8月31日 ルカ19:1-10 「主はあなたを求めておられます」

19:1 それからイエスはエリコに入り、町の中を通っておられた。

19:2 するとそこに、ザアカイという名の人がいた。彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

19:3 彼はイエスがどんな方かを見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

19:4 それで、先の方に走って行き、イエスを見ようとして、いちじく桑の木に登った。イエスがそこを通り過ぎようとしておられたからであった。

19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。

19:7 人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言った。

19:8 しかし、ザアカイは立ち上がり、主に言った。「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」

19:9 イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

19:10 人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」

導入

 皆さんは、大切なものを失くされたことがありますか。私は特に携帯を失くすと言いますか、置き忘れる時が時々あります。必死に探すのですが、何かの下に隠れていたりして、なかなか見つからない時があります。そんな時は、妻が私の携帯に電話してくれて、見つかる時が多いのですが、マナーモードにしたままの時は祈りつつ探すしかありません。

 そのように、大切なものは必死に見つかるまで探し続けます。

 イエス様は、今日の話の少し前に、 「あなたがたのうちのだれかが羊を百匹持っていて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ、 家に戻って、友だちや近所の人たちを呼び集め、『一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うでしょう。あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」とおっしゃいました。

 今、自分は何のとりえもないちっぽけなものだと考えておられる方はいませんか。愚かで弱い者だと悲しんでおられる人はいませんか。そのような人に手を差し伸べてくださるお方がいます。それはイエス様です。イエス様は神様にすがることも出来ない「失われた者を捜して救うために来たのです。」とおっしゃっています。

 今日はそのような人にとって、良い話だと思います。

本題

 この話に登場するザアカイもそんないなくなった一匹の羊、そのままでは永遠の滅びに向かってしまう人でした。

 今日の話の前半ではザアカイがイエス様を必死に求める話が語られ、後半では、イエス様がザアカイを探し求められ選んでくださった話が語られています。

 ザアカイはユダヤ人を支配していたローマ帝国に雇われて、同胞のユダヤ人たちから税金を集めていた取税人のかしらでした。悪いこともしていて、ユダヤ人たちを脅したり、だましたりして必要以上に支払わせて、自分のふところに入れていました。ですから、お金持ちでしたが、ユダヤ人たちから嫌われ、のけ者にされていました。友人もなく一人ぼっちで、寂しい思いをしていたことでしょう。人から恨まれて生きていることが嫌になっていたかもしれません。お金がいくらあっても、幸せにはなれないことが身に染みてわかっていたことでしょう。また、悪いことをしてお金を人々から巻き上げてきたことを、悔やんでいたことでしょう。また取税人は、ローマの手先となっていたことから、ユダヤ人社会で最も憎まれ、卑劣な金持ちの害虫たちとも呼ばれていたと言われています。シナゴーグというユダヤ教の礼拝所の人たちからものけ者にされ、お金はあっても、社会で最も低く見られ蔑まれていた人たちでした。

 そのような中で、取税人のレビにイエス様が「わたしについてきなさい」と言われ、レビは招きに応えて、イエス様の弟子となり「神様の贈り物」という意味のマタイという名前をいただきました。レビは人々から見ると弟子となるのに最もふさわしくない人で、神様から徹底的に厳しい裁きを受けるようにと人々から願われていた人でした。そのレビをイエス様が探し出され、名前の通り、人々への神様からの贈り物となりました。

 この同業者レビのことをきっとザアカイも聞いていたことでしょう。

 ザアカイは噂に聞いているイエス様がエリコに来られたということを聞いて、一目でもお会いしたいと思いましたが、人だかりでみることができませんでした。そして背が低かったので、先の方に走って行ってイチジクのような実がなる大きないちじく桑の木の枝によじ登って高いところから見ていました。ザアカイにとって、ローマがいつも人々を虐待していて、それに雇われている自分を恨んでいる群衆の中に入ることは危険でしたが、イエス様にお会いできることが一番でしたから、そんなこと気にしていられませんでした。

