3/8 ヨハネ18:1-11「進み出て杯を飲む主」

これまで17章にてイエス様の大祭司としてのとりなしの祈りを見てきました。十字架のために捕えられるイエス様が最後になされたのは、地上に残される私たちのために祈りをささげ、イエス様がおられない今の世においても、イエス様が確かに私たちとともにおられるという確信が与えられました。世がイエス様やイエス様につながる者たちに反抗しても、私たちは父なる神様の御名のもとで守られています。そして私たちを通して、全世界に神様の愛が広がることも願われます。私たちが主にあって一つとされ、神様とともに生きる道が守られるように、そして、神様の愛と栄光が世界に満ちるように、神様は今もその祈りを聞いておられます。

とりなしの祈りを終えたイエス様は、弟子たちとともに外に出て、十字架の道へと進みます。弟子たちに教え、語るべき御言葉を語り、そして祈りをささげたイエス様は準備を終えて、苦難の道へと向かいます。イエス様の下から飛び出したユダの裏切りと祭司長たちによってイエス様は捕えられますが、イエス様はこれからご自分に起こることをすべて知り、そして自ら進み出てその道へと向かわれたことが分かります。これまで預言されてきた十字架の道に進み出るイエス様の姿を共に見ていきましょう。

本論

祈りを終えたイエス様は弟子たちと共に外に出ます。二階の広間から出て行き、エルサレムの東の門から出て、キデロンの谷の向こう側へと出て行かれました。この谷は、エルサレムの北から始まり、神殿が立つ丘とオリーブ山の間を通り、死海へと続いていました。雨季には流れが激しくなりますが、一年のうちの大半は乾いており、向こう側に渡ることは難しくありませんでした。彼らがキデロンの谷の先に目指したのはゲッセマネの園というところです。ここは、以前からたびたびイエス様と弟子たちがエルサレムでお会いするために用いられた場所であり、弟子の一人であるユダも知っていました。時間は夜であり、都市から離れていたこの場所はイエス様を取り囲む群衆が暴徒化する恐れもないため、ユダが兵士たちを連れてイエス様を捕えるには最適な場所とタイミングでした。しかし、犠牲による死を迎える前に自らを聖別したイエス様は、敵から逃げるためにいつもの場所から変更することはなさいませんでした。ユダが良く知っていて、尚且つ群衆によって妨げられることのないこの場所をイエス様は選ばれたのです。

ユダがイエス様を捕えるために連れて来たのは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちだったとあります。祭司長やパリサイ人たちのような宗教指導者たちには、軽微な逮捕権が与えられていたため、イエス様を実際に捕えるのは主に彼らの下役たちでした。しかしここではそれ以上に大きな規模でイエス様の逮捕が進められています。一隊の兵士というところから、ユダヤ人だけでなくローマ軍も逮捕に協力したことが分かります。下役たちだけでなく、600人もの兵士が加わったことから、かなり大規模な集まりでした。祭りの期間中はエルサレムに多くの人が集まることから、ローマ兵たちは警備のため、また混雑や熱狂によって人々が反乱や暴徒化した際に鎮圧するためにカイサリアから移ってきます。イエス様のような人気のある人物を逮捕する場合、周りにいる人々が反発する可能性が十分に考えられます。ユダたちはそのような事態が起こらないように、そして確実にイエス様を捕えるために、夜の時間、イエス様がたびたび訪れ、周りに人が集まらないゲッセマネの園を狙いました。

彼らが考えた通りイエス様は園に現れ、その周囲には弟子たちがいるだけでした。しかしイエス様は、目の前に現れたユダの裏切りにも、その後ろにいる祭司長の下役や600人の兵士たちにも、一切の驚きも恐れも抱きませんでした。むしろ「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられた」と記されています。イエス様はこれまでも弟子たちに十字架の預言を語り続けてきました。そして時が来て、ご自身の命が贖いの代価として支払われることを知っており、その苦しみの杯のために祈り、また神様の御心がなされるように祈り求めました。これらの出来事は、あらかじめ定められ預言されてきた神様のご計画に従って起こったのです。他の福音書でも、イエス様はご自身が歩む十字架の受難を知っておられたことが語られていますが、ヨハネの福音書ではこれまでの聖書箇所を含めて特にその真理を強調しています。イエス様は神様の御心を誰よりも知り、神様に忠実に従い、父への従順によって自らの命を捧げました。ここにあるのは、罪の贖いのために命を失う悲惨な被害者ではなく、神様のご計画に従い、その愛によって誰よりもへりくだって命を捨てて羊を救う羊飼いの姿です。イエス様はご自身にこれから起こる出来事を完全に知っておられ、苦しみ、その杯を取り除いてくださいと切実に祈るほどでした。しかし、イエス様は救いの計画に従い、避けることなく、自ら十字架の道に進み出ました。

