3/22 ヨハネ18:28-19:16「見よ、この人だ」

今年のイースターは4月の第一日曜日に定められています。イースターに至るまでの主日は、イースター当日から逆に数えて復活前第〇主日と呼ばれています。また四旬節とも呼ばれます。イエス様が十字架に向かって歩む様子を私たちは何週にもわたって見てきました。今日はイエス様が十字架にかけられる裁判が中心となっています。各福音書で記されているこの裁判は、十字架の場面とはまた異なった印象深さを覚えます。私たちは使徒信条で、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しめられ」と何度も声に出しています。裁判にかけられた当時からずっと繰り返し、私たちはこの裁判が行われたこと、それがピラトのもとで苦しめられたことを覚え続けてきました。これほどまでに覚えられたこのピラトによる裁判の出来事に一体どのような意味が含まれているのか、聖書を順に追いながら共に見ていきましょう。

本論

前回の箇所では、イエス様の真実な姿と、ペテロの否定を比べました。ユダに裏切られても、不当な裁判が行われても、同じ時間にペテロがイエス様を否定しても、ただ一人イエス様だけが真実な姿で現れており、このお方の主権のもとで十字架の計画が進められました。それに対してペテロは、強気で勇ましい忠誠心から一転して、敵に囲まれた中で自分の先生を三度も否定します。ペテロは敵の側に立ち続けており、またイエス様と一緒に立っていたことを否定し、拒みました。十字架を共に背負うことが出来なかったペテロの立ち姿は弱く映ります。しかし、そのような弟子をも愛し、守り続けたイエス様の姿を思わされます。私たちはペテロのような弱さの中から立ち上がり、罪を赦され、交わりを回復される恵みの中で生きていけることを教えられました。

外で鶏が鳴いた明け方の頃、イエス様は大祭司のところからピラトがいる総督官邸へと連れていかれました。夜を徹して迅速に裁判は進められた後、ユダヤ人たちはローマ総督にイエス様の対処を委ねます。異邦人であるローマ総督の官邸に入ることは、儀式的に汚れを受けることになっていました。今は過越しの祭りの期間、外面的な汚れによって祝うことが出来なくなることを避けるために、また十字架が先延ばしにされないようにするために、これまで準備が進められました。しかし彼らがここまで大事に守る過越しの祭りは、かつての出エジプトを覚えるためであると同時に、来るべき真の過ぎ越しの子羊を覚え、待ち望むためのものでした。この子羊によって内なる聖さがもたらされます。今ユダヤ人たちが徹底して進めようとしている十字架の実行こそ、真の過越しの子羊が犠牲となってささげられることになるのです。

中に入らないユダヤ人たちのもとに来たピラトは、彼らの告発を聞きます。ユダヤ人たちはイエス様が処刑されることを望んでいましたが、ローマ帝国の支配下では彼らの法律によって彼らが処刑を執行することは禁じられていました。すべての人が救われるために立てられた神様のご計画が成し遂げられるためには、イエス様を十字架によって死に渡すことが必要でした。イエス様は前の箇所にて、ご自身が「地上から上げられる」ことを預言しました。そのために石打などではなく十字架による執行が求められ、そして十字架を通してイエス様が高く上げられて栄光のうちに全世界を統治することが成し遂げられるのです。ピラトは彼らのうちにある思惑に気づきつつ、イエス様の裁判を始めます。

ピラトがイエス様に「あなたはユダヤ人の王なのか」と問いかけたことはすべての福音書に共通して記されています。この問いの背後には祭司長たちからピラトに、ローマの支配に対して反乱を企てた証拠として訴えがなされたことが分かります。イエス様は最終的にそのように答えますが、その答えに至るまでのやり取りが34~37節の中に記されています。このやり取りが、イエス様の王としての権威を明らかにしています。「あなたは何をしたのか」という問いかけに対してイエス様はこのように答えました。

John 18:36  イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

ここで言われている国は、イエス様が収める場所そのものを指すよりも、イエス様の支配そのものの本質を指し示しています。この王としての支配は、十字架の死によって奪われることはありません。もしイエス様が持つ王としての権威がこの世のものであったら、今回の逮捕と裁判、そして十字架によって完全に失われます。しかしイエス様はこの世に縛られない王としての権威を持っておられます。

