3/1 出エジプト記16:1-20 「イエス様の永遠のいのちのパン」

導入

 皆さんは美味しいお寿司屋さんや、レストランに行って、帰ってから何時間くらい満腹でいられますか。おそらく4、5時間もすれば、またお腹が空いてしまうかと思います。しかし、みことばの豊かさや、イエス様がくださるパンは永遠に私たちの心を満たし続けて下さいます。

 ではイスラエルの民がお腹が空いて、どうなったか見てみましょう。 

本題

 イスラエルの人々に飢えの危機が訪れて、人々は不平不満の罪を犯しました。 その時人々は12の泉と70本のなつめやしのあるエリムを出て紅海沿いを南に、シンの荒野へ向かっていました。わずか一ヶ月前、神様は奇跡的にイスラエルの民をエジプトでの400年の奴隷状態から救い出されたばかりでしたが、もうここで罪を犯してしまいます。人々は神様の僕であるモーセとアロンに対して不平を言い、つぶやき、文句を言いました。彼らは飢えていたからでした。食糧の貯えがすっかりなくなってしまい、状況は絶望的に見えました。砂漠のどこに、二百万から三百万もの人々が生き延びるのに十分な食糧があるというのかわかりませんでした。民は指導者であるモーセとアロンに対して不平を言い、つぶやき始めましたが、彼らがすべきことは、神様を信頼し、彼らを救い出してくださった神様の最善とお力を信頼し、指導者と民が共に神に祈り求めるように提案することでした。しかし彼らはそうせず、神様への不信を現したのです。神様のご配慮と慈しみ、神様の良さ、神様のお力、そして神様の備えを疑ったのです。人々は荒野で飢え死にするよりは、エジプトで「肉鍋のそばに座り、パンを満ち足りるまで食べていたときに【主】の手にかかって神の災いに遭って死んだ方がよかったとまで言いました。民の叫びを聞き、奴隷状態から導き出してくださった神様に対する冒涜!なんと軽率で傲慢で厚かましく、無礼で反抗的なことでしょうか。

 しかし神様は民の不満の声に天からのパンを与えると約束されました。砂漠の荒野で200万から300万の人々を40年にわたり養う唯一の方法は、神様の奇跡によるほかありません。まさにこれが神様の約束でした。

 彼らは毎日一日分の量だけパンを集めるよう命じられました。この制限を設けることで、神様は彼らがどのくらい神様を信頼し従うことができるかを試されました。彼らは日々の糧を神様に委ねなければなりませんでした。

 そして六日目には、翌日の安息日の分も合わせて二日分の糧を集めるよう命じられました。この命令も人々が従順かどうかを試すものでした。命じられた通り二日分を集めて七日目に休むか、それとも七日目にも出かけて糧を集めるために働くかどうかでした。神の僕モーセとアロンは民の前に立ち、神様の驚くべき約束を次のように語りました。

 夕方には、主はご自身の備えを用いて、エジプトの奴隷の地から彼らを救い出し導き出された方が主ご自身であることを証明され、朝には、主は御自身の備えを用いて御自身の栄光を証明され、それをイスラエルの人々は知ると語り、主が夕方には肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださると伝えました。

 主がこのようになさる理由は、民が主に対して不平を言い、愚痴をこぼしたからでした。主ご自身が、「【主】に対するイスラエルの民の不平を聞かれたので」ご自身が真の主であることを証明されるわけです。そして民の不平は神の僕モーセたちに対するものではなく、神ご自身に対するものであると、神様はモーセを通して警告を与えられました。

 民を導くのは神様のしもべではなく神様ご自身です。イスラエル人をエジプト(この世)の奴隷状態から救い出し、約束の地への旅路へと導いたのは、神様のしもべモーセやアロンではなく神様ご自身でした。したがって、彼らの不満は、モーセやアロンに対するものとして現わされましたが、実際には神様とその導きに向けられていたのです。

 不平や愚痴は神様への不信の現れでした。神様が気にかけてくださり、すべてを良きものへと導いてくださると信じていない証拠でした。ですから私たちが不平や愚痴を言う時も神様に対して「あなたを信頼しません。私を愛し、救い出してくれることを信じません」と宣言しているのです。

 モーセがアロンに、イスラエルの全会衆に『【主】の前に近づきなさい。主があなたがたの不平を聞かれたから言いなさいと言いました。それは信仰者が不平や不満をもって神様に背く罪を犯した時、彼らは主の前に出て神様に近づかなければならなかったからです。民は主の前に出て、自らの不平や不満を告白し悔い改めるべきでした。

 そのことをアロンが全会衆に告げたとき「彼らが荒野の方を振り向くと、【主】の栄光が雲の中に現れ」輝いたのです

 神様はモーセに再度語られました。「「わたしはイスラエルの子らの不平を聞いた。彼らに告げよ。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りる。こうしてあなたがたは、わたしがあなたがたの神、【主】であることを知る。』」」と言われて、民の呻きを聞き、彼らの必要を満たすと約束されました。その目的は、彼らが真理を学び、ますます「主こそ自分たちの神」であることを悟るためでした。神様は、御自身こそが唯一の生けるまことの神であるという真理を、人々の心と生活に深く刻み込みたかったのです。

 その夕方、ウズラが飛んで来て、宿営地を覆いました。40年間、毎日、200万から300万人の人々に十分な量のウズラが与えられたのです。翌朝、露が消えると、地面は霜のように見える薄い粒で覆われていました。イスラエル人はこの薄い粒を初めて見ました。そこで彼らはそれを「マーン מָן 」「これは何だろう?」という意味のことばで呼びました。モーセは民に、「これは【主】があなたがたに食物として下さったパン」であり、神様が約束された天からのパンだと告げました。

