説教全文

2020年10月25日(日) 宗教改革主日

書箇所
説教全文

説教全文

「信仰によって義と認められる」

ローマ人への手紙3章19-28節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の話題は信仰です。「信仰」と言えば宗教改革ですね。今から503年前の10月31日に、ドイツのベッテンベルグにあるシュロース・キルへ、日本語で城教会といいますが、その入り口の扉に、マルチン・ルター教授は公開討論会の開催を告げる「95箇条の提題」を貼り出しました。その第一条はこのように書いてありました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイ4:17)と言われた時、主は信じる者の全生涯が、悔い改めであることを欲したもうたのである。」そしてその「95箇条」の真ん中あたりの第46条にはこのように書いてあります。「人が有り余るほど豊かでない限り、必要なものは自分の家に留めておかなければならず、決して贖宥(しょくゆう)のために浪費してはならないのだと、キリスト者は教えられなければならない。」ちなみに、ここに登場する「贖宥」はどういう字を書くかというと、「贖」はあがなうという漢字で、「宥」はゆるす、なだめるという漢字です。つまり「贖宥」というのは俗に言われている「免罪符」のことです。このルターの95箇条の提題は、ラテン語でかかれていましたが、ドイツ語に翻訳され、さらにドイツ語以外にも翻訳されて、2週間後にはたちまちヨーロッパ中に広まりました。ドイツ国内から富がイタリア、ローマ市バチカンにあるローマ・カトリック教会に流れていくのを好まなかった領主たちの後押しもあって、こうして宗教改革は始まりました。
 この「95箇条の提題」で、ルターが訴えたかったのは、信仰でした。ルターは贖宥状、いわゆる免罪符を買えば、全ての罪が赦(ゆる)されるように思わせるローマ教会のやり方に疑問を投げかけたのです。その「95箇条」の21条でルターはこのように言っています。「したがって、教皇の贖宥によって、人間は全ての罰から放免され、救われると述べるあの贖宥説教者たちは間違っている。」この巨大なローマ・カトリック教会に、異を唱えるようになるまで、ルターの魂の悩みは、深いものでした。修道院に入り、戒律を徹底的に守るという善い行いを積み上げることによって、自分の生活を清く保ち、罪を犯さないように注意を払い続けることは、とても大変なことでした。ルターは持ち前の勤勉さで厳格に規律を守ることで『救いを得ようと』挑みましたが、挑めば挑むほど、自分の罪がいかに深いかを突き付けられ、もがき苦しんでいました。そんな苦しみのどん底に居た時、ルターの心に御言葉が浮かんだのです。ハバクク書2章4節の御言葉でした「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」そしてルターはひらめきました。「正しい人はその信仰によって生きる。」とは「人は信仰によって正しくされ、永遠に生きるようにされる。」という意味なのだということに気付いたのです。ルターは思いました。「そうか、行いでは無く、信仰なのだ。イエス・キリストを信じる信仰なのだ。キリストに罪の赦しをお願いすればよいのだ。そうすれば義(ただ)しくされるのだ。」と悟ったのです。そして宗教改革の3大原理を提案したのです。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」。「聖書のみ」とは、聖書に書かれている教えのみが人の罪を赦して滅びから救う唯一の道であるという意味です。「恵みのみ」とは、人の罪を赦して滅びから救うのは神が与える一方的な恵みであって、人間の行いではないという意味です。「信仰のみ」とは、人の罪を赦して滅びから救うのはキリスト信じる信仰であって、ほかにはないという意味です。この宗教改革の三大原理を掲げて、ルーテル教会が誕生しました。
 もちろんルターは旧約聖書のハバクク書だけを読んでいたのではありません。ルターは、修道士になった最初の頃から与えられた聖書を毎日読み、創世記から黙示録まで、繰り返し、繰り返し読みました。ですからハバクク書だけでなく、本日の聖書箇所であるローマ人への手紙も良く知っていました。ルターは聖書を「生ける神の言葉」として受け取っていたと推察されます。ルターが「95箇条の提題」を貼り出した時、彼は既にヴィッテンべルク大学の聖書学の教授になっていました。

