序
3月も終わりに差し掛かり、来週にはイースターを迎える頃になりました。イエス様の復活をお祝いするイースターを前に、私たちはイエス様が十字架にかけられた場面を見てまいりました。ヨハネの福音書の講解説教を始めて3年になろうとしています。私たちはイエス様の活動をずっと見てきましたが、今日の箇所では、そのイエス様がこの世にこられた目的、そして神様のご計画となる十字架による死がなされました。この十字架の場面はそれぞれの福音書の中で記されていますが、今回お読みした箇所においては、イエス様が「完了した」と告げられたことが記されています。イエス様が語られた完了とはどのようなものなのか、それは昔の話でなく、今を生きる私たちに深く関係するものです。私たちは毎年この時期になるとイエス様の十字架を覚えます。そしてそこでなされた御業が、私たちのためになされたわざであり、私たちの希望へと繋がっていくのです。イエス様がなされた御業が完了したとはどういうことなのか、ともに見ていきましょう。
本論
イエス様は、ピラトによる裁判を経て十字架の執行が進められました。十字架によって処刑される際は見せしめの意味もありましたので、公衆の面前で自分がこれからかけられる十字架の木を背負ってゴルゴダと呼ばれる場所に歩かされました。イサクがかつて全焼のいけにえのためのたきぎを背負って山へ歩いた姿を思い起こします。傷だらけで、侮辱され、もはや十字架を背負う体力が残されていないほどに痛めつけられたイエス様は、他の2人の犯罪者と共に十字架につけられました。そしてイエス様は真ん中で木にはりつけにされます。当時の十字架刑では、その人がどのような罪を犯して十字架にかけられるようになったのかを知らせるために、罪状書きを頭の上に掲げられていました。イエス様の頭の上には、ユダヤ人の王、ナザレ人イエスと書かれていました。イエス様を訴えかけたユダヤ人の祭司長たちからすれば、まるで自分たちがイエス様を王にしたいと願っているように見えたからです。自分を神の子とした罪として、またローマ帝国への反逆の罪として、イエス様を訴えた祭司長たちでしたが、ここでのピラトのやり取りでは彼らの敵意は通用せず書いたままに掲げられました。ピラトがイエス様を理解して本当に王として受け入れたわけではありませんが、ピラトの対応、そして祭司長たちによる策略は、彼らの意図とは異なってイエス様の本質を世界に示すこととなります。イエス様はまことのユダヤ人の王であり、十字架はイエス様を高く上げる手段となりました。罪状書きは三か国語で書かれていました。ユダヤ人たちが一般的に使用していたヘブル語、ローマの言語であり公用語であったラテン語、そして共通語であるギリシャ語、イエス様の王権は町に出入りしたすべての人が読めるだけでなく、全世界へと示されていきました。
十字架によってイエス様は苦しみを受けますが、その姿は痛みに苦しむ犯罪人ではなく、すべての上に立ち世を統べ治める王として現れていました。そして、神の御子であるこのお方が十字架にかけられる出来事は、イエス様を辱めるのでなく、むしろ聖書で語られた救い主であることを示し続けます。まずローマの兵士たちがイエス様の衣を取り分けた出来事が記されています。当時十字架を執行した兵士たちには犯罪者の着ていた物を分け前としてとることができました。そして彼らは縫い目のない下着についてはくじで引きます。救い主のことを全く知らない兵士たちの賭け事でさえも、詩編の中で語られた預言の成就として現れ、彼らの意図を超えてイエス様が来る救い主であること、そしてこのような悪意の中にあっても揺るがされない神様の主権とご計画を示されるのです。
目の前で十字架にかけられた救い主に目を向けない四人の兵士と対象に、四人の忠実な女性が登場します。イエス様の母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアです。イエス様が捕らえられた後、身近にいた弟子たちは逃げ出し、否定をしましたが、十字架の場面においては彼らよりも女性がイエス様に付き従っていることが明らかにされています。そのような忠実な者たちにイエス様は十字架の上から、思いやりと愛の配慮を示されました。ご自身の母が地上において孤独にならないよう、愛する弟子に委ね、迎え入れるように語ります。血縁を超えた信仰者としての交わり、そして共同体を築き、イエス様が天に召された後も信じる物動詞の豊かな交わりを持つことが出来るように、結び合わされました。息子を失う母の悲しみがありながらも、イエス様は配慮し、現在の暗闇から通り抜けて、愛における交わりに生きて行けるようにとの導きがそこにありました。
悲しむ者たちのために配慮をなされたイエス様は、まさに今ご自身が完了する時が来ていることを知ります。「私は渇く」という言葉には、極限状態にあるイエス様の悲痛な言葉であると共に、そのような状況も含めて神様のご計画において成就される預言の一つとして記されています。そしてイエス様のあらゆる受難が、単に神様の贖いの計画にあっただけでなく、イエス様ご自身がその計画に従った結果でもあります。十字架においてイエス様は、ただ計画によって巻き込まれた悲劇なお方でなく、そこに従い、自ら神様の御心に忠実になられたお方なのです。兵士たちが自分たちで飲もうとしていた安物の酸いぶどう酒がイエス様のもとに差し出されます。詩編69:21では「私が渇いたときには酢を飲ませた」とあります。また42:2では「私のたましいは神を 生ける神を求めて渇いています。いつになれば私は行って神の御前に出られるのでしょうか」とも記されています。兵士たちの行動において聖書の御言葉が確かな預言であることが、一つ一つ明らかにされながら、イエス様は完了の時を迎えます。
