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夏休み企画

夏休み企画2017

もうすぐ夏休みですね!

昭島教会では、夏休み企画として、礼拝説教で「聖書ってなに?」シリーズを行います。今年は、新しい新改訳聖書も発行されますが、改めて聖書について一緒に考えていきましょう。知っている人も、知らない人も、聖書再発見です。

  • 7/30 聖書は神のことば
  • 8/6 神のことばは、永遠に
  • 8/13 聖書が示すキリスト
  • 8/20 聖書を通して人を活かす神
  • 8/27 みことばを受け入れる

いずれも礼拝は、10:30~12:00です。
どなたでもご参加いただけます。参加無料です。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

弱さを抱えた大祭司

彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。
ヘブル5:2

新約聖書に戻り、ヘブル人への手紙に入りました。ヘブル人への手紙は、その名の通り、ヘブル人(ユダヤ人)に宛てて書かれた手紙です。ヘブル人は昔、神様から律法を与えられ、旧約聖書を持っています。旧約聖書に日ごろから親しみ、律法の行いを守っている人たちです。旧約聖書の中には、いけにえのこと、幕屋のこと、ヘブル人の祖先の歴史が記されています。キリストが十字架の贖いを成し遂げた後、旧約聖書に書かれているこれらの事を、キリストがどう繋がっているのか、教えているのがヘブル人への手紙です。私たちはヘブル人の律法に詳しくありませんので、この手紙を読む時は、旧約聖書を参考にしながら読み進める必要があります。

5章では、大祭司について記されています。大祭司は、祭司たちの中から一人選ばれます。大祭司は、自分の罪の贖いの儀式、聖別の儀式を行い、また祭司たちのための罪の贖い、聖別の儀式を行います。こうして祭司たちは、全てのヘブル人と神様をつなぐための儀式、ヘブル5:1によると「神に仕える事がら」を行うことができるようになります。大祭司も人間ですので、罪がないわけではありません。しかし神様のための事がらを行うには、罪あるままでは行えません。罪の贖いをし、自分の身を聖別する必要があるのです。大祭司は、神に仕える身でありながら、罪ある人間であるという性質があり、神様はそれを解決する方法をちゃんと与えてくださっています。

しかし、大祭司が人間であるということは不便な事ばかりではありません。大祭司は自分も人間であるため、弱さを抱えている人間のことを十分に承知しています。ですから大祭司は真心から弱い人間に同情することができ、とりなしのために真剣に祈ることができるのです。キリストが神でありながら、人間となられたのには理由があります。それはキリストも弱い人間となって、その弱さを十分に知り、大祭司として相応しいものとなるためでした。ヘブル5:7-10にそのことが記されています。最近、『インサイド・ヘッド』というアニメ映画が公開されました。人間の頭の中の喜びや悲しみといった感情が、キャラクターとなって頭の中で奮闘している様子を描いたアニメ映画です。その映画の中でカナシミはトラブルメーカーのように扱われてしまいますが、映画が進む中で、カナシミにも意味があることが分かってきます。それはカナシミは他の人のカナシミと共感することができ、他の人と共感することが新しい喜びのもととなり、かけがえのない宝物に代わっていくということです。この映画は、弱さや悲しみにも意味があることを教えてくれます。

神様は弱さも力に変えることができるお方です。悲しみの価値、人と共感することの素晴らしさを造って下さったのも神様です。キリストは完全な人となられたので、私たちの弱さ、悲しみに同情し、共感することができます。だからこそ完全な救いを与えてくださいます。私たちの弱さ、悲しみもキリストが理解してくださることに感謝したいと思います。また理解してくださるからこそ、私たちは素直に自分の罪を認め、正直に告白したいと思います。キリストは必ず同情し、完全な救いを与えてくださいます。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 5-6月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 役員会のために
  • スマイル合唱団のために
  • 聖書塾のために
  • 八王子教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の備えられた捕囚の道

そこでゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」
II列王記25:24

列王記も最後の章となりました。南ユダ王国には、ヒゼキヤやヨシヤなど、神様に従って歩んだ王たちもいましたが、多くの王は、神様に従って歩みませんでした。特に列王記の最後ではマナセ王について触れています。マナセ王は北イスラエルで盛んに行われていた異教の神々への信仰を南ユダ王国で始めます。また多くのユダの民の血を流したと聖書に記されています。神様はマナセの行いを見て、南ユダも滅ぼすことを決意されます。

南ユダではヨシヤ王の後、バビロンの侵攻を受けるようになり、バビロンの王によって、南ユダの王が立てられるという事が何度か起きます。いわゆる傀儡政権です。南ユダの最後の王ゼデキヤもバビロンによって指名された王でした。列王記では詳しいことは記されていませんが、エレミヤ37-39章、52章などにはゼデキヤ王がバビロンに反逆してエジプトに助けを求めようとしたことが記されています。これが決定的となりバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムを破壊します。

しかし神様は、南ユダを完全に滅ぼしてしまうようなことはしませんでした。ゼデキヤの前の王であるエホヤキンはバビロンに捕らえられましたが、バビロンの王の好意を受けてバビロンで不自由なく生活したことが列王記の終わりに記されています。またバビロンの王は、ユダの人々を捕囚の民としてバビロンに連れ去ったことが記されています。神様はユダの人々を滅ぼしつくすことが目的だったのではなく、エルサレムを離れさせ、異国の地バビロンで神様の民を立て直すことが目的でした。ユダの人々からすれば辛い日々が始まることになるのですが、その辛い経験がユダの人々にもう一度神様に立ち返る機会となったのです。

