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今週の説教 聖書箇所
2018年7月8日(日) マルコの福音書 6章1-13節

1 イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。

2 安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。

3 この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。

4 イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」

5 それで、そこでは何一つ力あるわざを行うことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。

6 イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。

9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」

10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。

11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」

12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、

13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。


(新改訳聖書第3版


今週の説教 全文

2018年7月8日(日)  聖霊降臨後第七主日


悔い改めを説き広める     マルコの福音書6章1~13節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

本日の聖書箇所を見ますと、信仰の無いところではさすがのイエス様も力ある働きができませんが、一方信仰のある所では、イエス様の弟子たちでさえも力のある働きができることが分かります。この様に言いますと、信仰自体が力ある働きをするように聞こえますが、そうではありません。前にもお話ししましたように、信仰は神様から贈り物を受け取る手のようなものであり、贈り物がその中を通って来るパイプのようなものです。神様が贈り物を渡そうとしても、人間の方で受け取ろうとしないならば、神様は力ある働きができません。反対に人間の方で「神様、祝福してください。」と言って、手を差し伸ばせば、祝福がいただけるのです。

先月6月11日はわたしの誕生日でありました。美味しいケーキが食べたかったので、出かけたついでに大堀幹線沿いにある、「ヴィーナーヴァルト」と言う名前のケーキ屋さんで、誕生祝いのケーキを買い求めることにしました。以前このお店で買ったケーキがとてもおいしかったからです。ところがそこにはそれらしいケーキがありませんでした。店員さんに聞いてみると、「誕生日祝いのケーキは前日までに予約が必要です。でも今日は、今注文いただければ3時間後にできますよ。」とのことでした。家に帰ってまた買いに来る元気が無かったので、やむなく、細長いケーキを買いました。そうしたら、店員さんが、「『誰々さん誕生日おめでとう』と書いた、白いチョコレートの札をつけることができますよ。何という名前ですか」と聞くので、まさか自分の名前をいう訳にもいかず、「『誕生日おめでとう』だけでいいです。」と言って作ってもらいました。目的とする誕生日祝いのケーキらしい、円形のケーキはゲットできませんでしたが、チョコレートの札を造っていただけたのはラッキーでした。このように、人間世界でも注文することが求められていますから、ましてや神様の世界では当然、人間が神様に求めることが前提となります。信仰というラインが神様とつながっているのであれば、祈りと言う電話で、どこからでもお願いできるわけですから、これほど手軽なものは他にはない、と言えるのではないでしょうか。

さて、本日の聖書箇所は、イエス様が子供の頃から住んでおられた郷里のナザレの町に行かれて、宣教される場面です。イエス様が家族と共にナザレからカペナウムに引っ越しされてから、丸2年経っていました。ですから今回ナザレに行かれたのは2年ぶりと言うことになります。この2年間、ナザレの人々はイエス様の噂を聞かなかったのかなと言うと、そうでもありません。マルコの福音書1章28節には、このように書いてあります。「こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地のいたるところに広まった。」また同じく1章45節には、イエス様にツァラアト(重症な皮膚病)を癒していただいた人の取った行為が書いてあります。彼はイエス様から「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」と言われたにも関わらず、「ところが、彼は出て行って、この出来事を触れ回り、言い広め始めた。」それでどうなったのかと言うと、「そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれのさびしいところにおられると、人々があらゆる所からイエス様のもとにやってきた。」これ等は、イエス様がナザレを離れた後のことですから、ナザレの人々もイエス様の評判を聞いており、そのうちの何人かの病人はカペナウムにおられるイエス様の許に行って、その病気を癒していただいたことと思われます。癒された人々はナザレに帰り、癒された奇蹟をナザレの人々に触れ回ったことでしょう。しかしカペナウムに移住されたイエス様の活動を見ていない多くのナザレの人々は、そのイエス様がかつて自分たちの中に住んでいた、あの大工のイエスであるとは思えなかったのです。

