2/1 出エジプト記15:22-27 「従順な人を祝福する神様」

導入

 今日の箇所では、乾き切った荒野の旅で、耐え切れなくなったイスラエルの人々が、不平を訴える大きな罪を犯したことが語られています。

 ここから神様は私たちに何を教えておられるのでしょうか、読み進めてまいりましょう。

本題

 モーセはイスラエル人を「葦の海」紅海から導き出し、シナイ山へと進み始めました。乾燥したシナイ半島のシュルの荒野からエタムの荒野へと横断しなければなりませんでした。彼らは三日間旅を続ける途中で、水を見つけることができませんでした。砂漠で水がないことは、いのちの問題でした。生死にかかわります。

 モーセは水があるといわれていた場所で、マーラーと言って苦いという意味の地へと民を導きました。しかし残念なことに、地名のとおり水は苦くて、飲めませんでした。

 「人々はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言いました。」これはイスラエルの民の最初の不平不満、つぶやきの恐るべき罪でした。彼らは、わずか三日前に経験したばかりの出来事、紅海における神様の愛による大いなる救いを忘れたのでしょうか。たった三日後の今、神様のしもべモーセに対して不平と呟きを口にしたのです。神様の恵み、偉大なお力とご愛、深いご配慮と備えを思い出さずにです。彼らは神様が水を必ず与えてくださると信頼すべきでした。祈りを捧げ、指導者モーセと主に水の場所を教えてくださるよう神様に祈り求めるべきでした。もし200万から300万もの人々が荒野の砂の上で一斉にひざまずき、危機を救ってくださいと神様に祈り求めたとしたらどうでしょうか。輝かしい信頼と勝利の姿が目に浮かぶようです。

 しかし、それはかなわぬ夢。彼らはまだまだ未熟な信者。神様を信頼せず、不安定で、この世の価値観に生きる人たちでした。不信仰で、神様が立てた指導者に不平を言い、愚痴をこぼし、つぶやきました。それは神様への反抗というもの。これが最初の恐るべき罪であり、イスラエルの人々はこの罪をこれからの旅で危機に直面するたびに繰り返し犯すことになります。

 不平や愚痴は神様に対する不信仰の表れであり、その証拠でした。私たちが不平や不満を口にする時、それは不信仰の現れです。神様のお力と良いお方であることを信じていない証拠でした。神様がすべてを支配しておられ、常に最善をなしてくださると信じていないのです。神様を素直に信頼する心があれば常に祈り、神様の助けを求めます。信頼する心があれば、決して人や状況に対して、特に信仰の仲間や、ましてや神様に愛されるしもべたちに対して不平や不満を口にしません。

 問題点は、不平や愚痴が神様のしもべモーセに対するものではなく、主ご自身に対するものだったということです。神様の御言葉を信じず、その声に耳を傾けないことが原因としてあります。人間自身の愚かさや罪によるものでもあります。不平や愚痴は神様によって厳しく裁かれることになります。

 それに対して、神様のしもべモーセはすべきことを正確に行いました。神様と二人きりになり、祈りの中で叫んだのです。すると主は驚くべきことをなさり、愛するしもべモーセと民の必要を満たされました。民の欲望と罪、不信仰と不平があったにもかかわらず、愛とあわれみの神様は彼らの必要を満たしてくださいました。神様はモーセに、水を清め飲み水として甘くする木を教えてくださいました。モーセはその木から枝を取り、水に投げ入れると、水は澄んで清められ甘くなりました。

 神様がイスラエル人の命を脅かす危機から救い出されたのには理由がありました。神様のしもべモーセが一人きりで神様に叫び求めたからでした。モーセは祈り、とりなしました。絶望の中、民を命の危機から救い出してくださるよう神様に祈り願ったのです。これは私たちへの大きな教訓です。

 イスラエル人が荒野で水を見つけられなかった時、神様はこの危機の背後におられました。神様は、イスラエル人が水を見つけられないようにと計画しておられたのです。なぜでしょうか?それは彼らを試すためでした。

神様が人々を試すのは、裁きと報いのためであり、真に神様を信頼しているかどうかを見るためでもあります。人々を謙遜にさせ、強め、忍耐と耐え忍ぶ心をますます学び、罪を犯さないようにするためであり、御自分に従うかどうかを見るためでもあります。それにより、人々の信仰を精錬し、正しい生活へと導かれるのです。

これから、イスラエルの民への荒野での神様の試みが始まります。

 主はこの時、ご自身の民と契約を結び、大きな約束をされました。神様は民に御自身の期待を告げられたのです。それは「従順であるように」ということでした。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない」と言われ、もし彼らが素直に従順に従うならば、神様は彼らを懲らしめない。しかし従わないならば、懲らしめざるを得ないということでした。少し前、神様はエジプト人を災いや病で苦しめることによって懲らしめなければなりませんでした。神様は、エジプト人の不信仰、神様を信じないことのゆえに彼らに裁きを下すことによって、イスラエル人を救い出されました。したがって、もしイスラエル人が神様を信じず、疑う罪を犯せば、イスラエルの民もエジプト人と同じ罰を受けることになるのです。

 その後、神様は愛する民に主の大きな慈しみをあらわされ、豊かな備えをしてくださいました。荒野のオアシスであるエリーム という地名で、ヤシの木々という意味の所へと導かれました。エリームは豊かな地でした。そこには十二の泉と七十本のヤシの木がありました。ここでは語られていませんが、民は不平や愚痴、つぶやきという恐ろしい罪を悔い改めたことから、神様は彼らを赦し、豊かな祝福を注がれたと思われます。ですから、神様の備えが愛する民の上に溢れんばかりに注がれたのです。 

