■トマス・ア・ケンピス著/大沢章・呉茂一訳
■岩波文庫
■A6版・280ページ
トマス・ア・ケンピスは、中世の思想家であり、カトリックの司祭。この本は、表紙の紹介文によると、「聖書についで最もよく読まれた書物」であるとさえ言われているそうです。若干誇張が入っている気がしなくもありませんが(笑)。
この本には、難しい神学用語などは出て来ません。「霊の生活に役立ついましめ」「内なることに関するすすめ」「内面的な慰めについて」「祭壇の秘蹟について」の全4章からなり、徹底的に敬虔な信仰の何たるか、自らを滅し、世俗との関わりを断ち、キリストにならうものとなる事の大切さを説いています。
本書を一貫しているのは、「神との関わりのない人生、単なる被造物に依り頼む人生が、いかに空しいか」という事です。その意味では、キリスト者の基本姿勢を記した書物であるとも言えますが、むしろキリスト者でない方にも、大いなる心の平安を与えてくれる本だと思います。世間との関わりに疲れてしまった時などは、本書の第3章などは、特に大きな慰めになるのではないかと思います。
が、「被造物とは一切関わるな」「苦行を求めなさい」的な論調が、どうも私には引っかかります。この本は、中世当時のカトリックの修道士向けに書かれたそうなので、現代の(しかもプロテスタント信徒の)感覚で軽々しく感想を言うものではない事は承知しているのですが、それにしても「被造物とは一切関わるな」というのは、承服しかねます。
そもそも聖書は「神にのみ心を向け、被造物とは関わるな」などとは教えていません。神は人間に対し「生き物を全て支配せよ」(創世記1:28)と言われました。さらに「極めて良かった」(同1:31)被造世界にあって、唯一「良くない」と言われたのは、「人が独りでいること」(同2:18)であり、だからこそ人を男性と女性に創造されたのです。神は別に「神だけ拝み、俗世を避け、山にこもって仙人のように苦行を積め」などとは言われておらず、人間に「被造物との関わりの中で生きよ」と言われている事は、聖書が証していると思うのです。
この事について、山室軍平は「平民の福音」の中で、分かりやすいたとえで説明しています。曰く「人間の世渡りは、水車のようなものである。水車が全て水の中につかれば流れて用をなし難く、さりとてまたすっかり水からはね出しては、回る事さえかなわない。人間も同じで、その身はこの世にありて、心には神を仰ぎ、この世の罪咎を恐れて山に逃れるような真似をせず、この世の罪咎を討ち滅ぼすために戦うのである」。こちらの方が、私の感覚にはぴったり来るように思えるのです(とは言え別な点では、山室の論調もそれはそれで過激なんですが(笑))。
ま、もっともこの本が出た頃には、プロテスタントは存在しませんでしたし、既に書いた通り、この本は修道士向けに書かれたそうなので、仕方のない事かも知れませんが。実際、トマス・ア・ケンピスの後100年くらいには、宗教改革が起こってしまう訳で。
聖句も多数引用されていますが、プロテスタントでは外典扱いされている書物からも結構引用されてます。日本語は古めかしいのですが、美しい文体だと思います。中盤からのキリストと信徒、弟子との対話形式の展開は、長さを感じさせずに読ませてくれる工夫です。
この本に書かれている通りに生きようと思ったら、そんな事は絶対不可能なのですが(「キリストにならって生きよ」と言われ、そんな生き方が人間に簡単にできるのなら、キリストが十字架にかかる必要などなかったのではありませんか)、この本を通して心の平安を得ようという読み方であれば、この本は多くの心の糧を与えてくれると思います。何より、「神に心が向いていない人生がいかに空しいか」が、よく味わえる本だと言えましょう。