イエス様は進み出て「だれを捜しているのか」と問いかけます。

John 18:4  イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。

John 18:5  彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。

John 18:6  イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。

イエス様の応答は「わたしがそれだ」という言葉でした。一見すると普通の応答のように見えますが、この言葉は原語のギリシャ語を見てみますと「エゴ―・エイミー」となります。直訳すると「わたしはある」という言葉です。ただ自分を表明する言葉として用いられることもありますが、わたしはあると言う言葉は、神様の聖なる御名として聖書で用いられています。招詞でお読みした出エジプト3:14をもう一度お読みします。

Ex. 3:14  神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」

イエス様はただ名乗り出ただけでなく、自らの神としてのご性質をここではっきりと人々に表したのです。特に聖書に深く親しんでいたユダヤ人にとって、イエス様の神としての表明は驚くべきものでした。地に倒れるまでの反応から、イエス様の大胆で真実な啓示がどれだけ大きなものであったのかが分かります。イエス様がここでご自身が神のご性質を持ち、神と同格のお方であることを示したことは、このような危機的な場面の中にあっても、神様の権威の前に世の人々は何も為し得ないということです。祭司長やパリサイ人のような地上の権威も、600人の兵士も、自分の力によってイエス様お一人の命を勝手に奪うことが出来ません。イエス様が命を捨てる権威は、神様とイエス様のみにしか与えられていません。イエス様の受難の主権は、神様にあり、神様の救いの計画の中で進められていくのです。イエス様が問いかけ、イエス様が神の御名において応答すると言う場面が二度繰り返されていることから、イエス様の主権の立場が強調されていることが分かります。

8節にてイエス様が二度目の応答をする際、イエス様はさらにその主権をもってユダたちに命じます。

John 18:8  イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」

John 18:9  これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。

イエス様の十字架による贖いがイエス様お一人によって完全に成し遂げられます。そしてこの救いの御業の計画の中で、ユダを除いたイエス様の弟子たちは失われることはありませんでした。

他の福音書では、弟子たちがイエス様のもとから逃げてしまったと記されています。ヨハネにおいても前の箇所で弟子たちが散らされるという預言はされました。しかし今回の箇所においては弟子たちの逃亡は明言されず、むしろ、彼らが一人も失われなかったと語られます。イエス様は十字架に向かうことで地上に残される弟子たちのためにとりなしの祈りをささげ、父なる神様の御手によって彼らの守りが保証されました。ヨハネの福音書では、弟子たちがイエス様と共に捕まらなかったことが、イエス様の主権と守りの証しとして記されています。イエス様のために命をも捨てますと宣言した弟子であっても、苦難を前にして散らされ、群れの一致は失われることとなります。しかしイエス様の死は、羊飼いがその羊のために命を捨てるという目的を持った死なのです。この群れが、羊飼いを失って散らされても、受難の時に守られ、ユダを除いて失われることのないように働きかけました。十字架の受難において、自分自身を差し出すことによって弟子たちを逃すことが出来るのは、神の御名を名乗り、神様の愛を世に示すことの出来る唯一なるお方イエス様だけです。イエス様お一人によって、神様の救いの計画が成し遂げられるために、贖いの犠牲としてささげられるのは、イエス様お一人だけであり、このお方によってのみ罪が完全に贖われるのです。

この時、シモン・ペテロは剣を抜いて、イエス様を捕えようとする大祭司のしもべであるマルコスに切りかかります。この行動は、イエス様のことばの成就をはばみ、主の主権を妨げる方法で悪に立ち向かうものでした。悪に打ち勝つのは、イエス様のみです。旧約聖書では、杯はしばしば神様の怒りを指して用いられています。イエス様にとってこの杯は、世の罪を贖うために耐えなければならない苦しみ、孤独、そして死を意味していました。ペテロの行動はイエス様に対する忠誠心が現れたものでしたが、今起こっていることがすべて神様のご計画であることは理解できていませんでした。

各福音書で記されているイエス様の受難の場面ですが、ヨハネの福音書においては、イエス様が地上の最後の時に積極的であり、主権をもっておられたことが明らかにされています。ユダと祭司長たちの下役、そして兵士たちは世の悪としてイエス様に反発し、目的を達成するために力により頼んでいきました。しかしイエス様は武器を持たず、軍勢や弟子たちの力により頼まず、圧倒的な敵の勢力に対してお一人で立ち向かいました。へブル人への手紙12:2ではこのように記されています。

Heb. 12:2  信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

ご自分の前に置かれた喜びとは、他でもない私たちの救いです。イエス様が神様の前に従順であったことも、そのために自ら進み出て杯を飲まれたのも、私たちが罪の苦しみから救われ、永遠の命を得るためでした。

イエス様が十字架にかけられたのは、神様の御心であり、私たちの救いのためでした。イエス様という完全な贖いの犠牲が、私たちが罪から救われる唯一の道であり、真理なのです。命を捨ててまで羊を守る良い牧者のもとに共に集いましょう。イエス様は苦しみの杯を飲み干し、今勝利の中で私たちを招いておられます。この勝利の確信は、イエス様の十字架によってのみ与えられます。他にはない確かな救いの導きに従って、イエス様と共に生きる道を進んでまいりましょう。


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