バーナー 本文へジャンプ
 

 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

今週の説教 聖書箇所
2018年1月14日(日) マルコの福音書 1章4-11節

4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。

7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。

8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。

10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。

11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」


(新改訳聖書第3版


今週の説教 全文

2018年1月14日(日)  わたしたちの主の洗礼


聖霊によって洗礼を授ける方     マルコの福音書 1章4-11節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

先週12日金曜日のことですが、朝起きてみたら「今まで見たこともないような景色」にびっくりしてしまいました。木曜日に30センチほど積もったので、それを妻と二人で除雪しました。それなのに木曜日の夜に一晩で新たに大雪が積もってしまったのです。物差しで測ってみましたら75センチありました。テレビのニュースでは新潟市で積雪80センチと報じていましたが、ここ小針西では積雪合計105センチとなるので、もっと積もったようです。私たちはその大雪をのけるのに一苦労でした。本当に、神様のなされることにはかないません。ただただ神様に願うだけです。「神、主よ。どうか、おやめください。ヤコブはどうして生き残れましょう。彼は小さいのです。」と預言者アモスが7章5節で祈った言葉を思い出します。

人間はAIという人工知能を開発して、囲碁の名人に勝ったとか、あるいはiPS細胞で多くの病気が直せるようになる、というニュースを聞くと、人間ってすごいなあと思いますが、考えてみればどれもこれも神様が行っておられることを真似たり、用いたりしているだけであることが分かります。人間は小さいのです。神様がすごすぎて見えないのです。人体の細部を観察すればするほど、すごいなあと感心しますが、次に出てくる言葉は「進化」です。先端技術の開発者の頭の中には、神様に対する思いが無いのでしょうか。この世の人々の興味の対象は物質的な世のことだけですので、止むを得ません。しかしこの世はいつか滅びますが、その前にわたしたち自身が死という人生の終わりを迎えて滅んでしまいます。イエス様はルカの福音書12章20節で、豊作で喜ぶ金持ちに言われます。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』大切なのは、物質的なことではなく霊的なことです。即ち救い主イエス・キリストを信じ、罪を悔い改めて、洗礼を受けることです。そうすれば私たちは神の子供とされ、神様からさらに知恵と力をいただき、もっと多くの素晴らしいことをなし、神様の栄光を輝かすことができます。

さて洗礼者ヨハネについては昨年の待降節の時にお話ししました。洗礼者ヨハネは罪の赦しのための悔い改めの洗礼を宣べ伝え、大勢のユダヤ人を悔い改めに導き、罪の赦しを与える洗礼を施しました。そして神の御子イエス・キリスト到来の準備をしました。ですから洗礼者ヨハネはイエス様よりは半年早く生まれて、イエス様より約半年早く荒野に現れ、「主の道を用意し、主の通られる道を真っすぐにせよ。」と叫んでいました。こうして洗礼者ヨハネは大勢のユダヤ人を悔い改めに導き、そのユダヤ人の心の中にイエス様を迎え入れる、真っすぐな信仰の道を造っていたのです。ですから使徒パウロは使徒の働き19章4節で洗礼者ヨハネについてこのように言っています。「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」なぜ使徒パウロがこの様に言うことができるのかと言いますと、洗礼者ヨハネが洗礼を授ける時に、本日の聖書箇所の7節と8節に書いてあるように人々に教えていたからです。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」

洗礼者ヨハネはこの言葉で、イエス様が王様のような偉いお方であると言いました。「わたしには、かがんでその方の靴の紐を解く値打ちもありません。」そして決定的な言葉は、「その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」です。これはイエス様が神様の御子であるということを表しています。ヨハネの福音書15章26節でイエス様ははっきりと、聖霊様を遣わすとおっしゃっています。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」このイエス様の言葉を受けて私たちもニケヤ信条で信仰告白するのです。「われは主にしていのちの与え主なる聖霊を信ず。聖霊は父と子とよりいで、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によりて語りたまいし主なり。」ですからイエス様は第三位格の聖霊様を遣わされる第二位格の神様であると分かります。もちろん第一位格の神様は皆様御存じの通り、父なる神様です。

