序
イエス様が十字架を前にして弟子たちの前に語り続けた別れの説教を前回まで見てきました。13章から始まり、弟子たちに向けて告げられた御言葉は、イエス様がどのようなお方であるのか、そしてこれから十字架と復活、聖霊の降臨の時が訪れると教えてきました。前回の箇所では、イエス様が世にすでに勝利し、その事実が私たちの大きな励ましとなることを教えられました。世において苦難に会い、つまずきそうになる私たちに、イエス様は十字架と復活による勝利を分かち合います。かつての弟子たちがそうであったように、私たちもイエス様によって確信を持って平安を得ることが出来ると教えられました。
今回の箇所では、弟子たちへのメッセージを語り終えたイエス様の祈りが始まります。17章は、十字架を前にしたイエス様による「大祭司の祈り」と呼ばれる箇所です。今回はその中から、冒頭にあるイエス様ご自身の祈りを見ていきたいと思います。イエス様が神様から遣わされたお方であることを、私たちはこれまでの聖書箇所から語られてきました。十字架にいよいよ向かうイエス様が求める栄光とはどのようなものなのか、そしてこのお方によって私たちが何を受けるのか、共に聖書から見ていきましょう。
本論
イエス様は弟子たちに、これから訪れる時がどのような意味を持つのかを明らかにしました。イエス様から弟子たちに神様の御心を教える務めは16章で終わり、17章からは祈りによる執り成しの務めを全うしようとします。この箇所の祈りは、福音書にあるイエス様の祈りの中で最も長く続いたものであり、地上で、イエス様が十字架にかけられる前、つまり公生涯の終わりにあたって、神様と民の間に立つ大祭司として執り成すためにささげられました。目を天に向けるという姿勢は、ユダヤ人の祈りの姿勢として一般的なものです。今まで弟子たちに目を向けていた子なるイエス様が、今度は父なる神様に目を向けて、父との深い人格的な交わりの中で、信頼を込めて父よと呼びかけています。17章ではイエス様ご自身と、イエス様が旅立った後に残される弟子たちの守りと、弟子たちの働きを通して信じるすべての人々のために祈られます。十字架を目前にしたイエス様は、ゲッセマネの園に行く前に、ご自身が父のみもとに行くことを告げ、そして選ばれた者たちがこれから辿る歩みに対する深い願いを祈ります。ご自分の時、つまり十字架による苦難の時が来たことを知っておられたイエス様は、時が来ましたと父なる神様に呼びかけます。しかしそれは同時に、イエス様の栄光が現わされる時でもあります。イエス様は、ご自分の命を捨てることによって父なる神様の栄光を現すことが出来るように、そしてそのために、これからイエス様が受ける受難と死がご自分の栄光を現す機会となるように祈られました。時が来たことを知ったイエス様が祈ったのは、十字架の苦しみを受け入れるというだけでなく、御子の栄光を現すためでもあります。栄光を現すというのは、他でもない天の栄光によって高めることをここで表しています。イエス様がこれから辿る道は、栄光とは程遠い屈辱と苦しみに満ちた十字架の道です。しかしイエス様はそのような死に至るまで父なる神様に忠実になり、その先にある唯一の神様からの天の栄光を求めて祈ります。
イエス様が栄光を求めるのは、賞賛を目的としているからでなく、子が栄光を受けることによって、神様の栄光を世に現わすためです。ヨハネの福音書では、父なる神様と子なるイエス様の密接な関係を示しました。イエス様の十字架は、神様の栄光をこの世に現わし、イエス様を通して父なる神様を知り、賛美し、礼拝をささげるように導きます。父と子という深い関係において、イエス様が世に来られた目的が果たされるようになります。
イエス様が受ける受難は、イエス様だけでなく、すべての人にとっても重要な時となります。イエス様が子の栄光を現すことを求める理由が2節で語られています。
John 17:2 あなたは子に、すべての人を支配する権威を下さいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです。
イエス様はすべての人を支配する権威を持っていました。それはイエス様ご自身が持っていたものでなく、父なる神様による権威の賜物であり、永遠の昔から与えられたものでした。すべての人という言葉は、直訳するとすべての肉という言葉になりますが、これはユダヤ人が人類全体を指す際に一般的に用いられる言葉です。イスラエルだけでなく、全世界の全ての人たちに対してイエス様は権威を持ちます。イエス様に権威が与えられたのは、全世界のすべての人が永遠のいのちを得るためです。権威を持ち、世の人々が救われるために、イエス様が卑しめられ、死を受け入れ、復活し高められるという贖いの計画がなされました。
この永遠のいのちを与えられるのは、あなたがくださったすべての人とあります。先ほどのすべての人とは違い、ここでは神様からいただいた人全員を指しています。3:16で「御子を信じる人が一人として滅びることなく」とあるように、イエス様というまことのぶどうの木に繋がり、とどまるクリスチャンがすべて、木の幹から永遠のいのちという恵みを受け取るのです。この贖いのご計画を通して、イエス様は栄光を受け、人々は御子と御子を遣わした御父の信仰へと導かれるのです。十字架の時、イエス様を取り除こうとする世が喜び、弟子たちが悲しみに暮れることになります。しかしこの苦難の時こそ、人々を支配し、賜物を与えるイエス様の時なのです。信じない者にとってイエス様の苦難は、審判の時であり、信じる者にとっては、永遠のいのちという賜物が与えられる時となります。
イエス様が権威を神様から授けられ、永遠のいのちはイエス様によって与えられることがはっきりと示されます。そしてイエス様による永遠のいのちの賜物についても、父と子の結びつきが関係し、私たちの救いにおいて切り離すことが出来ないことであることを聖書は教えます。
John 17:3 永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