このぶどう酒を受けたイエス様は最後に「完了した」と言われました。この言葉は、「成し遂げられた」とも訳されます。イエス様はご自身の命が終わることについて語っているだけでなく、旧約の預言がすべて成就し、贖いのみわざを成し遂げられた勝利の叫び声をあげたのです。イエス様がこの世に来られた目的がここですべて果たされました。神様の前にささげられたいけにえが今ささげられたのです。この完了したという動詞には、自らの義務を果たすという意味も含まれています。単純に最後までというだけでなく、その使命をすべて果たされたイエス様の救い主としての生涯が全うされたことを確かに語られています。イエス様は最後に頭を垂れて霊をお渡しになりました。誰かによって奪われたのでなく、ご自身の権威によって、自らの手によって、その神様のご計画に最後まで従順になられた姿がそこにあります。
イエス様の救いのわざが成し遂げられた後、ユダヤ人たちは過越しの祭りのための大事な日がけがされることを避けるために、いち早くイエス様を十字架から降ろすことを望みました。しかし兵士たちが来てイエス様を見ると、彼らが予想していたよりも早くにイエス様が死んでいたことが分かります。十字架にかけられたものは、その死を早めるために足の骨を折られますが、イエス様はその骨が折られることなく降ろされました。これは過越しのいけにえとしてほふられた小羊の骨を折ってはならないという規定が成就したことが強調されています。過ぎ越しの祭りの中、まことの過ぎ越しの子羊として十字架にかけられたイエス様は、内面だけでなくそのような外面的な部分においても完全ないけにえとなられました。
イエス様は骨を折られなかった代わりに、脇腹を突き刺されてその生死を確認されます。そこで聖書に記されているのは、すぐに血と水が出て来たということです。ヨハネの福音書において水は、イエス様によってのみ与えられる新しいいのちの象徴です。イエス様から流れ出したのは、罪を贖うために流されたいけにえの血と、永遠のいのちを与える水でした。イエス様の十字架の意味がそこにあります。私たちの罪のために、そして新しいいのちのために、その命を捨てられたお方が十字架にかけられています。この時に人々は、様々な思いの中で突き刺されたお方であるイエス様を見上げることになります。預言の成就がここでも成し遂げられるのです。
神の子が十字架でみわざを成し遂げた後、埋葬へと移ります。その手続きを進めたのは、アリマタヤのヨセフとニコデモでした。かつて隠れてイエス様に教えを聞きに来たニコデモは、今公然とイエス様のために奉仕を行うようになりました。アリマタヤのヨセフも、これまでユダヤ人を恐れてイエス様の弟子であることを公にしませんでしたが、総督ピラトに対し、罪人としてさばきを受けたイエス様を受けることを願い出るほどに大胆になられました。ユダヤ人の埋葬の慣習に従って、丁重にイエス様の死体は埋葬されました。ニコデモが持ってきた没薬と沈香が混ぜ合わされたものは、当時非常に高価なもので、イエス様が死において栄光をお受けになったことが証しされ、またこの後に復活の勝利の備えとなりました。イエス様の死と埋葬、そして復活が密接に繋がりをもって、イエス様は墓へと治められました。
19章に渡ってイエス様の公生涯を見てきました。そのすべての生涯の中でイエス様は常に神様のご計画に従い、その命を捨てられた姿が現れていました。良い羊飼いであられるイエス様は、他でもない私たちのために、その命を自ら捨てて、救いを成し遂げられました。神様から離れてしまい、神様を知らないと言ってしまう、そのような罪の中にいる私たちのために、イエス様がささげられたのです。本来神様と共に生き、神様から良いとされた者であった私たちは、罪によって神様との関係が崩れ、良いとされた形からゆがんでしまいました。罪の中に生きてしまい、神様から離れてしまうそのような私たちのために、イエス様は来られました。イエス様は十字架のうえで「完了した」と言われました。私たちが神様との関係を回復し、罪の状態から神様の子として歩む道は、すでに開かれています。私たちのうちにある罪が取り除かれ、救われるみわざは、すでに完了しました。イエス様のいのちによって成し遂げられました。
結
「完了した」と語られるイエス様のもとで、新しい歩みを進んでいきましょう。私たちがささげなければならなかったいけにえや命は、イエス様によって完全に贖われました。私たちが生きるために必要ないのちの水も、イエス様によって与えられました。私たちの救いはイエス様によって完了されました。私たちが恐れる罪や死も、イエス様がすべて担って下さった今、私たちは新しいいのちに希望を抱くことが出来るのです。十字架のうえで成し遂げられた救いのみわざに心を開き、この希望の光の中で共に生きていきましょう。

