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神が力を持って堅く建てる

それから、彼はこれらの柱を本堂の前に、一つを右側に、もう一つを左側に立てた。右側の柱にヤキンという名をつけ、左側の柱にボアズという名をつけた。
II歴代誌3:17

II歴代誌に入り、ソロモンの神殿建設が始まりました。ソロモンの神殿建設については、列王記にも記述があります。歴代誌と列王記を比べると、列王記では建物についての細かい記述が多く見られますが、歴代誌は建物についてはあっさりと書かれています。その代わり、列王記では記述があまりなかった、神殿で働く人々、レビ人たちの記述が歴代誌には多く見られました。歴代誌では、礼拝を捧げる人により注目しているのかもしれません。

ソロモンが建設した神殿の玄関には象徴的な2本の柱が立っています。ヤキンとボアズです。神殿の入り口は東を向いていますので、神殿の内側から見て右側つまり南側がヤキン、左側つまり北側がボアズとなります。一見すると歴代誌、列王記で大きさが違います。II歴代誌3:15では、35キュビトとなっていますが、I列王記7:15、19では18+4=22キュビトとなっています。実際はどのような大きさであったのか分かりませんが、神殿の前に立った人にとってとても巨大な柱であったことは間違いありません。

ヤキンとボアズの名前の意味については、いろいろな説があります。ボアズという名前は、ルツ記にも同じ名前の人が出てくるので多少馴染みがあるかもしれません。ボアズという名前の意味は注解書などを見ますと「力」という意味だそうです。ヤキンについては注解書によって意見が様々で、「わきまえる」という意味の言葉が元になっていると見る人もいれば、「堅く建てる」という意味の言葉が元になっていると見る人もいるようです。いずれにしても、ソロモンはこの神殿は神様が神様の力を持って堅く保たれる神殿だという意味を込めたように思います。人の力ではなく、神様の力によって神殿、ひいてはイスラエルの国が堅く建てられていることをあらわそうとしてのかもしれません。この2本の柱は神殿の玄関にありました。神殿の内部はレビ人しか入れません。礼拝に来た一般の人々はこの玄関を見て神様に礼拝をします。この2本の柱は礼拝に来たイスラエルの人々の記憶に色濃く残ったことと思います。大きな2本の柱と神殿を見て、神殿は、イスラエルの国は人の力ではなく、神様の力によって堅く保たれているのだということを実感したことでしょう。

詩篇127:1に「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。」とあります。またルカ6:46-49でイエス様は、岩の上に家を建てた人と、砂の上に家を建てた人の譬えを話しています。イエス様は神様に信頼し、神様の言葉どおり行う人を岩の上に家を建てた人と表現しました。その家はどんな嵐にも耐えることができます。ダビデとソロモンは神様の言葉に聞き従う事ができるお方でした。神様こそすべてを堅く保つことができるお方だと信じていたのです。この信仰こそがイスラエルの国を堅く建てます。礼拝に必要な事は、柱の立派さではなく、人の心にある神様の言葉への信頼だという事でしょう。礼拝する人の心構えをこの2本の柱は物語っているのかもしれません。

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主の安息

ダビデがこう言ったからである。「イスラエルの神、主は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。
I歴代誌23:25

I歴代23章はダビデが老年を迎え、ソロモンに王位を譲る時のことが記されています。ダビデは王としての最後の務めとして、やがて建設されるエルサレム神殿のために、レビ人を招集し、任命します。ソロモンが王となった時、ソロモンはエルサレムに神殿を建設します。それまでの間、イスラエルに神殿は無く、移動式の礼拝用の幕屋がありました。幕屋は出エジプトの時代からレビ人が管理してきました。レビ人は神様を礼拝するための仕事に就くように、特別に神様から召された一族でした。ソロモンがエルサレムに神殿を建設するにあたって、レビ人の役割は少し変化します。26節にあるように、もはやレビ人は幕屋を運んだり、器具を運んだりする必要は無くなります。イスラエルの民は、神様が与えて下さる安息の地カナンにやってきました。ダビデが国を平定し、イスラエルの民に安息が与えられた時、レビ人にも安息が与えられたのです。