 さて本日の聖書箇所に入りましょう。ローマ人への手紙3章19節です。「私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下(もと)にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。」律法の下にある人たちとは、律法を神様の言葉であると信じている人たちのことで、第一にユダヤ人ですね。第二にクリスチャンがいます。その人たちが律法に照らして裁かれるのは分かります。けれどもそれがどうして、全世界の人の口を塞ぐことになるのでしょうか。使徒パウロの論理は、神様と人間の関係を王様とその国民の関係として見ると分かり易いでしょう。王様は国民を従えています。国民の中には王様の意を汲んで働く家来たちと一般の国民がいます。同じように神様は全人類の主です。人類の中には神様を信じるユダヤ人やクリスチャンと信じない多くの人々がいます。一般の国民の上に立つ家来たちの口が塞がれるなら、一般国民の口はなお更塞がれるという訳です。ですから神様を信じるユダヤ人やクリスチャンが律法によって裁かれるのなら、神様を信じない人々はもっと厳しく裁かれることになってしまうのです。この様にして全ての人が神の裁きに服するのです。
 20節で言う「律法を行うこと」とは、律法を行動規範とみなして、祭儀的、道徳的、倫理的に行うことです。律法の書に書いてある通りに行うことであって、そこには律法を与えられた神様を愛するとか、神様を信じるとかという気持ちが有りません。ですから、何処までやったら十分なのか分からず、何時も完全にできなかったという悔いが残るのです。この悔いが罪の意識につながっていくのです。

 このように、全ての人は神様の裁きに服しており、律法を通して生じてくるのは罪の意識だけだとすると、私たち人類には希望が無いことになります。そこで神様は、律法を行うこととは関わりなく、律法と預言者たちの書を通して、神の義を示してくださいました。創世記15章6節にはアブラハムに示された神の義が書いてあります。「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」これが信仰によってアブラハムに与えられた神の義です。ですから神の義とは信仰による義とも言えます。このアブラハムに与えられた「神の義」のゆえに、アブラハムは信仰の人と呼ばれています。(ガラテヤ人への手紙3:9)先ほどのハバクク書2章4節後半の言葉もそうです。「正しい人はその信仰によって生きる。」
 この預言者ハバククが言ったハバクク書2章4節前半の言葉「見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。」この言葉に相当するのが、「人の義」です。この「人の義」は、ユダヤ人のパリサイ人が誇っていた義です。律法を細分化して、安息日に歩いてよい距離とか、市場から帰ってきたら身を浄めるとか、断食をするとか、長々と祈るとか等の、外面的な規則を守っていました。それゆえイエス様はマタイの福音書23章3節で言われました。「ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。」このように人の義を得ても、何の良いことが無いばかりか、神様からのひんしゅくを買ってしまうだけです。
 大切なのは神の義です。この神の義は「イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。」「そこには差別が有りません。」と書いてある通り、子供でも大人でも、女性でも男性でも、貧乏人でも金持ちでも、何の差別も有りません。等しく「義」と認められるのです。神の子イエス・キリストを信じる人は、皆、義と認められて、イエス様と兄弟姉妹関係に入るのです。信仰とは、キリストを信じて、キリストを心の中に受け入れることです。キリストを心の中に受け入れることによって、私たちは神様からこのように宣言されるのです。「私はあなたを義と宣言する。」神様が私たちを義と宣言してくださるから、私たちは本当に義と認められるのです。使徒パウロはキリストを心の中に受け入れた感想を聖書の中に残しています。ガラテヤ人への手紙2章20節です。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」
 以前にもお話ししました、個人的な話で恐縮ですが、私が以前犯した重大な罪を悔い改めて、赦しを願った時、白い衣を着たお方が目の前に現れ、「私もあなたに罪を認めない。」と宣言してくださいました。私は罪赦されたと知って喜びに溢れ、ぼろぼろと涙を流して喜びました。ちょうど40歳の時でした。このことをその頃通っていた神学校の礼拝の時間に証ししたところ、私も同じ経験をしたという学生に会い、私の体験は幻ではなかったのだと確信させられた次第です。人は悔い改めれば、「本当に罪赦される」、と言うことができます。

