■アウグスティヌス著/服部英次郎訳
■岩波文庫
■A6版・330ページ(上)、292ページ(下)
アウグスティヌスの代表作である「告白」。文庫本2冊、全部合わせると600ページ以上の大作です。しかし、アウグスティヌスがどんどん哲学的な思索と、創世記の彼流の解釈をしていく下巻と比べると、「アウグスティヌス言行録」とも言える上巻は、意外にもすらすら読む事ができます。
上巻に見るアウグスティヌスの駄目人間ぶりは凄いです。盗みはする、女遊びにはふける、勉強はほっぽらかし、「聖書の教えは到底信じられない」と異教(マニ教)にはふけると、母モニカの心痛がうかがい知れようというものです。「私は、盗みという罪によって得られたものを愛したのではなく、盗みという罪自体を愛したのだ」という表現には、なるほど彼の原罪に関する考え方の原点は、こういうところにあるのかなと思わされました。そして、それがペラギウス主義者に対抗する原動力になったのかと思うと、禍を益とする神の恩寵に対する感謝を感じずにはおれません。
そして、アウグスティヌスが「告白」へ至ったのは、そんな罪に堕落した彼をも救ってくださった神への感謝があるからでしょう。文章の端々からそれが感じられます。ジョン・ニュートンの讃美歌「アメイジング・グレイス」(讃美歌21・451番)にも通じるものを感じるのです。言わば彼の懺悔録である上巻には、現代のキリスト者である私たちが、日々の祈りに取り入れられる文章も多いと思います。
また、それだけではありません。アウグスティヌスは、何度も洗礼を受けようとしては、その度に思いとどまり、その優柔不断さにしまいに腹が立ってくる程なんですが(笑)、彼がそれだけ「安っぽいご利益」とか、あるいは中途半端な気持ちで、キリスト教を求めたのではなく、「これしかない、これぞ真理だ!」という強い確信を求めていたのではないかと感じられます。ですから、上巻のラスト近くの彼は、これでもかこれでもかと回心しそうになっては、「本当にこれが真実なのか」と思索にふけります。
そして最後には、子供達が歌う「とって読め、とって読め」という歌の歌詞にせかされるように聖書をとり、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみとを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13:13)を読んで、遂に回心します。
だからこそ、下巻での賛美と確信に満ちたあの哲学的思索があるのでしょう。特に時間や記憶に関する記述は、一読の価値ありです。最初私は、「何をいきなり訳の分からん事を言い始めるんだ、この人は」と思ってしまいましたけど(笑)。「時間すら神が造ったのだ」というアウグスティヌスの主張には、目を通しておくべきでしょう。
そうして、「これこそ真理だという確信」を持って回心したアウグスティヌスが、後にペラギウスやドナティストと言った異端に敢然と立ち向かい、正統的なキリスト教の教理を守り、組織神学を確立し、「キリスト教第二の創始者」(ヒエロニムス)と言われるほどになった事は、ご存知の通りです。ご利益を求める信仰や、何となく流されての信仰ではなく、やはり信仰には「確固たる知識の裏付け」も必要不可欠であると思わせられました。文章は正直読みやすいとは言い難いですが、必読の書であると思います。