この裁判において二つの国が比べられています。一つは、ローマ帝国の権威と力によって立てられたピラトを含めるこの世の国です。創造主に反逆し、闇と罪に満ち、暴力や利権によって王が立てられる、そのような世の国です。もう一つは、十字架によって上げられることによって支配が確立するこの世のものではないイエス様の国です。ピラトが聞いたのは、イエス様がユダヤ人の王を名乗り、政治的な反逆を企てている危険分子であるという報告でした。しかしイエス様から聞いたのは想像以上のものでした。「それでは、あなたは王なのか」という質問の仕方には、ピラトの驚きが示されています。イエス様がこの世に来られたのは、真理について証しするためです。それは政治的な目的のためではなく、他でもない神様の真理をこの世に示し、救いの御業を成し遂げ、神様の愛を表すことでした。そのためにイエス様は人となって来られ、ことばやわざにおいて神様を明らかにしてきました。そして救いのために今もピラトの前で捕らえられ、そのご計画に従い進んでいるのです。ピラトや祭司長たちが考えている力や権力を振りかざす王とは異なりますが、イエス様は世のものではない国と王としての立場を示しました。この王に聞き従う者は、人間の不完全な義や、この世の力を求めるものでなく、真の義なるお方を求め、真の愛のうちに働く力を求め、神様による真理そのものに属する者です。この地上の物や力の奴隷であり、地上の支配者という立場に満足していたピラトはそこに属していませんでした。真理を正しく理解できないピラトは、「真理とは何か」という冷淡な尋問を最後にし、裁判の結果イエス様のうちに罪を認めないと語ります。

ピラトはイエス様がどのような方なのかわからずにいましたが、イエス様を解放する手段として過ぎ越しの祭りに罪人を一人釈放する習慣があることに触れ、イエス様を解放することを示唆します。群衆はそれでもイエス様の死刑を求めます。ピラトがとった対策は、イエス様を捕えてむち打ちにすることでした。このような罰によって何か新しい証拠をつかみ出すこと、そして、このような残酷な仕打ちによってユダヤ人たちを満足させることが彼の目的でした。あくまでピラトは罪を認められないイエス様をそのまま十字架につけることはしませんでした。この受難は肉体的にも、精神的にも苦痛が伴うものでした。いばらの冠は痛みを与えると共に、自らを神聖な王であることを主張したイエス様をあざ笑うために用いられました。また紫色の衣も、王が身に着ける格好であり、それをイエス様に着せながらあざ笑い、平手でたたきました。彼らから見れば、イエス様は自らを救い主と主張する偽りの王でしかありませんでしたが、そこには神の子であられながら人々の前で苦しみを受け入れる、しもべの姿をとった真の救い主の姿がありました。

ピラトは苦痛を受けたイエス様を人々の前に連れてきて、「見よ、この人だ」と言います。この言葉には、「これこそあなたがたが危険で脅威だとみなしている男だ、彼がいかに無害で哀れな状態か、こんな惨めな人が本当に皇帝に反逆する王であると言うのか」と具体的に群衆に迫るニュアンスが含まれています。過ぎ越しの祭りの習慣で一人釈放することを考えれば、イエス様の痛々しい姿を現して憐れみを覚えた群衆がピラトに解放するよう求めると踏んだのです。しかし祭司長たちや下役たちの反応は、イエス様への同情どころか十字架を求めてヒートアップしてしまいます。世におけるイエス様への敵意はピラトの想像以上のものでした。ユダヤ人たちは、イエス様を十字架にかけるために、これまで主張してきた訴えを引っ込めて、新しい訴えを取り上げます。「私たちには律法があります。その律法によれば、この人が死にあたります。自分を神の子としたのですから。」ここでユダヤ人たちが言う律法とは「の御名を汚す者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその人に石を投げて殺さなければならない。寄留者でも、この国に生まれた者でも、御名を汚すなら殺される。」というものでした。最初はピラトの関心を引くために大逆罪で訴えましたが、ここで彼らの敵意の元である神様に対する冒とくに立ち返ることになります。

神の子という表現を聞いたピラトの反応が変わります。これまでは王を自称したユダヤ人でしかなかったイエス様が、神の子という称号を持っていることに恐れたのです。ローマにおいて神の子という称号は、皇帝が自分自身を指すのに使われていました。ユダヤ人が訴えかける冒とく罪と、ローマ皇帝への政治的反逆罪が等しく並ぶこのイエス様について、ピラトは恐れを抱きながら更に詳しく調べるようにします。