なぜ思えなかったのかが、イエス様の説教を聞いたナザレの人達の反応から分ることがあります。イエス様の説教を聞いて、ナザレの人はこのように言いました。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行われるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。」ナザレの人々は2年ぶりにイエス様と再会しましたが、彼らは記憶力の良いユダヤ人ですから、目の前で説教をしている人物が2年前に別れた大工のイエスであることを直ぐに認めることが出来ました。それなのに、「この大工のイエスが話す教えや知恵、この大工が行ったと聞く数々の奇蹟は、かつてナザレに住んでいたあの大工ができるものではない。もしあの大工であったら、子供の頃から知っている我々が、なぜ知らないのか。」さらに彼らは言いました。「この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」この言葉はこういう意味です。「このイエスをわたしたちは良く知っている。大工であったし、わたしたちは家具や扉を造ってもらった。確かに腕は良かった。その兄弟姉妹だってよく知っている。母親はマリヤで、兄弟はヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン。姉妹たちだって、結婚してわたしたちと一緒に住んでいるじゃないか。兄弟や姉妹は、全く普通の人だ。それなのにこのイエスだけがずば抜けている。それも考えられない位、ずば抜けている。こんなことってあるだろうか。ありえないことだ。」ナザレの人々は目の前で権威ある者のように話すイエスと、自分たちが子供頃から良く知っている人間イエスの、そのあまりにもかけ離れている姿に挟まれて、ジレンマに陥ってしまったのです。一体どちらを信じたらよいのか、わからなくなってしまったのです。

このことは、イエス様が公生涯に入る前には、神の子としてのご自分の本当の姿を、ナザレの人には、微塵も現さなかったことを示しています。しかし、ただ一回だけ両親に見せたことがあります。それは、イエス様が12歳の時に、両親と一緒に過ぎ越しの祭りに参加するためにエルサレムに行った時のことでした。過ぎ越しの祭の後、イエス様は一人エルサレムに留まり、宮の中で、教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられました。その姿を見た両親はイエス様を咎めました。イエス様の出生の秘密を天使ガブリエルから聞いていた両親でさえも、イエス様がどなたなのかわからなかったのです。神様が人間の姿を取って、救い主となって現れるなんて前代未聞のことであったからです。でも本当に前代未聞のことだったのでしょうか。こんなことを言うと、神様はこうおっしゃることでしょう。「いやいや。私はちゃんと言っていましたよ。あなた方は創世記3章15節を読んだことがないのですか。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』」これは原始福音と呼ばれ、救い主が女の子孫として生まれることを預言しています。

両親さえもこのような程度ですから、ましてや何も知らされていないナザレの人々にとってはなお更のことです。子供の頃からイエス様のことをよく知っているナザレの人々は、イエス様に関する自分の記憶、経験、感情、知識の全てを否定することができず、目の前の救い主としてのイエス様を受け入れることができませんでした。こうしてナザレの人々は、救い主イエス様を拒絶するという罪を、犯してしまったのです。

このナザレの人々の拒絶に対してイエス様は言われました。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」この翻訳の元になるギリシャ語を直訳しますとこの様に書いてあります。「預言者が尊敬されないことがないのは、自分の郷里、親族、家族以外です。」「尊敬されないことがない」と二重否定になっています。二重否定は強い肯定を示します。すなわちイエス様はこのように言われました。「預言者が真に尊敬されるのは、自分の郷里、親族、家族以外です。」この二つの翻訳は、中身は同じなのですが、聞く者が誰かによって影響は大きく変わります。もし新改訳聖書のように「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」と翻訳したら、イエス様の言葉を聞いているナザレの人々は、イエス様を尊敬していないことを直接的に指摘されたことになります。ナザレの人々は、それこそカチーンと来たでしょう。しかし、イエス様はそのことをご存知だったので、間接的に言われました。「預言者が真に尊敬されるのは、自分の郷里、親族、家族以外です。」この様に言われると、ナザレの人々は、「俺たちはイエスを尊敬していないのだな。」と気付かされますが、侮辱された気持ちは起こらないでしょう。

