導入
古代エジプト人は、イスラエルの人々を虐待し奴隷として働かせる罪、神を拒絶し、人間の作った偽の神々と宗教を崇拝した罪を犯しました。エジプト人の罪深い行為により、神様の心は傷つけられました。ファラオとその民は、九つの災いを受けても、悔い改めず、自らの意思で神の民を解放するつもりもありませんでした。そして神様は最後の審判の災いを送る計画を告げました。この最後の災いは、エジプトの王とその家臣たちが神の民にエジプトを去るよう懇願させるものでした。
本題
9番目の暗闇の災いが下されても、ファラオはイスラエルの全てを解放することを拒み、一切の妥協を受け入れないモーセに腹を立て「私の顔を二度と見ないように」と伝え、モーセも「けっこうです。二度と見ることはありません」と今までの交渉を今後行わないことを告げた後、モーセは、主の命令でファラオに民を解放させるための最後の災いを告げなければなりませんでした。
主はモーセに神様のご計画を語られました。一節の「災い」と訳されるヘブライ語「negaネガー נֶגַעは「打撃」「一撃」という意味です。十番目の災いはエジプト人にただ悲しみをもたらすだけでなく、はるかに大きな打撃となるものでした。その災いは、神の御手、神の全能の力による打撃と一撃によってもたらされるもので、ファラオがイスラエル人をエジプトから全て追放させるほどの大混乱となるものでした。
そして、災いのご計画と共に、神様の意外な命令がモーセに告げられました。エジプト人に銀の飾りや金の飾りを要求するように神の民に言って聞かせなさいという命令でした。なぜかと言いますと、エジプト人は長年イスラエル人を強制労働させましたので、その穴埋めに、イスラエル人に多額の賃金を支払う義務があったわけです。その上、エジプト人はイスラエル人を奴隷とした際に、彼らの貴重品や財産をほとんど取り上げていました。これは神の民に対する大きな借金と負い目であり、決して返しきれるものではありませんでしたが、神様は神様の義を実行し、イスラエルに行われて来た不正に対する多額の償いを支払わせたかったのです。
その神様のご計画は哀れみに満ちていました。エジプト人はどうしてイスラエル人に銀と金をただで与えることになったのでしょうか。その答えはいくつかあります。第一に、3章21節に記されているように主が、神の民に対して好意を抱かせるようにエジプト人の心を揺り動かされました。
別の面では、イスラエル人の神様はエジプトに災いを次々と送り、その間、反対に、イスラエル人は守られていました。それを知ってエジプト人はイスラエルの神と、その神に守られているイスラエル人を恐れていたに違いありません。そのようにして、神様はエジプト人の心に恐怖心を呼び起こしました。彼らは力強い真の神様と全く力の無い偽の神々との力の違いを知って、真の神様によって区別され、守られているイスラエル人を恐れていたのです。
彼らは神の民をしいたげ、残酷に扱い、欺き、彼らから物を取り上げていました。ですから、神様はエジプト人の心に罪悪感を呼び起こさせました。そのことがあって、エジプト人は、自分の良心の咎めを和らげたり、イスラエル人の神様を喜ばせるために銀や金によって賠償金を払ったのです。
またエジプト人は様々な災いの中でのモーセのファラオに妥協せず、神と人とに仕える姿、ファラオの「祈ってくれ」にこたえて、とりなしの祈りをし、害を収める姿などを目の当たりにし、モーセを非常に尊敬していましたからイスラエル人に銀と金を無償で与えたのです 。
災いの中で、次のような出来事がありました。 呪法師たちは秘術でブヨを出すことができず、モーセの神のなした奇蹟を「これは神の指です(神の力です)」とファラオに言ったことがありました。また、ファラオの家臣たちはモーセの力、イスラエルの神の力を知っており、ひょうの害の時、一部は彼のメッセージを信じて、しもべと家畜を避難させたり、このままだとエジプトが滅びるからと、イスラエル人を解放するようにファラオに進言したこともありました。多くの災いを通して、呪法師たち、家臣たちも変えられていたのです。
そしてモーセはファラオに4節からの厳しい神様からの、最後の審判の警告と宣言を伝えました。裁きが行なわれる日、あわれみと救いの門が閉ざされる日が来るのです。
4節から6節をお読みします。モーセは言った。「主はこう言われます。『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出ていく。エジプトの長子は、王座に着いているファラオの長子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の長子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。
そして、エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。このようなことは、かつてなく、また二度とない』と語りました。「わたしが出ていく」は、ヘブライ語原文でアニー ヨツェーでわたしがエジプト全土を練り歩くというほどの神様の強いお心を表しています。
モーセは続けて、主がエジプト人とイスラエル人を区別され守られること、家臣たちが「みな出て行ってください」とひれ伏して頼むようになることを告げて出て行きました。
この災いには三つの目的がありました。一つ目として、神様が本当に信じる人々の神様であることを証明するため災いを送られるので、神様は神の民を守られ、裁きの夜には本当に信じる人々に対して犬が吠えるどころか、唸ることもないほど神様の手厚い保護がなされるということ。
二つ目として、エジプトに過ちを気づかせ、エジプトの神様を信じていない人々とイスラエルの本当に信じる人々には扱い方に区別と違いがあることを知らせるということ。神様を信じていない人々は神様に従わず、神様から断絶し、神様を拒絶し、否定し、神様と何のかかわりも持ちません。したがって、神様は彼らをこの地上でも、最後の審判の日にも助けることはできません。彼らは一人で神様の御前に立ち、神様の審判を一人で受けなければなりません。
しかし、本当に信じる人々に対してはそうではありません。本当に信じる人々は神様に従い、神様の慈しみに身を委ね、助けてもらえることを信頼しています。そして、神様に身を委ねるからこそ、神様は彼らを顧みることができるのです。
三つ目として、神の民を解放させるため神様はエジプトに多くの災いを送られましたが、神の民は解放されず、この最後の審判で、エジプトの家臣たちがモーセの前にひれ伏し、彼と神の民がエジプトを去るよう懇願させるためのものでした。
モーセがファラオから去った時、彼は「怒りに燃えて」いました。なぜでしょうか?