さて本日イエス様はヨルダン川に来られ、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられました。その時のやり取りがマタイの福音書3章14節と15節に載っています。ヨハネはイエス様を止めようとして、こう言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、」それに対してイエス様は言われました。原典のギリシャ語聖書を直訳します。「今はそれを許せ。というのは、このようにして、全ての義なることを実行するのは、私達にふさわしいからです。」それでヨハネは承知してイエス様に洗礼を施しました。

このイエス様の言葉から分かることが二つあります。一つは後半の「全ての義なること」という言葉です。洗礼とは「義なること」の一つであるというのです。洗礼は人を義とする儀式です。もちろん単なる形式的な儀式でなく、そこには悔い改めという心からの回心が求められる儀式です。そして父と子と聖霊の御名で三度頭に水をかけられると罪が赦され、その人の上に聖霊様が下られます。ですから洗礼式自体は人を義とするものですから、全ての人が受けるべきものなのです。この世の中に罪の無い人が居ないように、洗礼を受けなくとも良い人はイエス様を除いて一人もいません。イエス様はそのお手本を示されました。罪のない神様でさえ洗礼を受けられたのだから、ましてや罪深い人間は誰もが洗礼を受けなければならないのです。そうしなければ滅んでしまうからです。

もう一つは前半の「今はそれを許せ。」という言葉です。このイエス様の言葉を翻訳するとこうなります。「今は私に、義なることである洗礼を施し、救い主の任務に就任させてもらいたい。」洗礼という儀式は、罪の赦しを与える恵みの手段でもありますが、洗礼を受ける人に罪の赦しと同時に、その人に聖霊様を下らせ、その人を宣教者とするためでもあります。このことはとても大切です。罪の赦しだけであったならば、聖霊様の授与は必要ありません。聖霊様が与えられるのは、神様の言葉である聖書が良く理解できるようになるためであり、神様の御心が良く理解できるようになるためであり、イエス様と共に人を救う宣教の業へと参画するためです。御父と御子と御霊の三位一体の神様のお名前で洗礼を受ける人は、宣教者として任命されるのです。

イエス様は神様ですから人間のように罪があるわけではありません。ですからイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるのは、宣教者、中でもその中心リーダーとなる「救い主」の任務に就任するためです。事実、イエス様が洗礼を受けられてヨルダン川から上がると、天が開け、聖霊様が鳩のようにイエス様の上に下られました。これはイエス様が宣教者たちのリーダー、即ち救い主に就任されたことにほかなりません。

このようにバプテスマのヨハネでしかできないことは、イエス様を救い主の任務に就任させることだったのです。それでイエス様は、バプテスマのヨハネを「人間として最大の人物である」、と評価しています。マタイの福音書11章11節です。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」バプテスマのヨハネがいなければ、イエス様が救い主として就任できず、従って人類の救いは実現しなかったからです。それほどバプテスマのヨハネは偉大な人物だったのです。

バプテスマのヨハネから洗礼を受けて、イエス様が救い主に就任されたことを示す出来事が三つ起こりました。

一つ目は天が裂けたことです。天とは神様がおられる所で、天の御国の事です。この天が裂け、天の御国の入り口が開いたということは、イエス様の救いの働きが始まったことを表しています。すなわちイエス様が救い主に就任されたことを示しています。この時から多くの人がイエス様を信じて洗礼を受け、開いている天の入り口を通って天の御国に凱旋できるようになったのです。ですから、またこの入り口はイエス様ご自身とも言えます。ヨハネの福音書14章6節「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

二つ目は、御霊が鳩のようにイエス様の上に下って来たことです。聖霊様は霊ですから、人間の目には見えません。それが鳩のように羽ばたきながら下って来たというのは、人間に見せるためです。具体的には洗礼者ヨハネを始め、洗礼者ヨハネから洗礼を受けに来た人々が見ることのできるためということになります。これはまた私たちのためにでもあります。私たちもまたイエス様を信じて洗礼を受けた時、聖霊様が自分の上に下られたことを確信するためです。もちろん私たちにはそのことが実感として感じることができません。信仰によって理解するしかほかに方法がありません。信仰が成長してこなければそうだと受け取れないことです。