結局イエス様は郷里のナザレでは何一つ奇蹟を行うことができませんでした。信仰が存在しないところでは、神様から罪の赦(いや)しや病気の癒(いや)しが与えられないのです。まさしく神様からの贈り物を受け取る手が存在しないからです。でも、全く信仰が無かったわけではありません。少数の人がイエス様を信じ、病気が癒されました。

6節に「イエスは彼らの不信仰に驚かれた。」と書いてあるように、偶像礼拝をモーセの十戒によって厳しく禁止されているユダヤ人にとって、人間となられたイエス様の内に、神様を見ることは不可能に近いことだったのです。またユダヤ人は子供の頃から厳しく宗教教育を受けていました。彼らはシェマー章句を頭の中に叩き込まれていたのです。申命記6章4~5節です。「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」「主なる神はただお一人である。」と、物心つかない頃から、教え込まれているユダヤ人にとって、人間イエスを信じることなぞ出来る相談ではありませんでした。このことは特にイエス様の生育地であるナザレの人々にとって不可能に近い難題であったのです。それでイエス様はナザレの町を離れ、その周りの村々を巡って教えられました。

このナザレ伝道は失敗だったのでしょうか。そうではありません、ナザレの人々、即ちユダヤ人がイエス様を受け入れなかったという事実は、次の段階に移る時が来たことを弟子達に示しました。即ち、弟子たちを派遣することです。2年間の弟子訓練が終わり、十二使徒としての実地訓練の時期に来たことです。イエス様には、ユダヤ人が、ご自分を受け入れないということが分かっていました。ユダヤの国は、御自分の郷里であり、御自分の民族であり、御自分の家族であったのです。ですから、御自分がナザレの周りの村々を宣教されたように、弟子たちをユダヤの周辺の国々、即ち全世界に派遣する準備を開始されたのです。

イエス様は弟子たちを二人一組として派遣されました。お互いに元気づけ合うためです。伝道者の書 4章12節にこのような言葉があります。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」伝道と言う人間相手の仕事は、決して容易ではありません。人間にはほとんど不可能な任務です。ですからいくら伝道しても誰も信じなければ、心が折れてしまいます。しかしそのような時でも、二人なら知恵が浮かび、相互の欠点を補うことができ、弱った時に助け合うことができます。イエス様は伝道に初心者である弟子たちの弱さをよくご存知であったのです。私も一人だったら、伝道はとてもできない任務です。しかし神様は良き伴侶を与えてくださいました。二人なら心強いですね。

イエス様はこの二人ずつの組の弟子たちに最強の武器を与えてくださいました。それは汚れた霊を追い出す権威です。これが最強の武器であることは、それ以下の武器は全て与えられていると言えます。すなわち、ツァラアトを清める力とか、病人を癒す力は当然与えられました。弟子たちはイエス様が持つ権威を与えられたのです。

次に命じられたことは、生活に関することでした。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻に金も持って行ってはいけません。くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」これは、着の身着のままで宣教旅行に行け、という指示です。食料も、お金も、着替えも無くて、一体大丈夫なのでしょうか。大丈夫なのです。ただ弟子たちがイエス様に全面的に頼っていればの話です。イエス様が世界宣教のスポンサーですから、弟子たちの生活を全部面倒見てくださるというのです。イエス様が人々を動かして、弟子たちの生活を支えてくださるのです。ですから弟子たちに求められていることは、イエス様に全面的に頼ることなのです。

そして最後に命じられたことは、宿泊する場所です。イエス様はこのように命じられました。「どこででも一軒の家に入ったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」イエス様は家を渡り歩いてはならないと暗に言われました。よき食事、良き待遇を求めてはならないと言われたのです。どの家でも最初に入った家が受け入れてくれたらそこに留まり、その地方一体の伝道に励みなさいという指示です。イエス様がその家の主人を祝福して、弟子たちの面倒を見させるようにしてくださるというのです。

