序
前回の箇所では、イエス様の逮捕の場面を見てきました。ゲッセマネの園でイスカリオテのユダの裏切りと、祭司長の下役たちや一隊の兵士たちを前にして、イエス様の主権は揺るがず、神の御子として人々の前に立ちました。裏切られても、敵を前にしても、イエス様の主権と神様のご計画の中で十字架の道が進められ、イエス様は自ら進み出て受難を受け入れました。御子なるイエス様が、私たちの罪の贖いのために、そして永遠のいのちの道を与えるために、良い羊飼いとしていのちを自ら捨てたのです。
今回の箇所では、捕らえられたイエス様と大祭司のやり取りが見られます。そしてイエス様の場面に挟み込むような形で、シモン・ペテロの様子も見られます。主権をもって進み出たイエス様は、人々の前で真実で正しい姿を現しました。しかしそれに対するペテロは、イエス様の預言の通り三度もイエス様を否定します。ヨハネの福音書における両者の対比を見ながら、正しさをもって神の御子としての権威を持ち、そしてイエス様から離れてしまう弟子に対してのイエス様のお姿を見ていきましょう。
本論
イエス様は人々の前に姿を自ら現し、「わたしがそれだ」と神としての権威を明らかにしました。しかし、イエス様が神としての権威を示したのは、目の前に広がる敵たちを打ち破り、この場で勝利するためではなく、人でなく御子が主権を持ちながら、ご自身の意志で十字架に進まれるためでした。一隊の兵士と千人隊長、そしてユダヤ人の下役たちはまずアンナスのもとにイエス様を連れて行きます。このアンナスという人は、前に大祭司を務めたことのある者で、ユダヤの祭司たちのトップに立って権力と財力を手に入れました。しかしローマ政府によって大祭司はアンナスからカヤパに移り変わり今に至ります。ユダヤ人たちは外国勢力によって大祭司が変えられ、任命されたことに受け入れずにいました。また、現大祭司のカヤパの義理の父にあたるアンナスは大祭司一族の家長であることから、ユダヤ人にとって前大祭司のアンナスは未だに強い影響力を持っていました。ユダヤ人にとっての大祭司アンナスと、ローマの基準で立てられた大祭司カヤパがこの当時存在していたことから、ユダヤ人たちはまずアンナスの下に連れて行き、その後カヤパの下に連れて行きました。
カヤパについては、この福音書の前の箇所でも登場しました。それが14節で語られています。
John 18:14 カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。
ユダヤ人たちがイエス様を捕えて取り除く動機がここにあります。ローマの支配下にあったユダヤ人たちは、ローマが認める限り宗教的な自由が与えられました。ユダヤ人たちは、イエス様がなした多くのしるしと、多くの群衆の存在がローマ政府の目に留まって宗教的な弾圧が起こることを恐れ、また自分たちの権力が揺らぐことを恐れて、民に代わって一人の人を死なせようとしたのです。宗教指導者たちも、また多くの人々も、イエス様をローマの支配からユダヤ人を解放する者としか見ておらず、イエス様の御子としての姿と救いの真理を信じて受け入れることはしませんでした。地上における利益や力を求め、イエス様が来られた真理を悟ることが出来ずにいたのです。しかしこのカヤパの言葉は、彼らの想像以上の意味を持ってこれから成し遂げられます。イエス様が十字架の上で命をささげたことこそ、民の代わりに死なれた贖い主の姿です。罪によって死ななければならなかったすべての人に代わって、ひとり子なるイエス様は来られました。彼らの言う得策は、神様のご支配の中で永遠のいのちへと導かれるという意味で私たちに与えられました。私たちはここで改めて、イエス様の十字架の意味を確認することが出来るのです。
イエス様がユダヤ人たちのところで尋問をされようとしたその一方で、ペテロともう一人の弟子がその後をついて行きました。このもう一人の弟子についての詳細は記されていませんが、少なくとも彼が大祭司と親しい知り合いであったこと、それによって大祭司の庭に入ることが出来、門番の女に話を通してペテロも入ることが出来るように手配されました。
イエス様のいるところに近づいたペテロでしたが、中庭に入ったことによってその素性について三回も追及されることとなりました。「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」とまず問いかけたのは、ペテロたちを通して門番の召使の女でした。原文のギリシャ語でも同じく見られるように、この質問にはペテロに対する不信感が現れていました。この問いかけは、相手から否定の答えが返ってくることを期待されて冷ややかに投げられています。また、あの人という言葉には軽蔑の意味が含まれており、ここでは「あんなやつ」という調子でこの質問自体に、イエス様の弟子であることをペテロに否定させる誘惑がありました。そして環境面においても、周囲に敵が多いこと、また唯一大祭司の下役に攻撃をして傷つけたという過去が、ペテロの「違う」という言葉を誘います。以前の箇所で、イエス様のために命をも捨てる覚悟を示したペテロでしたが、この場において彼の心は弱くなってしまい、一度目の否定を口にしました。
一度目の否定によってやり過ごしたペテロはしもべたちや下役たちとともに暖をとったことが記されています。「彼らと一緒に立って」いたという表現は、5節で裏切り者のユダが「彼らと一緒に立っていた」という様子と重なって見えます。ペテロ自身は裏切るつもりはなくとも、また不利な状況であっても、ペテロが彼らと一緒に立つ姿が印象深く記されています。前回の箇所で、敵である大祭司のしもべに切りかかったペテロは、今やイエス様を否定し、ユダのようにまるで敵の一員であるかのように立つようになったのです。
また彼らが中庭にいる時間、つまりイエス様が尋問された時間が夜であることがここで間接的に知ることが出来ます。炭火を起こすほどに冷え込む夜中の時間であることから、イエス様が逮捕された後、夜明けを待たずにすぐ審問が行われたことになります。イエス様の逮捕を聞いた群衆が暴れる前に対処する必要があったこと、また、安息日には処刑が出来ず、十字架の上にイエス様を残すことが出来ないため、処刑と埋葬を早く終わらせるために一晩で裁判を終える必要がありました。夜間にも関わらず手早く手続きが進められた結果、安息日の前に妨げられることなくイエス様の十字架が実行されることとなりました。