しかしレビ人の大切な役目は変化していません。それは28節にあるように神の宮で奉仕することです。神様を礼拝する奉仕をすることは変わらず続きます。むしろ安息が与えられ、これまで以上に神様を礼拝することに集中できるようになったのかもしれません。こうしてイスラエルは神様を礼拝して生きる民として形成されていきました。イスラエルの国では、神様を礼拝するために特別な任務が与えられたレビ人がいます。彼らは他の仕事は一切しません。神様を礼拝するためだけに毎日を過ごします。そうしてイスラエルの民全体のための執り成しをします。レビ人以外のイスラエルの民がレビ人の生活を支えます。レビ人は毎日、神殿で礼拝を捧げます。神殿に来た人はいつも神様への賛美を聴くことができた事でしょう。そして神様への祈りをすることができたと思います。

エルサレムという町の名前は、「エル=神」、「サレム=平安(シャローム)」という意味です。神様の平安という意味です。イスラエルの国の真ん中、エルサレムに神様がとこしえに住んで下さり、祝福してくださるので、エルサレムは平安に包まれます。イスラエルは神様の平安を表す国となります。イスラエルはここまでたくさんの苦難の道を通って、長い年月をかけてここまで来ました。そのすべてを神様は守って下さいました。イスラエルの民は神様が安息の地、平安の地を与えてくださると信じて歩んできました。たくさん失敗もしましたが、神様はいつも赦し、憐れみを与えてくださいました。今、イスラエルの民は神様の平安の中に住むものとなりました。神様がエルサレムに住んでいてくださる限り、神様とイスラエルの民の関係が続く限り、とこしえにその平和は続きます。

今日、神様は私たちの心の内に住んでくださると聖書で仰っています。私たちの心を聖霊の宮として、エルサレム=神の平安の場所として住んでくださいます。私たちもレビ人が幕屋を運んだりする必要が無くなったように、礼拝の形にとらわれることは無くなりました。私たちと神様との関係が続く限り、神様の平安は続きます。神様への信仰をこれからも持ち、祈り続けたいと思います。

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神を礼拝する備え

イスラエルの全集団に向かって、言った。「もしも、このことが、あなたがたによく、私たちの神、主の御旨から出たことなら、イスラエル全土に残っている私たちの同胞にいっせいに使者を送ろう。彼らのうちには、放牧地のある町々の祭司やレビ人もいる。彼らを私たちのもとに集めよう。私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから
I歴代誌13:2-3

I歴代誌13章と、15章には、ダビデが神の箱=契約の箱をエルサレムに運ぼうとする様子が描かれています。しかし13章の時は、ウザの割りこみと呼ばれる出来事があり、箱をエルサレムに持ち帰ることに失敗します。この記事はIIサムエル記にも並行記事がありますが、どちらも神様のメッセージを読み解くには難しい箇所かもしれません。なぜウザは罰せられたのか、現代の私たちには直感的に分からないからです。

イスラエルが他国と戦争状態にあった時、イスラエルの民は、神の箱が戦場にあれば勝てるのではないかと勝手に解釈しました。しかし結果は散々で、戦場へ運び出された神の箱は、敵国に奪われてしまいます。神の箱はその後、敵国をうろうろした後、キルヤテ・エアリムのアビナダブの家に戻ってきて、20年以上そこに留まりました。I歴代13:3にあるように、サウル王の時代には、イスラエルの民は神の箱を顧みることはありませんでした。神の箱がどんな物であるのか、イスラエルの民は心得ていなかったと言えます。ダビデはその神の箱をエルサレムに運び込もうとしますが、ダビデ自身も神の箱について勉強不足で、失敗してしまいます。15章ではダビデは改めて神の箱を運ぶために入念に準備し、レビ人だけが担いで良いということにたどり着きます(I歴代15:2)。こうして神の箱はエルサレムに運び込まれたのでした。