列王記の最後にはゲダルヤという人物が登場しています。この時、ゲダルヤは預言者エレミヤと共に、エルサレムに残って住んでいました。バビロンの王がゲダルヤを総督として任命したのです。それは一部残されたユダの民からしっかりと税を取り立てるためでした。ゲダルヤはこう言い残しています。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる(25:24)。」これこそ神様からのメッセージでした。南ユダの人々の神様に対する反逆は、もはや決定的でした。神様はエルサレムに留まり続けることをお許しになりませんでした。しかし神様はバビロンでの生活を保障されています。苦しい期間ではありますが、バビロンで必ず生き延びることができ、またエルサレムに帰ってくることができることを保障しています。だから今は、バビロンの王に仕えることが神様からのメッセージでした。

Iコリント10:13に「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。バビロン捕囚という苦しい経験の内にも、神様はちゃんと道を残してくださっていました。私たちの辛い経験の内にも、神様がちゃんと道を備えて下さっていることを期待して祈りたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 5-6月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖書の学び会、役員会のために
  • 桜ヶ丘教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

主は力、主は助け

イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。
II列王記15:1-5

II列王記の中盤まで来ました。北イスラエルの王の入れ替わりはいよいよ激しくなり、国の終焉が近づいています。ゼカリヤ(6か月。15:8)、シャルム(1か月。15:13)、メナヘム(10年。15:16)、ペカフヤ(2年。15:23)、ペカ(20年。15:27)と5人の北イスラエルの王の名前が並びます。この5人はの王様は、南ユダでアザルヤ(ウジヤ)が王だった期間に、入れ替わった王たちです。北イスラエルはペカに続くホセア(15:30、17章~)の時代にアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。II列王記17章では、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされてしまう出来事と、どうしてそうなったのか、理由が記されています。考古学的、科学的にみると、アッシリヤは大国で、北イスラエルは小国です。武力的にも経済的にも圧倒的な差がありました。また北イスラエルを含むパレスチナを巡るアッシリヤとエジプトの利権争いの結果、北イスラエルが滅ぼされたとみることができます。しかし聖書が語る理由は、北イスラエルが神様の道に歩まなかったからというごく単純なものでした。聖書はどんな小国であったとしても、神様の力、神様の助けがあれば、大国に脅かされる事は無いことを教えています。なぜなら聖書に言わせれば、大国が世界を治めるのではなく、神様が世界を治めているからです。

北イスラエルが滅びに向かう時代、南ユダではアザルヤ(ウジヤ)が王となりました。アザルヤという名前は「主は助ける」という意味であり、ウジヤは「主は力」という意味だそうです。列王記ではアザルヤという名前が多く用いられていますが、他の書物ではウジヤと書かれていることが多いです。ウジヤの人生の前半は、神様にしっかりと従い、国も安定しました。ウジヤの治世は52年であり、マナセに次いで2番目に長い治世となりました。しかし後半は神様に背いてしまい、神様に打たれてツァラアトを患い、王宮から出て隔離されてすむようになります(15:5)。列王記には詳しい出来事が書かれていませんが、II歴代26章にウジヤの治世の詳細が書かれています。ウジヤはユダの町々を再建し、軍隊を再編します。それは神様がウジヤを助けて、力を与えたからであると聖書ははっきりと語っています(II列王26:7、15参照)。ウジヤは祭司ゼカリヤが存命中は、神様を恐れ、神様を求めていました(II列王26:5)。しかし国が強固になってくると、ウジヤの心は高ぶり、神様の前に不審の罪を犯したことが書かれています。

ウジヤは神殿の聖所に入り、香をたこうとしました。イスラエルの神殿の聖所は、祭司だけが入ることを許されている場所です。王であっても、聖所に入ることはできません。しかしウジヤは祭司の制止も振り払い勝手に香をたこうとしました。なぜウジヤがここまで自分で香をたくことにこだわったのか、詳しいことは分かりません。しかしウジヤが神様を恐れなかったことは確かです。知らなかったのではなく、知っていてなお、神様の教えを踏みにじったのです。ウジヤは神殿の聖所の中で神様に打たれて、ツァラアトに冒されます。ウジヤのツァラアトは死ぬまで治りませんでした。ツァラアトは伝染する病気なので、冒された人は他の人から隔離されます。ウジヤは二度と王宮に戻れませんでした。

このことを通して、神様はイスラエルの国で生きて働いている王は神様ご自身であることを明らかにしておられます。他の国では人間の王が、神々の力を使役して、国を治めました。しかしイスラエルでは神様がまことの王です。人間の王は神様の力を使役することは決してできません。人間の王が、他の国々と同じように、神様との関係を間違えて捉えるとウジヤのような事件が起こります。それがあまりにも長く続いた北イスラエルはとうとうアッシリヤに滅ぼされてしまいました。「神は力です」と私たちも告白しますが、それは「私は神様の力を用いることができます」という意味ではなく、「神様は私を助けてくださいます」という意味です。主は助けてくださることを感謝し、神様との関係を正しくとらえたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 4-5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖歌隊の練習、聖書の学び会のために
  • 小金井教会のために
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カーテンを替えました。

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会堂のカーテンを新しくしました。少し雰囲気が変わりました。

レースのカーテンはUVカット率92%だそうです。すごいですね。

これで暑い夏も快適に礼拝できるかもしれません。

厚手のカーテンを閉めるとこんな感じ↓です。

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しっかりと光を遮ってくれるので、プロジェクタを使うときなどに、このカーテンを使います。