19節に入り、ペテロからイエス様の場面へと移り変わります。大祭司のもとで尋問を受けるイエス様は、弟子たちのこと、そしてイエス様が自分を誰であると主張したかということを含めた教えについて聞かれます。この尋問に対して、イエス様は弟子たちのことを守るために弟子についての問いには答えませんでした。そして教えについても直接的に応えませんでしたが、イエス様が語られた教えについては何も隠す必要がないものであることを語ります。
John 18:20 イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。
John 18:21 なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」
この大祭司の前での裁判は、イエス様の方が主権を握り続けました。ご自身のことばは世に対して公然と語られているとはっきり語ります。公然という言葉は、イエス様の教えが広く知れ渡っていた事実と共に、その教えが大胆で少しも曖昧なところがないことを意味しています。イエス様の教えはたとえで話されることはあっても、その教えが意図して隠されることはありませんでした。会堂や宮だけでなく、あらゆるところで教えてもいましたが、イエス様がどのようなお方か、その真理が明らかに示されたのは、ユダヤ人たちが多く集まるところでした。また弟子たちだけに語ることもありましたが、それも公で語った内容の深堀や拡張されたものであり、その核心は公に明らかにされていました。そのため、イエス様から聞いたことについて証言することが出来る人々は多くいました。ユダヤ人の律法によれば、自分自身についての証言には根拠がなく、真実だと受け入れられませんでした。かつてのユダヤ人はそのことでイエス様を責めたほどです。しかし今彼らは、イエス様ご自身の口から証言を引き出そうとしており、彼らの律法に反して尋問が進められようとしていました。
イエス様が毅然とした態度で大祭司に答えたことに対して、下役は腹を立てて顔を平手打ちします。しかしイエス様は打たれてもなおその真実なる姿を崩すことはありませんでした。
John 18:23 イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
イエス様は今この場で公正な裁判を行うように訴えかけます。本来認められない本人からの証言をもとに事を進めようとし、正しい言葉をもって答えても打たれている状況は正しいとは言えないからです。この中でイエス様は真実をもって堂々と立ち、主権者として、不義や偽りなく十字架の受難を受けます。悪いことをしておらず正しさを守っているにも関わらず平手を打たれる暴力を受ける今、すでにイエス様の受難は始まりました。アンナスからカヤパへイエス様は送られ、十字架につけるための準備が進められることになります。
大祭司の前でイエス様が真実なる姿を示したところで、場面は再びペテロのいる中庭へと移ります。火にあたって暖をとっていたペテロに、先ほどと同じ質問が投げられました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」という問いは、1度目の質問と同じく否定の返事を想定したものでした。ペテロの答えもまた先ほどと同じように質問につられて「弟子ではない」と否定的なものでした。
しかし三度目の問いかけはペテロにさらに踏み込みます。ペテロに耳を切り落とされたマルコスの親類にあたる者で、あの現場の目撃者から鋭く「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが」と核心を突かれました。先の二つの質問と異なり、この質問は肯定的な答えを想定していました。これまで弟子であることを否定したペテロは、イエス様と一緒にいた事実をもここで否定します。
ペテロが三度否定した後に鶏が鳴きます。ヨハネの福音書においては、ペテロがその鳴き声を聞いたことも、その後激しく泣いたことも記されておらず、ただ鶏が鳴いた事実だけが淡々と記されています。イエス様が語られた預言がここで成就したことが強調されています。イエス様は受難の出来事だけでなく、その中で弟子のペテロがご自身を三度否定することもすべて知っておられました。イエス様について行くことを断言したペテロは今、敵を前にイエス様を否定することしかできませんでした。裁判において真実なる姿をはっきりと示して命を自ら捨てようとなさるイエス様と、自信を打ち砕かれ、偽りと否定によってその身を守ろうとするペテロの対比がここで見ることが出来ます。
ペテロはこの後捕まることなく抜け出すことが出来ました。それは、ペテロの嘘と否定のお陰ではなく、そのような羊のためにいのちを捨てた羊飼いのイエス様によるものでした。イエス様は逮捕の場面においても、そして裁判の場面においても、弟子たちのことを守るために働きかけてくださいました。いけにえとしてささげられるのはイエス様お一人だけでした。このお方が真実に、偽りなく立ち続け、贖われたことによって、私たちは救われ、永遠のいのちを得ることになりました。誘惑に陥り、心の弱さを抱え、救い主を拒み、否定してしまうような私たちのために、イエス様は自らいのちを捨てたのです。
結
私たちは自分の弱さを知り、逃げ出したくなるようなときにこそ、イエス様の光を知り、その救いの恵みの豊かさを知ることが出来ます。そしてこのお方によって、私たちは回復され、先に歩む力を得るのです。ペテロはこのような弱さによって失敗を経験した後に、立ち直り、教会の指導者として立つようになりました。私たち一人一人の弱さを知り、その罪を赦し、交わりを回復して下さるお方によって、私たちは救われ、そして弱いままで終わることなく希望の中で立ち直る力を与えられるのです。どこまでも私たちを愛し、守り、手を取って立ち上がらせてくださるイエス様のもとに共に進みましょう。