歴代誌が書かれた背景は、バビロン捕囚の民がエルサレムに戻り、新しく神殿を再建し、真の神様を礼拝する民を再形成していく、そのような時代でした。かつて神殿があった時、あるいは神殿が再建されるまでの間に何があったのか書き記し、真の神を礼拝するとはどういうことかを教えようとしています。サウルが何をないがしろにしてしまい、ダビデがどう神様に立ち返り、レビ人たちがどのような役割を担っているのか描き出そうとしています。神の箱は神様の臨在を示す最も大切なものです。それをイスラエルの国の中心に据えるということは、イスラエルは真の神様を中心に据えた国であるという事です。また王であるダビデも神の箱を自由に用いて良いのではありません。神様は誰にも縛られることのないお方であり、レビ人、祭司たちがそのしもべとして、神様と民の間を取り持つ役目を担っています。

神の箱はバビロン捕囚の時に失われてしまったと言われています。その後、神の箱がどこに行ってしまったのか、誰にもわかりません。おそらくバビロン捕囚を終えて、神殿を再建した時には神殿の中心に神の箱は無かったことでしょう。しかし神殿の再建の時に、この物語を聞いた民は、神殿で礼拝するにあたり、どのような心で礼拝をすればいいのか心に響いたと思います。現代の私たちも神殿や、神の箱といった物は無い中で礼拝していますが、心構えについては考えさせられます。神様を中心に据えた真の礼拝を、これからも目指していきたいと思います。

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ヤベツの祈り

ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。彼の母は、「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた。ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。
I歴代誌4:9-10

旧約聖書に戻り、歴代誌に入りました。少し前にサムエル記、列王記の通読があったので、サムエル記、列王記との違いなども見ていくと興味深いかと思います。違いを発見すると、どちらかが間違っているのではないかとも思いますが、すぐにそう決めつけず、お互いに補完しあっていると見ると、より深い神様のメッセージが読み解けると思います。歴代誌3章には、ダビデの子孫の系図が示され、バビロン捕囚の終わりの世代まで一気に書かれています。19節に登場するゼルバベルは、バビロン捕囚の後、エルサレムに帰ってきたユダヤ人たちの指導者の一人です。このことから、歴代誌は、エルサレム帰還以降に書かれたと推測できます。列王記の終わりがバビロン捕囚の始まりまでであったのに対して、歴代誌ではバビロン捕囚以降も記されているのです。こう見ますと、歴列王記と歴代誌では書かれた目的が大きく変わってきます。神様に従って歩むという点では同じですが、「バビロンに行く理由」が語られる列王記と、「エルサレムに帰るに際して」語られる歴代誌ではメッセージ性が大分変ります。そういった点を見ながら、読み進めたいと思います。

歴代誌4章には、創世記のエノクのように、短くも有名になったエピソードがあります。ヤベツのエピソードです。ヤベツについては出自があまり明らかではありませんが、ユダの子孫について語られている途中に収められていますので、ユダ族で、ダビデ以前であろうと考えられます。ヤベツが生まれた時、この家には大変悲しいことがあったようで、母親が「私が悲しみのうちにこの子を産んだから」という理由でヤベツと名付けられました。 →『ヤベツの名前の意味について(外部サイトへ)』 しかしヤベツはそのまま悲しみだけの生涯を送ったわけではありませんでした。9節の冒頭にも「ヤベツは彼の兄弟たちよりも重んじられた。」とあります。また10節には神様がヤベツの祈りを聞き、祝福されたことが記されているからです。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます(IIコリント1:4)。」神様は悲しみ、苦しみ、弱さの中にいる人を見捨てることはありません。神様はヤベツの願ったことを叶えられたと聖書は記しています。ヤベツが願ったことは、大いに祝福し、地境を広げ、わざわいから遠ざけ、苦しむことのないようにでした。大胆な祈りですが、その大胆さは、ヤベツ自身が悪い考えや、自己中心な考えから願ったのではないことを聖書は暗に示しています。ヤベツは悲しみの人であり、苦しみ、病を理解していた人であった。自分の力を誇りたいのではなく、神様の御手が私に上にあるようにと願ったということを聖書は示しています。エルサレムに帰還するに際して、ユダヤ人に必要なことは、神様との関係を正すことであったのかもしれません。ユダヤ人はバビロン捕囚を経験し、悲しみを知る民となりました。その後、民が神様にどんな姿勢で何を願うかが問われていたのかもしれません。

