序
イエス様と弟子たちのやり取りを見ていく中で、イエス様はご自身が弟子たちから離れることをお示しになりました。イエス様がどこに行くのか、なぜ離れるのか、弟子たちはまだ理解できずにいますが、時が近づくにつれて彼らが不安を覚えている様子が分かります。彼らにとってイエス様は尊敬する先生であるとともに、イスラエルをローマの支配から解放してくれる力ある王という期待もありました。そのイエス様が離れたら、残された自分たちは一体どうなるのか、彼らは恐れを抱きます。イエス様は、そのような弟子たちや、イエス様が天に上げられた後のクリスチャンたちに御言葉をもって約束されました。イエス様がこの世から離れた後に生きる私たちに、イエス様は何を示されたのか、そして、私たちはどのように歩みを進めるべきなのか、聖書を順に追いながら共に見ていきましょう。
本論
1.さらに大きな
前回の箇所では、天にある父の家と私たちの住まいについて見てきました。そして、イエス様は父なる神様と私たちをつなぐ唯一の道であることも教えられました。私たちに与えられているのは、この地上に縛られない、天における希望です。私たちはイエス様という道を通ることで、この地上の生涯を終えた後、先に上げられた方々と共に父の御許で永遠に過ごすことが約束されています。そのために、イエス様は神様とご自身を信じるように教えます。
天における希望が語られ、父と子の深いつながりが語られた後、イエス様は弟子たちとこの地上における信仰の歩みへと話を進めます。イエス様は、人々の間で多くのしるしを行い、父なる神様との確かな結びつきを示されました。そしてここでは、弟子たちがそれよりもさらに大きなわざを行うと語られます。さらに大きなわざという言葉は、原文のギリシャ語ではmeizonaという言葉になります。文字通りに読むと、「さらに大きなこと」となります。イエス様が復活された後の弟子たちの働きは、イエス様の地上の働きよりも、質においてではなく、その影響の及ぶ範囲において大きいことを意味します。イエス様は確かに人々の間で多くのことを行いましたが、ほとんどイスラエル人の社会の中に限られていました。人の姿で来られたイエス様は、時間的にも空間的にも縛られていました。しかし、イエス様が父のもとに行くと、イエス様の助けはこの世のあらゆる時と場所において弟子たちに与えられます。イエス様を信じる信仰は、その救いと福音を、異邦の土地にまで広げ、この世の多くの人々に届けられました。イエス様は、そのような意味で、まだ戸惑いを覚える弟子たちがさらに大きなことを成し遂げると語られました。イエス様がいのちを捨て、復活し、父の御許に行くことで、世のすべての人たちが神の民として一つの群れとされることが可能とされました。
イエス様は、世界が創造される前から父と持っていた栄光を受け、さらに弟子たちの祈りをとりなして下さいます。信じる者の祈りは、イエス様の御名によって求めることで、イエス様ご自身の祈りにまで高められます。それは、自分の願い事がなんでもかなえられる魔法のような意味ではありません。イエス様が地上においてささげた祈りは、自分ではなく父なる神様に対する従順さを表していました。そのイエス様の名によって求めるということは、イエス様の意志に従うことであり、その従順な祈りは応えられるとともに、父なる神様に栄光をもたらすのです。イエス様が地上を去って父の御許に行かれるということは、この世でのイエス様の影響力が失われてしまうという意味ではなく、祈りの力によって、その影響力がイエス様がおられた時以上に大きく広がるということです。イエス様の御名によって祈るように言われたイエス様は、いつも父なる神様の御前で、私たちのささげる祈りのためにとりなし、仲保者として立ってくださいます。
2.助け主
イエス様が離れた後、弟子たちはこの地においてさらに大きなことを行うようになります。その展望を成し遂げるために、天だけでなくこの地において神様が現れる必要があります。イエス様は最後の晩餐にて、ご自分の者たちへの愛を示し、彼らに対する愛を宣言し、また互いにも愛し合うように教えられました。そして15節では、イエス様に対する愛について彼らに語ります。イエス様がこの箇所で語るのは、イエス様への愛とイエス様への従順の結びつきです。イエス様は15節でこう語ります。
John 14:15 もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
イエス様の戒めに対する従順は、律法主義的な態度や感情のない機械的なものでもなく、イエス様に対する心からの温かい愛によって可能となります。「守るはずです」という言葉は、ギリシャ語で見てみますと未来形の動詞の形になっています。直訳的に読むと、「あなたがたはわたしの戒めを守るでしょう」という文になります。イエス様を心から愛する時、その戒めを忘れず、喜びの中でそれを守るようになります。自分自身の思いや力によるのではなく、イエス様への愛が私たちをその従順へと導いていくのです。そしてそのような者たちのために、イエス様は父なる神様に願い、もう一人の助け主をお与えになります。
John 14:16 そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
John 14:17 この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
助け主はギリシャ語でparaklētosと言われます。この言葉は、「そばに呼ぶ」という動詞が名詞になった形であり、必要な時に特別な助けを与える助言者、慰める者、また法的な弁護人という助け手という意味があります。しかしそれだけでなく、paraklētosには代表者という意味もあります。これからこの世を去る御子イエス様の代わりに、代表者として来られるのが聖霊なのです。ヨハネの手紙第一2:1ではイエス様を「御父の前でとりなしてくださる方」と呼んでいますが、このとりなしてくださる方も同じparaklētosというギリシャ語が用いられています。イエス様が最初の助け主として来られ、現在は天において弁護人としてとりなして下さいます。そしてもう一人、同じ助け主として聖霊がこの地上に送られ、いつまでも、私たちとともにおられ、導き、助け、励ます存在として、その人のうちに住んで下さいます。この助け主をイエス様は真理の御霊と呼ばれました。この方は、真理を明らかにし、信じる者たちのうちにいつまでも住み、真理なる方であるイエス様を証し続けて下さいます。イエス様の贖いのわざが成就された後、この御霊が弟子たちの力の源となり、真理の導き手となるのです。しかし、この真理の御霊は世に受け入れられないとも語られます。物理主義的なこの世において、人々の目に見える形や、知識によらずに、イエス様ご自身がこの地上にてなされた務めを果たすのです。