神の子という称号を聞いてからピラトが投げかけた問いは、「あなたはどこから来たのか」という、イエス様の本質をつく最もふさわしい質問でした。イエス様はこれまで人々の間でご自身がどこから来たのかを語り続けてきました。父なる神様がおられる天から地に下って来た神の子であるイエス様は、ご自身と父なる神様との関係を何度も強調し、御子としてのお姿を明らかにされました。しかしピラトの前でその答えははっきりと語られませんでした。イエス様は上から来られました。ピラトは沈黙を守るイエス様に対し「釈放する権威があり、十字架につける権威もある」と自分の立場が優位にあることを主張します。しかしピラトがイエス様を裁くことが出来るのは政治的な領域のみです。それをはるかに超えた権威を持つお方に、ピラトは何も出来ないことをイエス様は語られます。ピラトの背後にある神様の御手と権威を見たイエス様は、神様の主権の下とは言えピラトにある罪を認めつつ、彼に引き渡した大祭司たちの罪の大きさを明らかにしました。大祭司カヤパは、ローマの世俗の権力を不正に使い、イエス様に対する不当な判決を求めたため、今その罪が問われているのです。

ピラトはイエス様の反逆の罪も、冒とくの罪も認めず再度釈放しようと心がけます。しかしユダヤ人たちの訴えに退きます。「あなたはカエサルの友ではありません」「カエサルに背いています」ローマ帝国であるカエサルは疑い深い性格で、容赦なく処罰を下す者でした。ピラトの権力は脆く、カエサルを前に危険を冒すことは出来ません。ピラトはその言葉を聞いて、敷石、ヘブル語でガバタと呼ばれる場所にイエス様を連れ出し、裁判の席に着きます。ガバタは、大きな石で舗装されたモザイク調の区域や場所を意味しています。ここでピラト自身が裁判の座につき、彼によって判決が下されることから、ピラトの責任が示されています。形の上ではピラトが裁く側に立ちますが、しかし父なる神様によってすべてのさばきを委ねられたのは、唯一の約束された人の子イエス様です。

過越しの備えの日であるこの時、ピラトは再びユダヤ人たちの前にイエス様を示し、「見よ、おまえたちの王だ」と強調します。ピラトはユダヤ人たちの表向きのカエサルの忠誠と、政治的な偽善を見抜いていました。しかし、ピラトの皮肉に対して、大祭司たちは十字架を訴えかけ、そして「カエサルの他には、私たちに王はいない」とまで答えます。イスラエルの神を礼拝し、唯一の真の王であられる神様への冒涜に他ならないことばです。彼らはその熱心さのあまり、真実の王である神様の信仰を否定し、イエス様を拒絶しました。

私たちはこれまでの箇所で、イエス様と父なる神様との密接な関係を見てきました。そしてイエス様は天である上から来られたお方であり、神の子でありながら人の姿で地上に誕生しました。今回の箇所においても、イエス様がどのようなお方なのかが問いかけられています。イエス様はことばが人となられたお方であり、御子であります。そのお方が今ピラトの前で、反逆の罪と、冒とくの罪で訴えられ、そして十字架へと進むこととなりました。しかしこの二つの罪こそ、私たちのうちにある罪そのものです。ユダヤ人たちは最終的に、自分たちの神様でなくカエサルだけが王であると宣言します。また創世記において、神のようになることを求めた人の罪の姿があります。そしてこの世は常に神様と敵対し、反逆する罪に満ちた世界です。創世記においても、善悪の知識の木の実を食べてはならない命令に反逆した罪が見られます。今イエス様がピラトとカヤパの前で告発されている罪は、私たちが神様のさばきの時に直面する罪なのです。最初のアダムを受け継いだ私たちは今、第二のアダムとして来られたイエス様が代わりに罪を背負われたことで、赦されたのです。義なる者が不義なる者のために死なれたのは、他でもない私たちを神様のもとへ導くためです。

私たちは「見よ、この人だ」「見よ、おまえたちの王だ」という言葉と共にイエス様の受難の姿を示されます。このイエス様を、私たちはどのように受け止めるでしょうか。自分のために、この世のために、イエス様を除くユダヤ人たちのようでなく、私たちのために代わりに苦しみを受け、十字架を受け入れたイエス様を、その心に受け入れたいと思います。真の神であられ、真の人であられるイエス様は、その御姿をもって私たちを苦しみから、世の罪から救い出して下さいます。私たちはもはやアダムから受け継いだ罪の奴隷ではなく、神の子によって自由とされ、解放され、永遠のいのちに与る者とされたのです。唯一なる王なる神、イエス様によって、共に救いの道を歩みましょう。

About the author: 東御キリスト教会

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