 イエス様は、木に登っていたザアカイを見つけられました。イエス様は神様のご覧になる目で、初対面でもザアカイとお分かりになったのです。そして、木の下から上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」と以前からザアカイの家に泊まるご計画だったことを語られたのです。初対面のイエス様が、以前からザアカイの名前をご存知で、やさしく呼んでくださり、人々からのけ者にされてきた自分を選んでくださったわけですから、これ以上うれしいことはありません。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエス様をお客様としてお迎えしました。

 「人々はみな、これを見て、「あの人は罪人のところに行って客となった」と文句を言いました。」今までザアカイに敵意を表していた人々が、今度はイエス様へと敵意を向ける方向を変え始めました。「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」というイザヤの預言どおりに、イエス様はザアカイが人々から受けていた軽蔑と憎しみを引き受けてくださったのです。イエス様は群衆の中から、ザアカイの名前だけを呼んでザアカイを選んでくださり、家に泊まり、親しく交わってくださいました。そのイエス様の愛と恵みがザアカイを変えました。そして「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」という悔い改めの、心からの言葉がザアカイからあふれ出ました。

 そしてイエス様が「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」とザアカイのことを指して「あなたは今日救われました!」とザアカイが救われたことを宣言されたのです。

 パウロが「信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。」と言っていますように、ザーカイは、アブラハムと同じように、イエス様を素直に信頼し、イエス様に従っていました。ですから信仰によるアブラハムの子だとイエス様がおっしゃってくださったのです。アブラハムは神様の祝福のお約束だけをただ信じて、命令通り、素直に神様が示す地、カナンへ行きました。同じようにザアカイもこの時、イエス様がザアカイのところで泊まることにしているからと、ザアカイを選ばれたイエス様に信頼し、喜んで木から降りて来て、イエス様をお迎えしました。そしてそれまでやって来た悪いことを悔い改め、ザアカイの価値観や生き方すべてを変えたのです。ザアカイは自分のすべてをイエス様に委ねました。ですから命令に素直に従うことができたのです。イエス様を信じている人は、信仰によって生きていますから、私たちも信仰によるアブラハムの子孫です。

 この時注目したいのは、ザアカイはイエス様に自分への愛を求めました。そしてイエス様もザアカイがイエス様を愛するように求められました。その両方が神の主権的なお導きの中で行われたということです。この出会いは世界が神様によって創造される前、ザアカイが生まれる前から定められていたのです。使徒パウロもエペソ1章4節5節で「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」と救いのご計画を語っています。

 そして第一コリント1章27、28節で「しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」と言っていますように、神様の御前にへりくだり、悲しみながら、自分を愚かで弱いものと認め、取るに足りない無に等しいものだと、心から認めている人を顧みてくださいます。私も自分に自信を失った時いつも、このみことばによって励まされてきました。イエス様は、ザアカイと出会う前からすでに、ザアカイのことをご存知でした。イエス様は神様の救いのご計画の中で、愚かで罪を犯してしまう自分を悔い改めて、神様を求める人をご自分に引き寄せられ、涙を流しながら、手を差し伸べてくださるのです。そのような人は神様の創造してくださったとき以来の救いのご計画の中で救われたのです。それがザアカイに起こったことでした。イエス様はへりくだられ、人となってお生まれになり、十字架の死にまで従われ、究極の弱い者となられました。ですからイエス様はへりくだり、悲しみながら、罪深い、自分の弱さを認める人間のことを分かってくださるのです。イエス様は私たちのいる社会の底辺のところまで、低くなられたのです。そしてこの時ザアカイにも手を差し伸べてくださったのです。

結論

 イエス様は今自分の心を開いて、イエス様に救いを求めようとしている人たちに向かってザアカイと同じように 「降りて来なさい。わたしはあなたと食事をしたいのです。あなたの魂を救いたいのです。わたしはあなたを探し求めてきました。わたしは人の子です。わたしは畏れ敬われる神ですが、わたしはあなたの罪のために十字架の上で死にました。ここへ降りて来なさい!」と招いてくださっています。イエス様は救いを求める人に応えてくださり、いつも共にいて守ってくださり、永遠の救いを与えてくださいます。まだイエス様のお招きに応えておられない方は、イエス様に自分のすべてを委ねてみませんか。

About the author: 東御キリスト教会

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