私の場合時間がかなりかかりました。私も聖霊様を与えていただきたかったので、「神様。私にも聖霊様を与えてください。」とお祈りしていました。そうしたら、受洗後14年経った1991年5月27日の夜、イザヤ書61章1節を読んだ時、「お前が願っている聖霊をお前の上に置いたよ。」という声が聞こえたような気がしました。聖書のその箇所にはこのように書いてありました。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。・・・」聖霊様は確かに洗礼を受けた時与えられたのでしょう。でも私の信仰が成長していなかったから分からなかった、と言えます。そしてその5年後にわたしは会社を早期退職して、家族を連れてアメリカの神学校に入学しました。宣教者となるためです。まさにイザヤ書61章1節に書いてあることがわたしの身の上に起こり、現在に至っております。

この様に、私たちは罪を告白し、イエス様を信じて水の洗礼を受けると、賜物としてイエス様から聖霊のバプテスマを授けられるのです。ペテロが使徒の働き2章38節で言っている通りです。「そこでペテロは彼らに答えた。『悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。』」ですから、洗礼を受けたのに「聖霊様がまだ自分の内に働かれておられない」、と思う人は、聖霊様に働いて下さいと祈りましょう。そうすれば聖霊様が働いて下さいます。

三つ目は天から声がしたことです。父なる神様はこのように言われました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」原文のギリシャ語を直訳するとこうなります。「あなたは私の最愛の息子、私はあなたを喜んだ。」「喜ぶ」が過去形「喜んだ」となっています。この父なる神様の言葉はこのような意味です。「あなたは私の最愛の息子です。なぜなら、私は始めからあなたを救い主として、喜びを持って選んでいたからです。」イエス様は聖霊によって処女マリヤに宿られたお方です。その神の子イエス様が30歳になられた時、公生涯に入るためにガリラヤのナザレからヨルダン川に来られました。そしてバプテスマのヨハネから洗礼を受けて救い主の任務に就任され、十字架への道を歩み始められたのです。このことを喜ばれて、父なる神様は御子イエス様を、「最愛の息子」と呼んでおられるのです。この父なる神様の言葉は、また私たち人間がイエス様の洗礼に倣い、従順になって洗礼を受ける時、私たちに与えられます。「あなたは私の最愛の子供。私はあなたを喜ぶ。」今度は「喜ぶ」と言う現在形です。なぜなら父なる神様は、全ての人がイエス様を信じ、罪を悔い改め、洗礼を受けて神の子供とされることを一日千秋の思いで待っておられるからです。

このように、本日イエス様は洗礼者ヨハネから水の洗礼を受け、聖霊によって洗礼を授けるお方、即ち救い主の任務に就任されました。この時、このイエス様の洗礼に倣って洗礼を受けた古今東西の全ての人の罪がイエス様の上に流れてきました。そして父なる神様は、全ての人の罪を担った御子イエス様をゴルゴダの丘で十字架に付けられて殺されました。ですからイエス様の洗礼を模範として、全ての人が従順に洗礼を受ける時、その人はイエス様と同時に死んだものとみなされ、その人は罪から解放されて、義と認められるのです。それだけではありません。洗礼を受ける時、イエス様が聖霊の洗礼を授けてくださり、あなたを宣教者として任命してくださいます。あなたは聖霊様に導かれて喜びに溢れて福音伝道への道を歩み始めるのです。罪から解放し、永遠の命を与え、福音宣教者と任命するこの洗礼を、全ての人に受けて欲しいと父なる神様は願っておられます。あなたの罪赦された喜びの生活を通して、罪の赦しを宣べ伝えさせていただきましょう。そして父なる神様から「あなたは私の最愛の子供。私はあなたを喜ぶ。」と言っていただきましょう。神様はあなたの人生を祝福されたものとしてくださることは確かです。何しろあなたは神様の愛する子供ですから。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi