2020年11月29日(日) 待降節第一主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「主の御名によって来られる方」
マルコの福音書11章1~10節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
本日の説教はマルコの福音書11章1節から10節まで。説教題は「主の御名によって来られる方」でございます。本日の話題は「本日から始まる待降節をどのような心構えで過ごしたら良いのか」です。そのことが教えられていますので、共に聞いて参りましょう。
昨年12月に、「原因不明の肺炎患者がいる」と中国で報告され始めた新型コロナ・ウィルス感染症は、1月16日には日本でも感染者が報告され、マスクと、手洗いと、自粛生活で収束するのかと思いきや、世界中に感染が広まり、3月11日にはパンデミックが宣言されました。日本では7~8月の第二波を経験し、東京医師会会長の尾崎治夫医師が、7月30日の会見で、「今のやり方では限界があるだろう。日本全体がどんどんどんどん感染の火だるまに陥っていく」と述べていたのが印象的でした。それにもかかわらず、日本政府は感染症が落ち着いてからという閣議決定を無視して、7月22日からはGo
To キャンペーンを強行し、11月からは第三波に突入し、今や尾崎会長の預言通り、日本中に感染が急速に拡大しています。
このコロナ・ウィルス感染症は世界中で猛威を振るっていますので、たんなる感染症ではないということが分かります。その一番の特徴は、感染しても、まだ無症状の時に、周りにウィルスをまき散らしていくという性質が有ることです。発熱や味覚が無くなる等の自覚症状が出た時点では、時すでに遅く、多くの人に感染させている可能性があると言う、大変困った性質を持っている感染症であることです。世界中の国々におけるこのような不気味な感染症拡大は、何か大きな力が働いているような気がします。即ち、神様が何か意図をもって行っておられるのではないかと考えています。しかし残念ながらその意図がはっきりとは分かりません。ただ一つ分かることは聖書にその対策が既に書いてあることです。
「いと高き方の隠れ場に住む者、その人は全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。『私の避け所 私の砦 私が信頼する私の神』と。主こそ狩人の罠から、破滅をもたらす疫病から、あなたを救い出される。主は、ご自分の羽であなたをおおい、あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は大盾、また砦。あなたは恐れない。夜襲の恐怖も、昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。千人があなたの傍らに、万人があなたの右に倒れても、それはあなたには近づかない。あなたはただそれを目にし、悪者への報いを見るだけである。それはわが避け所である主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。」
この詩篇91篇に書いてある「疫病」は、特に「悪性の伝染病」の事を指し、まさに新型コロナ・ウィルス感染症もその一種となります。聖書にはこのように、疫病からの守りの約束が書いてあるにもかかわらず、多くの人はそのことを知らないために、避け所である主なる神様イエス・キリストを自分の隠れ場とすることができません。ひょっとすると、神様はもっと多くの人々に、ご自分を信じて欲しいので、パンデミックを起こしておられるとも考えられます。
なぜ最初に全世界的に流行している疫病、新型コロナ・ウィルス感染症の事をお話ししたのかと言いますと、「この世に起こることは全て神様が行っておられる」という事をもう一度認識を新たにしていただくためです。私たち人間は、自分達が自主的に動いていると考えますが、実は神様が人間を動かしておられるのです。本日の聖書箇所であるイエス様のエルサレム入城は、まさに最初から最後まで神様が、登場する全ての人を動かし、全ての人の口に言葉を授けておられたことを示しています。使徒ヨハネはそのことを、ヨハネの福音書12章16節で、この様に語っています。「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。」使徒ヨハネは、イエス様がロバの子に乗られただけでなく、「人々がイエス様に対して意識せずに行った行動も、預言が成就するためのものであった」と言っています。この様な視点で本日の聖書箇所を見ていきますと、内容がすっきりしてきます。
さて、イエス様は、ゴルゴダの丘で十字架に掛かることになる週の初めの日曜日の朝、ロバの子に乗られてエルサレムの町へ入城されることを計画なさいました。それは使徒ヨハネが指摘するように、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に書いてある預言を成就するためでした。ゼカリヤ書9章9節にはこのように書いてあります。「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」イエス様は御自分について聖書に書かれていることを全て行われたのです。そして最後に十字架刑でさえも創世記3章15節に書いてある預言にしたがって受けられ、聖書の御言葉を成就されました。この様にして、イエス様は聖書に書かれていることは全て成就することを、身をもって私達に示されました。
イエス様について書かれていることが全て成就するならば、私達について書かれていることも成就します。最初に述べた新型コロナ・ウィルス感染症にどのようにしたら感染しないようにできるでしょうか。それは人と人との接触を完全に立つことですが、残念ながら家族や社会で交わるように造られている人間にとって、完全に接触を断つことはできません。どこかで必ず接触が有り、その時感染してしまう可能性があるのです。
でも神様の守りに頼るなら、人間は不完全でも神様は完全ですから、私達を100%コロナ・ウィルスの感染から守ることがお出来になります。しかし、ここで注意しなければならないのは、クリスチャンだからとか、神様を信じているとかだけでは十分ではないということです。神様にコロナ・ウィルス感染から守られるようにお願いしなければなりません。神様に守りをお願いするなら守られますが、守りをお願いしないなら、守られません。神様は決しておせっかい焼き屋ではないからです。神様に守りをお願いしないクリスチャンは、残念ながら神様の守りが無く、コロナ・ウィルスに感染してしまう恐れがあります。
さて、イエス様はゼカリヤ書9章9節の預言の通り、エルサレム入城をするにあたって、ロバの子を用意されました。イエス様はベテパゲの村に住む人の心に働かれて、まだ誰も乗ったことの無いロバの子を用意させ、そのロバの子をベテパゲの村の中に入るとすぐわかる所に置かせ、そしてそのロバの子を受け取りに私の弟子を遣わすから、渡してくれと指示されました。この様にロバの子の準備が整うと、今度は二人の弟子を選び、マルコの福音書11章2節と3節にある指示を与えられました。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
弟子たちがイエス様の指示に従ってベテパゲの村に入ると、すぐに表通りにある家の戸口に、子ロバがつながれているのを見つけました。しかしその子ロバの側には数人の人が居て、子ロバを見張っていました。弟子たちがその子ロバの綱をほどくと、そのベテパゲの人達は言いました。「子ロバをほどいたりしてどうするのか。」弟子たちがイエス様の言われた通り『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と話すと、その人たちはイエス様の弟子たちだと納得し、子ロバを連れて行くのを許してくれました。
弟子たちがイエス様の所に子ロバを連れて行くと、イエス様は弟子たちに、「これから私は子ロバに乗ってエルサレムの都に入城する。」と告げられたでしょうか。イエス様がそのように告げられたとはどこにも書いてありません。弟子たちはまるで夢遊病者のように、自分たちの上着を脱いで子ロバの背に敷きました。そうしたらイエス様が子ロバに乗られたのです。イエス様がロバの子に乗られた姿を見た大勢の弟子たちが、夢遊病者のように、自分たちの上着を脱いで道に敷き、他の弟子達は葉の付いた枝を野から切って来て、上着の両側に敷いて、両側に緑の枝で飾られた上着の道を作ったのです。これはイエス様を王様と認める行為です。しかし、弟子たちは、イエス様を王様として、敬意を示そうとして、行ったのではありません。先ほども申しましたが、「これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。」と使徒ヨハネがヨハネの福音書12章16節で証言している通り、弟子たちは、自分たちが何をしているのか分からずにやっていたのです。弟子たちに限らず、登場人物は全て、まるで操り人形のように動いていました。
さて上着と緑の葉っぱの枝で飾られた王様の道が出来上がると、イエス様はロバに乗られて、その上着の道を歩き出されました。上着の道はイエス様だけが歩くことができる道です。ちょうど結婚式でバージンロードの上を歩くことのできる人は、父親に付き添われた花嫁だけです。参列者は立ち入ることができません。
そうして人々は前を行く人たちも後に続く人たちも、夢遊病者のように叫んだのです。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
「ホサナ」とはヘブル語で「今、救ってください。」という意味になります。「ホサ」は「救ってください。」という意味で、「ナ」は「今」です。
それでは「主の御名によって来られる方に。」とはどういう意味でしょうか。名は体を表す」というように、「主の御名」は「主なる神様ヤーウェそのお方を表します。」ですから「主の御名によって来られる方」とは、「主なる神様ヤーウェの全権を委任されて代理として来られるお方」となり、実質的には、「主なる神様ヤーウェが来てくださるのと同等」となります。即ち群集は「主なる神様ヤーウェがイエスというお名前で来ておられる。」と叫んでいるのです。
次に「われらの父ダビデの、来るべき国」とは、どういう意味でしょうか。イエス様は、マルコの福音書10章47節で、目の見えないバルテマイという物乞いから、「ダビデの子イエス様」と呼ばれています。民衆はイエス様がダビデの子孫であると認めていたことを表しています。このダビデの子孫であるイエス様の出現によって、永遠の霊的な王国、すなわち「イエス様が治めるキリスト教の王国が出現するようになる」、と叫んでいるのです。また「いと高き所に。」とは「神様がお住まいのところ」という意味で、神様御自身を指します。
したがって、まとめますと、群衆の叫びはこのようになります。「今、救ってください。イエスという名前で今来ておられる主なる神様ヤーウェよ。私達を祝福してください。これから来るイエス様が治められるキリスト教の霊的王国に祝福が有りますように。今救ってください。神様。」という意味になります。ですから、この群衆の言葉は讃美の言葉ではなく、神様が群衆の口に置いた預言の言葉となります。神様であるイエス様がユダヤ人の群衆の口を通して、十字架に掛かられた御自分の死後、直ちに実現するキリスト教の世界のことを預言させておられたのです。
このように、イエス様はゴルゴダの丘で十字架に掛かられる週の最初の日である日曜日の朝、ロバの子に乗られ、群衆の口に讃美という形の預言の言葉を置かれて、エルサレムの都に入城されました。群集は「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」と叫んで、これからイエスという名前で、主なる神様ヤーウェが臨在されるキリスト教が出現するようになることを預言しました。ですから、クリスチャンである私達には、イエス様が主なる神様ヤーウェであることを確信し、何をするにも「主の御名によって来られる方」イエス様のお名前で祈りつつ行うことが求められています。祈りは長いから良いのではありません。何をするにもイエス様の助けを求めて祈りつつ行うことが大切なのです。イエス様は神様ですから、私達が祈る前に、私たちの心を読まれますので、私達は長々と祈る必要はありません。ただ私たちに求められていることは、いつもイエス様に頼ることです。イエス様に頼る時、イエス様は私達のために喜んで働いてくださいます。ですから祈りをもって行った結果はどれもこれも見事なものとなります。神様であるイエス様が成し遂げてくださるからです。特に新型コロナ・ウィルス感染症蔓延の今日(こんにち)、この悪性の疫病に罹(かか)らないように、祈りつつ過ごして、健康な毎日を送らせていただきましょう。また友人知人にも、真の父なる神様ヤーウェであるイエス様に頼ることをお知らせし、安全安心な毎日を送ることができるようにしてあげましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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