序
夏のお盆休みに入り、帰省する人が多くいらっしゃると思います。自宅から離れて実家に帰る人、反対に実家から旅立った家族を迎え入れる人、それぞれの思いがありながら、家族が一つの家に集まるか、集まることが出来なくとも家族に顔を出す時期となっています。今回の聖書箇所でも、父の家という場所が登場します。私たちが住み慣れている自宅でも、家族の集まる実家でもない、私たちの父の家があるとイエス様によって語られています。そこは一見すると自分たちには関係のない場所のように思われますが、私たち一人ひとりのために用意された、確かな約束の場所です。この父の家とはどのようなところなのか、どのようにしてその家に行くことが出来るのか、聖書箇所を見ながら共に教わりたいと思います。
本論
今回お読みした聖書箇所は、イエス様が十字架にかかられる前の晩、弟子たちとの最後の晩餐で語られたものでした。イエス様はこの場面の中で、ご自身が十字架にかけられることを語り、そして、弟子の一人であるシモン・ペテロがイエス様を三度否定することも予言されました。イエス様がこれからどこに行かれるのか、他のユダヤ人たちも含めて、イエス様の十字架とその先に辿る道をまだ誰も知ることが出来ずにいました。弟子たちの間に困惑した雰囲気が漂う中で、イエス様はご自身が向かわれるところについて語ります。
ヨハネ 14:1 「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
ヨハネ 14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。
ヨハネ 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
弟子たちは、この地上における現状、出来事に関心が向けられていました。またユダヤ人たちは、イエス様に対して、この地上の王となってイスラエル人を導き、ローマの支配から解放されることに期待していました。律法学者たちは、自分たちの権威や自分たちが重きを置いていた地上の規律に縛られ、イエス様の真理を受け入れることが出来ずに、むしろ排除しようとしました。イエス様はここで、弟子たちの視点を地上から天へと向けさせます。父なる神様と御子なるイエス様の関係と、天における希望が、弟子たちが抱える不安と、これから辿ることになる苦難に対して心を騒がせない支えとなります。イエス様が前回の箇所で、「わたしが行くところに、あなたがたはいくことが出来ない」と語り、この地上を去って行かれるのは、弟子たちが天の領域において完全に受け入れられるようになるためです。そして彼らは、父の家にて神様とともに永遠に住み、神様を喜ぶことが出来ます。弟子たちは、イエス様が自分たちのもとから離れてしまうことに不安を覚えますが、その先には明確な希望がイエス様によって用意されているのです。イエス様が用意しに行く行為、つまり十字架と復活が弟子たちを天の父の家へと導きます。その家は、イエス様に導かれた者が誰も不安を覚える必要がないほどに住むところがたくさんあると語られます。信じる者たちがその御許に行くために、場所や数の上限はないため、来た人たちが追い返されることも、住んでいて追い出されることもありません。父の家に着いた時、神様から排除されたり、離れることを恐れる必要はないのです。イエス様はこれからその住まいを備えるために弟子たちから一時離れますが、その先は、イエス様がいるところに彼らも永遠にいることが出来る約束へと繋がっていきます。イエス様はそのような場所を用意するだけでなく、終わりの日の再臨も約束されます。信じるすべての人がこの希望から外されることなく、慰めを受けることが出来るのです。永遠のうちに神様とともにいるという励ましは、時と場所を超えてすべての人の上に注がれるのです。
イエス様から示された神の国の励ましと希望について、弟子たちは正しく理解できずにいます。弟子の一人であるトマスは、すでに投げかけられた問いを再びイエス様に投げかけます。「どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」この問いにおける「道」について、イエス様はさらに一歩踏み出して答えます。
ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
ヨハネ 14:7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
質問をしたトマスは、イエス様が「行く」、「道」と言われたことを、物理的な意味として受け取りました。イエス様が行かれるところは、物理的な場所ではなく父なる神様の御許であり、その目的のところへ行く道も、物理的なものや方法ではなく、イエス様ご自身です。イエス様と神様の繋がりは決して切り離されることはありません。父なる神様に至る道は、神様ご自身についての真理を知り、そのいのちに与ることにあります。イエス様は、天から下り、受肉された地上の生涯を通して、人々に神様を証しし続けてきました。そして十字架上の贖いの死によって、人々が神様を知り、神様のいのちに与ることが出来る道を開かれました。神様を語り、その御心を行うものとして神ご自身から遣わされ、言葉が人となられた真理なるお方がイエス様です。またイエス様は、ご自分のうちにいのちを持ち、よみがえりであり、いのちです。イエス様が真理であり、命であるお方だからこそ、人々を父のみもとに導き、父の家にある多くの住むところへとつなげる道であり、トマスや弟子たちへの答えそのものなのです。イエス様が道を切り開き、他の者に対して自分の後について来るように命じているのではありません。