 神様は民に、「自分の食べる分に応じて、一人当たり一オメル(約2.28リットル)ずつ」「自分の天幕にいる人数に応じて」集めるよう命じられました。民は「そのとおりに」、各人が必要な分だけを集めました。

 「だれも、それを朝まで残しておいてはならない」とモーセは言ったのですが「彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝までその一部を残しておき」、神様の第二の命令は守られませんでした。マナを翌日まで取っておいてはならないという神様の命令は、神様が民にお与えになった試練でした。

  これは神様が利己的で罪深い人間の心を暴くための方法でした。日々神様を信頼し、生活の糧を神様に委ねねばならないことを民に教えようとされたのです。その日の分だけを受け取り家には少しの食物も残さずその日を終えることによって、日々の糧を完全に神様に委ねることでした。

 彼らは約束の地カナンへすぐに入って行くことができ、荒野にいるのは短い間だけだと思っていました。四十年もの長い年月を荒野でさまようことになろうとは、思っていませんでした。それほどの長い間、日々の糧を神様に委ねなさいと求められていることになろうとは、全く予想外でした。しかし、日々神様を信頼し続けること、これこそが神の民に求められていたことだったのです。

 ところが、彼らのある者は神様に背き、マナの一部を次の朝まで取っておきました。神様の約束を信じられず、神様がこれからも自分たちの必要を満たし続けてくださるとは考えられなかったのです。ですから自分勝手に振る舞い、マナを取り置き、蓄えたのです。

 その結果、不信仰な者が翌朝起きると、マナはウジがわき、悪臭を放ち、食べるに耐えない状態になっていました。

  神の僕モーセは当然ながら人々に怒りを覚えました。しかし神様は憐れみを示され、民に天からのパンであるマナを与え続けられました。民が毎朝マナを集めて、太陽が昇るとマナは溶けてしまったことは神様が民に教えようとしておられたためでしょう。

結論

 このマナとウズラの話から、私たちは何を学べるでしょうか。神様は人々に、真に必要なものを与え続けてくださいます。そして神様は私たちのすべてを満たしてくださるお方であるゆえに、神様ご自身が私たちのすべてだということです。

 ある時、イエス様はガリラヤ湖畔で大勢の群衆に説教していました。イエス様は彼らが空腹になり始めたのを知り、五千人の給食、養いというパンと魚の奇跡を行いました。その後、人々は本当にイエス様に従いたいと思ったでしょう。しかしイエス様は彼らが間違ったものを求めているとご存知でしたので、「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。」と真理を教えられました。

 人々はこれに困惑し、イエス様はすでに彼らにしるしを与えておられましたので、イエス様にご自身の真の姿を明らかにするよう求めました。パンを与えて養うことで、自分が新しい偉大なモーセであることを示したのです。しかし食事として食べるパンは大切ではなく、大切なのは、すべての霊的な命の源であるイエス様ご自身でした。そこでイエス様は「まことに、まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」と真理を彼らに教えられました。明らかに、イエス様はそれがご自身であることを語っておられました。イエス様はパンを増やして5,000人を養うこと以上に大きな力を持っておられました。イエス様こそが、世界に命を与える天からの霊的なパンそのものだったのです。 

 荒野のマナはキリストによる救いを指し示すものでした。このパンは人々に、天からまことの生けるパンイエス様が遣わされるまで、自らの糧と救いを神様に求めるよう教えていました。そのパンは、信じる人々に命を与えるために十字架上で自らの体を捧げたイエス様の御業とご自身を通して与えられました。

 マナの真の意味は、私たちに必要なのはイエス様だけだということです。今、神様は私たちを招いて、私たちのいのちの源であるイエス様を糧としていただきなさいと招いておられます。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いのちを持ち、わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物です。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしにとどまり、わたしもその人にとどまります。生ける父がわたしを遣わされたように、わたしも父によって生きる。わたしを食べる者は、わたしによって生きる。これが天から降ってきたパンである。あなたがたの先祖はマナを食べたが死んだ。しかし、このパンを食べる者は永遠に生きる。」とイエス様が永遠のいのちを与えるパンであることを教えておられます。

 神様の御言葉によってイエス様を信じることによる私たちの救いについて学ぶとき、私たちはイエス様に養われます。祈りの中でイエス様と交わるとき、私たちはイエスに養われます。そして主の晩餐の聖餐において霊的にイエス様に養われます。からだを養うパンは、イエス様を信じるすべての人に与えられる永遠の命の霊的なしるしを示しています。

 なぜ神様は日々の糧をすべてご自身に委ねるよう命じられるのでしょうか?それは私たちのためです。絶え間なく神様により頼むことから来る平安と力を知り、神様を信頼しその真実を見出す時に与えられる喜びに満ちた人生を知るためです。私たちは、美味しいレストランを探して、おなかを満たして、幸せな気分になりますが、それは一時的なもので、またお腹がすいてしまいます。そしてまた普段の満たされない生活が戻ってきます。しかし、イエス様がみことばを通して、与えてくださり、満たして下さる恵みは、満ち溢れます。私が出会う最も幸福な人々は、何の必要もない人々ではなく、神様によってその必要が満たされる体験をする人々です。

 神様は一人一人の神の子たちに異なる方法で備えてくださいます。重要なのは、もし私たちがある困難な状況に置かれたなら、それは信仰を試すためだと知ることです。必要なのは、御自身の栄光のために必要なものをすべて備えてくださるイエスを信頼することだけです。

 「このパンを食べる者は永遠に生きる。」と言われイエス様が永遠のいのちを与えるパンであることを教えておられるイエス様にすべてを委ねて、イエス様を宣べ伝えてまいりましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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