありません。「何故」を語ると、最初の部分だけで終わってしまいます。しかも、半ば強引に教会に引っ張り込まれているという、あまり証しにならないようなきっかけなんですよね(笑)。

この本、私は序盤で大爆笑しました。主人公(内村自身であると思われる)が、神社を通る度に八百万の神々に祈るのがうとましくなり、なるべく回り道をするようになった件とか、樽の講壇で説教者役の学生が居眠りをしてしまったので、主人公がつかつかと講壇に歩み寄り、自分で祝祷をしてしまった辺りなど、特に笑いました。祝祷がそんな適当でいいんかい(笑)。

そして、中盤で主人公はキリスト教国であるアメリカに渡り、大いに失望します。失意の中で新たな人とも出会い、本当の意味で回心して最後は日本に帰国します。その回心へ至る過程や語られている内容が、非常に真に迫っており(当たり前ですが)、読む者の心を打ちます。また、キリスト教国に失望し、日本人としての矜持を示しつつ、キリスト教の如何に真実たるかを見出す部分には、大いに共感できます。

私も祈祷会で一度だけ証しをした事がありますが、証しは単なる宗教体験談でもなければ奇跡体験談でもないはずです。真実なるキリスト者の生活には必ず聖霊の交わりがあるはずでありますから、真実なる証しは、そこに強い聖霊の働きを示すものであるはずです。この本には、手を置いたら病が癒されただのと言った奇跡は全く出て来ませんが(そのような奇跡重視の教会は、私は眉に唾してみるものであります)、言うなれば、内村の心が段々とイエス・キリストの方向を向くようになった、その経過こそが聖霊の働きであり、奇跡であると思います。

キリスト者の中には、劇的に一瞬で回心する者もいれば、洗礼は受けたものの実感を持てず、段々と回心する人もあるでしょう。そのような、回心途上の「自分は信仰が弱いのではないか」と不安になるキリスト者にとって、この書物はこの上ない励ましとなるはずです。その意味でこの本は、「無類の奇跡をつづった、最強の証し」であるといえましょう。

この本は、日本人による著作なのに、何故か訳者の名前もあり「?」と思いますが、原著は英語だったそうです。特に読みにくくはありませんが、漢字とカタカナ混じりの文語文での日記部分も多く、これが延々と続くと少し疲れます。まあ、そこは根性で乗り切りましょう。内容は決して退屈ではなく、物語としてもちゃんと起伏があるので、読みやすいと思います。

ところで、内村は無教会主義であり、この本では、内村は自分でビスケットとぶどう酒を買って来て、自分で聖餐をやってしまいます。この事自体について論じると面倒な事になるんですが、その部分の描写を見てみましょう。内村の知る日本人について書かれた箇所です。

ある夏の午後であった、彼は深く自分の罪を自覚させられ、十字架につけられたまいしイエスにおいて罪の赦しを発見した。彼は思った、場合はあまりに厳粛であって聖洗礼を受けに出頭しないでこれを去らせることはできないと。しかし一人の「認可された教職」も彼の住居25マイル以内には見出されなかった。しかしあたかもそのとき爽快きわまりない夏の驟雨が沛然としてその地方にやって来た。彼は思った、天が自ら彼を聖なる儀式に招きつつあるのであると。そこで彼はまっすぐ雨のただ中に飛び込み、敬虔な態度をもって全身を「天の水」でずぶ濡れにさせた。彼はこの方法を自分の良心に満足なものと感じた、そしてそれいらい彼は自分をキリストの弟子として偶像崇拝の同国人の前に告白したのである。

山室軍平の事かっ!(笑)



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