でも、中には弟子たちを受け入れない場所、弟子たちの言葉を聞こうとしない人々がいるのも確かです。みんながみんな従順に弟子たちの言葉を受け入れるわけではないのです。これが世の中です。神様がそのようにされておられるからです。ですからその時は、サンダルの裏に付いた塵を払い落とし、やむなく離れなければならなかったことの証とせよと言われたのです。ですから決して、相手に対して嫌味なことをしているのではありません。

これ等の全ての指示は、弟子たちを苦しめるのではなく、生活に関する煩いから解放するためでした。弟子たちはこの最初の経験を通して、イエス様への信頼を完全なものとしました。主は何も持っておられないように見えるけれど、全てを持っておられるお方であることを弟子たちは、この経験を通して知ったのです。最後の晩餐の時、イエス様は弟子たちに聞かれました。ルカの福音書22章35節です。「『わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。』彼らは言った。『いいえ。何もありませんでした。』」

イエス様のこれ等の指示に従って、弟子達は二人一組の宣教の旅に出かけました。弟子達が行ったことが3つ書いてあります。第一は「悔い改めを説き広めた」ことです。具体的には、イエス様の宣教開始時の第一声と同じと思われます。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコの福音書1:章15節)神の国とはイエス様のことです。神様であるイエス様御自身が神の国なのです。イエス様が人間の姿をしているからと言って、神の国は何と狭いことか、と見てはいけません。悔い改めてイエス様を信じる時、わたしたちはイエス様という入口を通して、イエス様の内部にある広大な神の国に入るのです。わたしたちはこの世にいながら同時に神の国に入っているのです。イエス様がこの様に言われるからです。マタイ12章28節です。「しかし、わたしが神の御霊(みたま)によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。」神の国に入れていただけると、わたしたちはイエス様の庇護の下にいることになり、様々な災いから守られることは確かです。まさにわたしたちは詩篇91篇で歌われている「いと高き方の隠れ場に住む者、全能者の陰に宿る。」者となるのです。ですから悔い改めを説き広めることは、全ての人に神の国に入る方法を伝えることであることが分かります。イエス様の弟子である全てのクリスチャンは、この悔い改めを説き広めることが求められています。そのためにはクリスチャン自身が悔い改めているかどうかご問われています。ルター博士は「95か条の提題」の第一条で言われました。「わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』(マタイの福音書4章17節)と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」このルター博士の教えによれば、イエス様は、私たち全てのクリスチャンに、日々悔い改めることを求められておられる、と言うのです。ですから、悔い改めましょう。そして日々神の国に入れていただきましょう。

弟子たちが行った第二番目は、悪霊を追い出したことです。イエス様が行われたように、弟子たちも行いました。この悪霊を追い出す権威は一般のクリスチャンには与えられていませんので、くれぐれも真似てはなりません。

弟子たちが行った第三番目は、「大勢の病人に油を塗っていやした。」ことです。弟子たちには基本的に癒しの力が与えられていたので、言葉だけで癒すことができるのです。それも瞬時に癒す奇蹟の力です。それなのに油を塗ったのは、イエス様の指示があったからかもしれません。その理由の詳細は分かっておりません。

イエス様の説教に対して、ナザレの人々が聞こうとしなかったのは、公生涯に入られる前のイエス様のことをあまりにもよく知っていたことに由来しています。ですからナザレの人々はイエス様の言葉を聞いて心に恐れがありませんでした。人間の言葉として聞いていたからです。その結果彼らは悔い改めるチャンスを逃してしまい、イエス様に対して罪を犯してしまいました。人は悔い改めなければ決して神の国に入ることはできません。イエス様はそのことを人々に教えるために、弟子たちに悪霊を追い出す権威を与えて、悔い改めを説き広めさせました。悪霊を追い出す権威は、人々の心に恐れを抱かせ、悔い改めに導くためです。この悔い改めこそが神の国に入る唯一の手段であり、入り口なのです。ですから私たちも日々悔い改めて日々神の国に入れていただき、またチャンスがあれば人々に悔い改めを勧めましょう。そして多くの人と共に神の国、天の御国に日々入る者とさせていただきましょう。

人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2018 Rev. Manabu Wakabayashi