ファラオのかたくなな罪深さのために、多くの命が無駄に失われることが愚かであり、それがモーセの怒りを燃え上がらせたのです。
結論
神様の裁きの災いの目的は、その力を示すことでした。エジプト人は罪深く悪い民でした。彼らは偽の神々を崇拝し、人々を虐待し奴隷として使いました。しかし神様は一人のエジプト人も滅ぼすことを望まず、すべての人が悔い改めることを望んでおられました。また、次のことを証明するため奇跡を行われました。それは、 エジプト人が崇拝していたすべての神々と宗教は偽りであることを証明するためであり、唯一の生ける真の神様は、主ご自身であることを証明するためであり、また、 主は人々を救い、贖い、解放する神である唯一の神様であられると証明することでした。
神様の裁きは公正でした。ファラオの心は頑なであり、邪悪だったのです。彼は神様を拒絶し、神様の警告とあわれみを繰り返し拒絶し、偽りの神々を礼拝する先頭に立ちました。さらに、彼は人々を奴隷として、残酷に扱う先頭に立ちました。神様にはそれを裁くお力と救うお力があります。
これらすべてが神様の栄光へとつながっています。
神様は、ご自身のお力、偽の神信仰に対するねたみ、神様の義、慈しみ、主権を示すために災いを送られました。要するに、神様はご自身の栄光を示すためにそうされたのです。神の栄光とは、神様の愛と恵みと救いであり、またお力があり、義であり、聖であられることであり、完全であられることの全てです。
出エジプトの災いの歴史は、9節、10節で、次のように要約されます。 「主はモーセに言われました。『ファラオはあなたたちの言葉を聞かないでしょう。そうすれば、エジプトでわたしの奇跡がさらに増し加えられるからです。』モーセとアロンは、ファラオの前でこれらのすべての奇跡を行いましたが、主はファラオの心を頑なにされたので、彼はイスラエル人をその国から出させませんでした」となります。
災いはすべて、神の民が救われることを通じて神様の栄光を現すための神様のご計画の一部でした。ファラオの反対さえもご計画の一部でした。ファラオが心を頑なにするたびに、神様は別の奇跡を行われ、その奇跡を倍加し大きくされました。神様はすべてをご自分の栄光のためになされました。
神様がこれまでになされたすべてのことは、すべて神様の栄光のためです。なぜ神様は世界を創造されたのでしょうか?それは神自身の栄光のためです。詩篇19篇1節「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。」とそれを表しています。神様は人間を同じ理由から創造されました。神様はイザヤ43章6節7節で「わたしの息子たちを遠くから来させ、娘たちを地の果てから来させよ。わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した。これを形造り、また、これを造った。」と語られています。つまり、私たちが創造されたのは、神様の栄光を表すためであり、栄光において私たちは、神様と一体とされているのです。信じる私たちは、十字架上で死んで葬られ、よみがえられたイエス様と一体とされ、新たに創造され、神の国に生かされ、聖別された信仰生活の中で、イエス様のご愛を表しながら、神様に栄光を帰します。
私たちが罪に陥ることをご存知だった神様は、私たちの救いのご計画を立てられました。これもまた、神様の栄光のためでした。パウロがエペソ1章11節 12節で「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」と語っています。この救いのご計画を成し遂げるため、神様は御子を送られました。神様の御子は、十字架による罪人の救いにおいて神様であられる父を栄光に輝かせるために来られました。その業がほぼ完了した時、「わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。」とイエス様は言われました。
現在、イエス様の救いのメッセージの福音は世界中に広まっています。それは、神様が「主の栄光を国々の間で語り告げよ。その奇しいみわざをあらゆる民の間で。」とおっしゃっているからで、私たちは神様が福音伝道をやめよと宣言されない限り、伝え続けます。
神様が世界と私たち人間を創造された最終目的は、神様の栄光を表すためであり、私たちは栄光を神様に帰すために、そして神様の栄光を賛美するために創造されました。私たちが死に直面する時、神様は信じる私たちに愛と慈しみを表してくださり、天国へと連れて行ってくださいます。ですから私たちは、神様の慈しみに感謝して、神様の栄光を表し、福音を宣べ伝えてまいりましょう。