 聖書がローマ人への手紙3章23節で「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」と言う通り、全ての人は人類の祖アダムによって犯された原罪を引き継いでいるので、神の栄光を受けることができません。しかし、24節「キリスト・イエス」を信じる人は「キリスト・イエスによる贖(あがな)いを通して」「神の恵みにより、価なしに義と認められ」、そして25節「神はこの方を、血による宥(なだ)めのささげ物として」「信仰によって受けとるべき」であるとされました。この23節、24節、そして25節に、宗教改革のスローガン「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」の出典が示されていると見ることができます。
 天地創造以来イエス様がおいでになるまでの4,000年間、その当時生きた人々によって多くの罪が犯されました。でも人々は、アダムとエバがエデンの園で罪を犯した時に、神様が約束された救い主の到来の言葉を、代々、親から伝え聞いて来ました。そして何時の日にか悪魔の頭を砕く救い主が、女の子孫として生まれる、と信じてこの世を去って行ったのです。神様は、ご自分の約束の言葉を信じて、この世を去って行った人々の罪を、見過ごして来られました。ちょうどユダヤ人がエジプトの国を出国する時に、二本の門柱と鴨居に子羊の血が塗られたユダヤ人の家の上を天使が過ぎ越し、その家の長男は殺されなかったのと同じです。神様はご自分の約束の言葉を、信じた人の罪を、見過ごして来られたのです。即ち赦して来られたのです。しかし当然信じなかった人の罪は、赦さなかったのです。そして時満ちて、イエス様が誕生され、大人になられた時、父なる神様はご自分の義、即ち、4,000年前にアダムとエバに約束された救いを実現させて約束を守る義(ただ)しい神であることを示すために、御子イエス様をローマ総督ポンティオ・ピラトによって十字架に付けさせ、血を流させました。この御子の血によって、一度で、古今東西の人々の罪の贖いを成し遂げられたのです。父なる神様は約束を成し遂げられて、御自分の義を明らかにされました。このことによって、御自分がイエスを信じる者を義と認める方であることを、示されたのです。

 この様に使徒パウロがローマ人への手紙6章23節で「罪の報酬は死です。しかし神の賜物(たまもの)は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と語っているように、罪を犯す存在である私たちの誇りは、どこにもありません。ただあるのは死のみです。ですから、行いによって義を得させるための「行いの律法」というのは存在しないのです。既に20節で示されたように、行いによっては誰も義とされず、ただ罪の意識が生じるだけなのです。ですから人間の誇りはどこにもありません。あるのは人間を創造された神の誇りだけです。使徒パウロはその神様の誇りを「信仰の律法」と呼びました。即ち、信仰によって神の義が与えられると言ったのです。御子イエス・キリストを信じる信仰の持ち主を神様は義としてくださるのです。これが神様の定めた「信仰の律法」です。
 そして28節で使徒パウロは今までの議論の結論を述べました。「人は律法の行いとは関わりなく、信仰によって義と認められると、私たちは考えているからです。」この言葉で使徒パウロは、人が義とされるのは、神様が与えられたモーセの律法を守ったから義とされるのではなく、救い主イエス・キリストを信じたことによって義と認められる、と結論しました。その理由は、先程、説明したように、人が義とされるのは「行いの律法」ではなく「信仰の律法」であるからです。即ち、私たちの誇りを全て取り除き、そのことによって、どんな小さな子供でも、どんなに身体的な欠陥が有っても、どんなに知能が遅れていても、どんなに年老いていても、たとえ寝たきりであっても、信じるという心の働きによって義とされるためなのです。

 このようにして、父なる神様は本日使徒パウロの口を通して、「人は律法の行いにはかかわりなく、信仰によって義と認められる」と言われました。それは全ての人が、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされて、天の御国に導かれるためです。
 今から503年前、宗教改革が始まりました。その発端は本日最初にお話ししたように、ルターが掲げた95箇条の提題でした。そこには悔い改めが生涯求められていると告げられていました。悔い改め無くして真の信仰はないとルターは主張したのです。そして宗教改革へと発展し、「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」の宗教改革三大原理が掲げられ、ルーテル教会はローマ・カトリック教会とたもとを分かつことになりました。こうしてルーテル教会は純粋に聖書の教えに従う教会、信仰義認の教会として発展してきたのです。
 私たちのこの世の人生は、イエス・キリストを信じるか信じないかが問われているお試し期間です。私たちは今生きている内に、イエス・キリストを信じることが求められています。イエス・キリストを信じなければ、誰も義と認められず、天国に導かれることはありません。日本人の多くの方々が、このことを全く知りません。その為に信仰の義を得ることができずに、亡くなっていきます。イエス・キリストを信じれば義とされることを多くの人にお知らせしましょう。そして素晴らしい人生を送っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


©2020 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

聖書箇所 説教全文