私たちも境遇は様々ですが、神様に大胆に願う事を遠慮してしまう事もあります。しかし遠慮はいりません。なんでも神様に聞いて頂く方がいいのです。その願いの中にどんな思いが潜んでいるか、神様はちゃんと見抜いて、祝福すべきところは祝福し、直すべきところは指摘してくださるからです。

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*書籍『ヤベツの祈り』なども参考にしてみてください。

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キリストにあって共に忍耐する

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
ヘブル10:35-36

初期のキリスト教会は、多くの迫害に会いました。彼らはキリストを信じているというだけで苦しめられ、殺されました。西暦30年前後にキリストの十字架と復活があり、初代教会が誕生してから、西暦313年にローマ帝国でキリスト教が公認されるまで、程度の差はありましたが、キリスト教会は長い迫害の期間を過ごします。ヘブル人への手紙が書かれた時にも多くの迫害があったことでしょう。中には、キリストへの信仰を捨ててしまう人も多くあったようです(ヘブル10:25参照)。このような人々に励ましを与えるために、このヘブル人への手紙が書かれました。

ヘブル人への手紙の記者は、手紙の名前の通り、ヘブル人、ユダヤ人に宛てて書いています。5~10章には律法の事や、儀式の事が多く書かれていました。これらは私たちにはなじみが薄いですが、ヘブル人にとっては、なじみ深い物でした。ヘブル人への手紙の記者は、いろいろな儀式があるが、その中心はキリストだということを証しするために長い手紙を書きました。律法も、儀式も神様から与えられたものですが、それらはみな、キリストの贖いの予型だったのでという事を書いています。キリストこそ真の、完全な贖いを成し遂げる方だったのですと書いています。

多くの困難、迫害があった時代、「がんばろうね。」「負けないようにしようね。」とは言っても、その根拠が分からないと、耐えることは難しいです。キリストは本当に救い主なのかどうなのかと迷っているうちは、信仰の忍耐を持つことはできません。ヘブル人への手紙の記者はそれを承知で、キリストの贖いがいかに完全なものであったか書くために多くの紙面を割いているのです。キリストは確かに神であり、そして人でもあるお方です。キリストは人間なので私たちの弱さを完全に理解し、そして神でもあるので完全な救いを与えてくださいます。私たちはこのキリストだからこそ、希望を置くことができます。

ヘブル10章には、ヘブル4章と呼応するかのように、同じような文章が並べられています。ヘブル4章を読んでいた時には、「がんばろう。負けないようにしよう。」と励まされてもなかなか意欲が湧いて来ないかもしれませんが、キリストがいかに素晴らしい救い主であったか説明を受けた後の10章では、キリストに信仰を置くことに勇気が湧いてきます。さらにこの後、ヘブル11章では、信仰の先輩たちがいかに忍耐して信仰を守り通したかが記されています。私たちは一人で信仰を守ろうと頑張っているのではありません。また2~3人とか少ない集団というわけでもありません。まず、キリストという神であり、人である大祭司がおられます。そして信仰の諸先輩方がたくさんいます。東京フリー・メソジスト教団は現在600人ほどの会員がいます。すでに信仰生涯を全うして召された先輩方もいます。ヘブル人への手紙の記者は「あなたは忍耐しなさい」とあなただけに向けて語っているのではありません。「あなたがたは」と同じ信仰を持つ仲間全体を指して語っています。私たちは共にキリストにある希望の確信をもって忍耐していきたいと思います。

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