御子が栄光を受ける時、父なる神様も栄光を受けます。そしてイエス様の十字架がなされる時、栄光に満たされると共に永遠のいのちの道が開かれます。2節で語られた「あなたが下さったすべての人」は、神様とイエス様を知る人のことを言っています。永遠のいのちは、唯一のまことの神様を深く知ることによって賜物として与えられることになります。「まことの」は原文ではalēthinosというギリシャ語で、15:1にある「まことのぶどうの木」で用いられているのと同じ単語です。これは偽りに対する本物、本当のという意味を持ちます。他の存在でなく、神様を「唯一の」「まことの」お方として知ることがただ一つの道なのです。そして神様を知るということは、イエス様を知ることと切り離すことは出来ず、確かな救いの道として私たちに示されています。父のふところにおられるひとり子の神イエス様が、神を説き明かされる唯一のお方であり、父と子の結びつきを無視して神様だけを知るということは出来ないのです。神様とイエス・キリストによる知識というのは、単なる情報や頭で知るというだけにとどまらず、まことの神様との継続した深い交わりの経験と、そこにとどまるという信仰を指しています。表面的な知識でなく、神様とイエス様との交わりに入り、自分の中にイエス様がとどまることを受け入れ、自分自身もイエス様にとどまることによって、私たちは神様とイエス様を知るということが出来ます。
イエス様は地上の生涯を通して、神様の愛を人々に現わしました。イエス様の語られた御言葉、行い、すべてのことは、神様の願いに基づくものです。それば人々が罪を赦されて神様と和解する時によって経験することの出来るいのちの豊かさを、喜びをもって味わうという願いです。神様との和解をもたらすためには、動物でない完全ないけにえがささげられなければなりません。全き罪のいけにえとして、イエス様がご自身のいのちをもって犠牲となられました。動物のいけにえは繰り返しささげられなければなりませんでしたが、完全ないけにえである子羊なるイエス様がただ一度だけささげられたことによって、罪は贖われ、永遠のいのちの賜物はすべての信じる人たちに与えられるようになりました。こうして、イエス様の生涯の目的は完全に果たされるのです。
John 17:4 わたしが行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました。
イエス様は、十字架の受難を前にして、確信をもってこの目的が果たされたことを語ります。わたしはすでに世に勝ちましたと完了形をもって語るイエス様の確信がここでも見られます。はるか昔より計画された贖いのみわざ、イエス様がこの世に生まれ、これから十字架によって死を受け入れ、復活し、天に昇られるという救いのみわざが、ここで果たされるのです。
イエス様は今、確信を持ってもう一度栄光が現わされることを祈り求めます。
John 17:5 父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を。
再び、イエス様は親しみをもって「父よ」と呼びかけます。幼子が父に対して親しく「愛するわが父」という意味を含めて呼ぶのと同じように、御子イエス様は、御父なる神様との深い交わりの中で栄光を求めます。世界が始まる前に一緒に持っていた栄光というのは、このヨハネの福音書の冒頭1章で明らかに語られています。
John 1:1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
John 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
John 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
イエス様は人としてこの世に来られた際、神様としての性質は持ちつつ、その神としての栄光は手放されました。今十字架と復活によって、イエス様は父から与えられたわざを成し遂げ、栄光の回復へと向かわれるのです。復活後の栄光の体をもって、神の右の座に着く時が近づいていることをイエス様は知っていました。そのために、イエス様は確信を持って、今父に目を向けて、祈りをもって求めるのです。
イエス様がこの世に来られた目的、それは私たちに永遠のいのちを与えるためです。イエス様が一粒の麦として地に落ちることで、当時の人々からすれば敗北に見えた十字架の上で、誰よりもへりくだることで、私たちはいのちの道を得ることが出来たのです。神であられながら人として生まれ、死に渡されたことによって、イエス様は栄光を回復し、そしてすべての人を支配する権威が現れます。世のすべてに打ち勝ち、すべてを統治される力をもって、イエス様は信じる者たちに救いを約束してくださいました。この力は、栄光は、確信は、何者によっても揺るがされることはありません。私たちはこの十字架を見る時に、私たちに与えられた永遠のいのちを覚え、滅びの道からいのちの道へと足を踏み出していくことが出来るのです。イエス様は今も、神の右の座で栄光をもって、私たちの救いのために執り成してくださいます。
結
私たちには、永遠という概念はあまりピンとこないかも知れません。世にあるものはいつか朽ち果て、常なるものは無い世界の中では永遠に確信を持つことが出来ません。しかし、天地が創造される前からおられた神様が、「わたしはある」と呼ばれる方が、永遠に生きておられる神様が、私たちをその御許に招いておられます。私たちは罪によって神様との関係が断絶させられ、交わりを持つことが出来ませんでした。しかし今、イエス様が十字架によって私たちを罪から贖い、私たちを清めてくださったことで、神様との和解がなされ、永遠の恵みに与ることが出来ます。滅びる者でなく、永遠に神様の御許で生きる者とされました。永遠のいのちは、神様を知り、イエスキリストを知ることで与えられます。道であり、真理であり、いのちであるイエス様を通して、神様の御許に行き、永遠の喜びを分かち合いましょう。