イエス様は救い主であり、神の羊であり、神様への道そのものです。この道は唯一です。この時のユダヤ人たちは、旧約時代の啓示に基づいて神様をよく知っていると言いながら、イエス様を否定していましたが、神様だけを受け入れる信仰では父のみもとに行ったということが出来ません。聖書が証ししているのはイエス様ご自身についてであり、このお方は真理といのちを求めた先におられ、決して避けることが出来ない道です。私たちが父なる神様と繋がり、結びつくために、どれだけ自分の知恵や力をもって道を切り開いても辿りつくことは出来ません。私たちの方からではなく、神様の方から示された道を信じて歩むことで、みもとに行くことが出来ます。信じる者が一人として滅びることがないように、天から遣わされた御子なるイエス様が、私たちを父のみもとへ導くのです。イエス様は弟子たちに、わたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになると語ります。イエス様とともに行動し、教えを聞いてきた彼らは、すでに神様を知り、神様のところに行く備えが与えられていました。イエス様は弟子たちに今、この真理を受け取り、永遠のいのちを得るように迫ります。しかし、他の弟子であるピリポは、「私たちに父を見せて下さい。そうすれば満足します」と要求しているところから、まだ彼らが神様を知ることが出来ないことが分かります。ピリポの不満は、途中の道を飛ばして、知ろうとしないで、直接的に分かりやすく御父を見ることが出来ないのかという疑問から生まれています。彼は、イエス様と長い間ともにしてきましたが、これまで証しされてきたイエス様の人格と、神様の真理を正しく理解していませんでした。
イエス様は一貫して、ご自身が独自に神の権威を持っているのではないこと、いつもイエス様とともにおられ、イエス様のうちにおられる父なる神様が、わざを通して示されたことを教えます。神様を直接求める人々に対して、イエス様は神様との完全なる一致によって答えます。人となってこの世にこられた神様は、人々の社会の中に身を置き、その生涯を通して神様を示し続けました。イエス様がこれまで語られた教えやみわざは、ご自身の栄光のためではなく、父なる神様の栄光のためです。父と子のつながりによって、私たちは神様とともにいるつながりを与えられます。そのためにイエス様は、神を信じ、またわたしを信じなさいと語られました。父と子のつながりを隔てることは出来ません。イエス様は、これまでの箇所で繰り返し、この一致を教え続けてきました。イエス様がこれまで起こされたしるしは、ただ素晴らしい奇跡をもって人々を助けるだけでなく、神様のみわざ、救いがイエス様を通して働かれること、イエス様との結びつきが確かなものであることを表しました。そしてイエス様の十字架によって、神様の栄光が地上に表され、救いの道を示されたのです。このお方にとどまる時、私たちは確かに神様のもとへと向かうことが出来ます。
適用
イエス様と神様の一体性の中に、私たちは希望と確信を持つことが出来ます。弟子たちは、イエス様が語られた御言葉をこの場で知ることが出来ず、どうしたら道を知ることが出来るのか、どうしたら父を見ることが出来るのかと、直接的に分かりやすい答えを求めました。イエス様が彼らに答えたのは、ただイエス様ご自身の真理です。私たちはイエス様を通してでなければ、神様のもとへと辿りつくことが出来ません。この道を飛ばして、目的地である父の家に、永遠のいのちへと至ることは出来ません。イエス様によって、私たちは神様とともにいる希望へと繋がっていきます。私たちは、この世に生きている間、それぞれの家を持ち、そこを拠点として生活します。家族のいる実家で生まれ育ち、時が来たら実家から巣立って自分の住む家を用意し、様々な都合で住むところを移すことになれば、時間と労力をかけて新しい家を用意します。この地上において、それぞれの家で住んできた私たちは、いずれこの地を離れ、この地で住むところを手放すことになります。しかし私たちは、地上の家から離れた後にも、住む場所があります。父の家にある住むところが、私たちのためにすでに用意されています。それは、私たちが自分の努力によって手に入れるものではなく、ただ神様からの恵みによって与えられるものです。罪によって父なる神様から離れ、関係が失われた私たちを、イエス様はご自身のいのちによって救い、父のみもとで永遠に生きる道となってくださいました。私たちは、この地上や、形あるものに望みを置くのではなく、イエス様を通して示された確かなる永遠の約束に希望を抱くことが出来るのです。私たちが歩む道の先にあるのは、父なる神様と永遠にともにいるところです。私たちを完全に満たし、御子を与えるほどに愛して下さるお方が、その家で迎え入れて下さいます。
結
私たちはこの地に生まれ、それぞれの時が来るまで生涯を全うします。その歩みを進めていくうちに、私たちの心はこの世に縛られ、その目は形あるものに奪われていきます。その心と視線を、共に天に向けていきたいと思います。私たちの希望は、朽ちるこの世でなく、父なる神様のもとにあります。最後にパウロの言葉が記されたコリント人への手紙第二4:18-5:1を読みたいと思います。
2コリント 4:18 私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。
2コリント 5:1 たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。
神様は愛する私たちのために、天に永遠の住まいを備えて下さっています。そしてそこに至る道も、私たちの前にすでに用意されています。イエス様という道を通して、共に父のみもとに向かいましょう。