 このことから私たちは、神様が私たちの必要をご存知で、豊かに満たしてくださること、私たちを喜びと満足で満たされることを知ることができます。神様は救いの泉から水を汲むように導かれたのです。

 神様は、たとえ私たちが人生の大きな試練に直面している時でさえ、常に私たちを緑の牧場に伏せさせ、静かな水のほとりに導いてくださいます。神様の備えは、どんな困難に直面しようとも、従順に従う私たちを守るのに十分なのです。

結論

 神様が民に「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら」と言われたこの命令を与えたのは、彼らの行いが神様との関係をどう実行して表すかを見るためでした。従順こそが彼らの信仰がどの程度であるかを見る試金石でした。このメッセージには約束と警告が含まれていて、従順には祝福を、不従順には呪いを伴うことを表していました。

 しかし神様の望みは祝福することであり、呪うことではありません。神様は民が失敗するよう試されるのではなく、従順を学ぶように試されるのです。後にモーセは20章20節で「恐れることはありません。神が来られたのは、あなたがたを試みるためです。これは、あなたがたが罪に陥らないよう、神への恐れがあなたがたに生じるためです。」と民に告げています。

 神様を信頼し従うことを学ぶ者には、大きな祝福があります。マーラーでの神様の命令には約束が伴っていました。もし民が従うなら、「わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒す者だからである。」と言われ、災いから救うだけでなく、病をも癒すといわれます。神様は癒される神としても自らを現されました。癒すという、ヘブル語ラーファーは比喩的に、人々の傷を癒すお方という意味をもっていて、それは回復させる、癒す、治すという肉体的な意味だけでなく、道徳的・霊的な意味においても癒すこと意味しています。マーラーで神様は苦い水をまさに癒し甘くすることで御自身の癒しの力を示されました。これは、あらゆる癒しにおいて神様を信頼するようイスラエル人に教えるためのものでした。神様の神様としてのご性質は、その癒す力にありました。神様は私たちのすべての罪を赦し、すべての病を癒す方です。

 イスラエルの民がたどり着いたエリームは豊穣の地でした。多くの木々は、地下水が尽きることなく湧き出ていることを示しています。そして、十二の泉と七十本のヤシの木の表している数字は、満ち足りた祝福を象徴しています。泉は十二、イスラエルの十二部族に一つずつ。木は七十本、イスラエルの長老七十人に一本ずつ。つまり万人に十分な量があったわけです。これは神の備えが豊かであるということです。神様は生きるのに必要なものだけを与えるだけでも十分ですが、繁栄できるほど与えてくださいます。神様は荒野でイスラエルの民の渇きを満たされました。新約の現在は神様の恵みの永遠の泉から、人々に慈しみを注がれ、あらゆる面で繁栄へ導かれます。

 神様は御子イエス様を救い主として遣わすことで、私たちに豊かな備えを下さいました。イエス様を信じ従うなら、必要なものはすべて与えられます。ピリピ4章19節で、「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と言われているとおりです。神様は神の国と神の義を求める人々に物質的必要も全て満たしてくださいます。日々の生活に真に必要なものは全て与えると約束されています。しかしそれ以上に、私たちの最も深い霊的必要、心の必要、つまり罪の赦しと永遠の神との交わりを満たしてくださると約束されているのです。

 マーラーとエリームの教訓は、イエス様を「いのちの水」として描くことで結び付けられます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」とイエス様ご自身が語られました。イエス様は聖霊について語っておられます。聖霊こそが、すべての霊的活力の清らかな源です。イエス様のもとに来ることは聖霊を受け入れることであり、聖霊と共に永遠に尽きることのない恵みが与えられるのです。イエス様のもとに来る者は皆、あらゆる面で深く満たされることを知ります。そして誰もがイエス様の下へ来ることができます。なぜならイエス様が、「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」と言ってくださっているからです。

 私たちは現在、キリストの初臨と再臨の間のいわば荒野を歩んでいます。主は一度、私たちを救うために来られ、天に戻られ、再び来られて私たちを約束の地、天の故郷へ導かれます。その間、私たちは長く困難な巡礼の途上にあり、神様はこの旅を用いて私たちを聖なる者として成長させられます。使徒の働き14章22節でパウロとバルナバは弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、「私たちは、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければなりません」と語りました救いは確かなものであり、神様は私たちを旅の終着点、天国に導かれます。しかし道は依然として険しいものがあります。失望や困難、落胆や疑いなどに出くわすでしょう。

 しかし信仰者がこの世という荒野を旅する中で経験する苦い水を乗り越える方法があります。それはイエス・キリストご自身です。ただイエス様だけが、人生の苦い水を甘くする力を持つお方です。罪で汚された水を飲み続けて病んでいる世の人々のために、御自身の命を注ぎ込み、生ける水で世界を満たされました。それは人の心の渇きを満たし、人に永遠の命を与える水です。

 神様は信仰者に試練を与えられ、真に神様を信頼しているかどうかを見られ、忍耐と耐え忍ぶ心を学ばせます。不平や愚痴を言うことなく、私たちの必要を豊かに満たしてくださる神様を信頼して従順に歩むことを神様は願っておられます。そのようにして私たちは真実な神様への絶対的な信頼を教えていただきます。従順こそが神様が私たちの信仰を見る試金石です。従順には祝福が伴います。イエス様を信頼し従うことを学ぶ人々には、大きな祝福があります。イエス様は人生の荒野で渇きを満たされ、ご自身の恵みの永遠のいのちの泉から、私たちに慈しみを注いでおられます。ですから、そのようなご愛に満ちたイエス様のもとへ周りの人々を招いてまいりましょう。イエス様を素直に信じて罪を赦していただき、また聖霊に私たちの内に住んでいただき、永遠のいのちを頂いて、周りの人々と共に永遠に尽きることのない恵みを頂いてまいりましょう。

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