3.孤児にしない
もう一人の助け主が遣わされることが約束されましたが、それはイエス様が弟子たちから完全に離れ去ってしまうことではありません。父の御許に行き、聖霊が遣わされる前に、イエス様は栄光の体をもって弟子たちの前に姿を現します。弟子たちは、十字架の死によってイエス様と悲劇的に引き離されるのでなく、イエス様の復活によって勝利し、そのいのちにあずかることを確信させられるようになります。イエス様が復活して弟子たちの前に現れるその日、弟子たちは、これまで理解できず疑問に思っていた父と子の密接な関係が分かるようになります。そして、彼ら自身もイエス様との親しい交わりに加えられ、そのうちに生きていることを認めるようになるのです。弟子たちはイエス様の復活の日から、その御言葉を理解し、変わり続けていくのです。信じる者は、イエス様から完全に切り離されて孤児とされることなく、むしろ復活のいのちに与り、豊かな交わりの中に入り、生きていく歩みが与えられます。
イエス様は21節から、再びイエス様への愛と戒めの結びつきへと話を移します。父と子が愛によって結ばれているように、弟子たちを、父と子は愛されます。そして、彼らにイエス様はご自身を現わされます。それは、復活の体をもって弟子たちの前に姿を現すだけでなく、すべての時において、あらゆる信仰者にもご自身を現わすことを語られました。イエス様が天に上げられた後も、イエス様を愛し、従う人々に対してイエス様は現れ、この世ではない霊的な知識が私たちにも与えられます。
しかし、イスカリオテではないもう一人のユダは、このイエス様の言葉に疑問を抱きます。イエス様が現れるのが信じる者たちだけであることは、イエス様の力を限定してしまうことだと考えています。イエス様が復活されるのならば、クリスチャンかどうか関係なく、この世のすべての人に示されるべきであるという思いが、ユダの言葉から現れています。
イエス様はユダの疑問に対し、イエス様に対する愛の有無によって答えます。
John 14:23 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
John 14:24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。
イエス様が現れるのは、愛における交わりの中です。不信仰の世において、そのような啓示を人々に突き付けても、神様の前に心を頑なにする人には悟ることが出来ないと語ります。ルカ16:31でも、イエス様はたとえ話の最後にそのことを語られました。
Luke 16:31 アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」
イエス様を愛さない人は、イエス様のことばを守らないとイエス様ははっきりと語られました。イエス様を愛し、その御言葉と戒めを保ち、守ることで、その心に主が表され、そしてともに住むようになります。イエス様は旧約の時代から示された神様の約束を真に成就される方です。使徒の時代に入って、全世界に福音が広く宣べ伝えられた今の時代においても、イエス様の愛が、私たちのうちに神様が臨在する道となるのです。
適用
イエス様は十字架の前夜に、ご自身がこれから向かう十字架の死を弟子たちにはっきり語られました。弟子たちはイエス様に、これからこの世に力を表し、地上の王国を築き上げてローマを滅ぼすことを期待していました。しかし、その期待とは裏腹にイエス様が彼らから離れることが語られ、その真意が理解できず戸惑いを覚えます。イエス様と共に過ごし、多くの経験をしてきた弟子たちは、イエス様がおられない世界に対して期待を持つことが出来ませんでした。しかし、イエス様はこの地上に残る弟子たち、そして後の時代に生きる私たちを励まし、約束を与えました。命を捨てることで私たちから離れ去り、私たちを孤児にはしませんでした。イエス様は、ご自身が天にあげられた後に、福音がさらに広がり、国や血筋を超えて、当時では考えられないほどに多くの人々が救われました。私たちのうちに助け主なる聖霊を与え、ともにいてくださるようになりました。イエス様が地上におられる間は、イエス様ご自身が助け主でした。弟子たちの信仰のために祈り、パリサイ人たちに訴えられた時には弟子を弁護しました。生まれつきの盲人がその証言と信仰によって会堂から追い出された時、イエス様は彼に救いの手を差し伸べられました。イエス様が捕らえられる際には、弟子たちを去らせるように願い、敵からの攻撃をご自身に向けさせました。イエス様が天に上げられた今、聖霊がもう一人の助け主として、私たちとともにおられます。そして、私たちは父と子の愛の交わりに加えられ、決して切り離されることのない愛によってイエス様と結びつきました。私たちは、この地上の歩みにおいて、信仰における孤独を感じることがあります。しかし、イエス様は時間と空間を超えて、聖書の時代から2000年以上経った今も、私たちに確かな約束を与えました。イエス様が地上におられなくとも、私たちのうちには助け主がおられ、主の愛が満ちていて、主との確かな結びつきの中に生きていくことが出来ます。イエス様は、天における住処を用意するだけでなく、今も私たちを見捨てることなく共に歩んで下さいます。
結
イエス様は、ご自分を愛するかと私たちに問います。私たちは自分の力や努力だけで御言葉に従うのではなく、私たちのうちにいて下さる真理の御霊によって助けられながら、その戒めを守るように導かれます。イエス様の愛に応じて、その心を開き、信じて受け入れる時に、私たちは神様との豊かな交わりの中で生きていくことが出来ます。私たちをその恵みによって愛して下さったイエス様を、心から愛し、共に生きる喜びを一緒に分かち合いましょう。