バーナー 本文へジャンプ
 

 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

過去の説教 聖書箇所

2017年11月5日(日) マタイの福音書 5章1-12節


1  この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみ
  もとに来た。

2  そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。

3  「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

4  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

5  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。

6  義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。

7  あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。

8  心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから。

9  平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。

10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2017年11月5日  全聖徒主日


霊の貧しい者は幸い
         マタイの福音書5章1-12節

牧師 若林學      


わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。


本日の聖書箇所は有名な山上の垂訓の場面です。四年前、妻と共にイスラエル巡礼の旅をした時、ぜひこのイエス様が説教された山にも行ってみたいと思いました。しかし残念ながらその思いを果すことができませませんでした。私たちが予約したイスラエル北部を巡る現地のツアーのプログラムには山上の垂訓の山は含まれていなかったからです。その代わり有名な所はもちろんですが、私たちが知らない場所にも連れて行ってくれました。ポイント、ポイントを観光バスで移動するので効率的でしたが、相互のつながり感が薄く、何か展示場内に展示された景色を見ているような感じでした。もう一度訪れるチャンスが有りましたら、今度は自分たちの足で、かつてイエス様が歩かれたと思われるガリラヤの山や丘を歩いてみたいと思っています。


さて、この使徒マタイが記した山上の垂訓は5章、6章、7章の3章に渡る長い説教です。この長い、長い説教の中でイエス様は、ご自分の弟子となろうとする人々が、天の御国に入るところから始まって最後の審判の時に至るまで、クリスチャンとしての生活をどのように過ごしていくべきかを、手引書のように要点を簡潔にまとめられて説いておられます。


本日の聖書箇所はこの3章に渡る山上の垂訓の最初のほんの12節です。でもこの12節が天の御国の入り口なのです。そしてこの12節の中でも、天の御国の扉は3節と10節です。両方とも「天の御国はその人たちのものだから。」と書いてありますから分かりやすいです。そしてなぜその二つが扉なのかというと、もう一つの理由があります。それは原文のギリシャ語を見ますと、その二つだけが現在形の動詞で書いてあるからです。現在形というのは「過去そうだった」とか、「未来そうなるだろ」とかではなく、「現在そうだ」と規定する言い方です。それに対して4節から9節までの六つは未来形の動詞で書いてあります。日本語でその現在形と未来形が分かるように翻訳されているかというと、残念ながらそうではありません。私たちの目にはどの節も現在形に見えます。文法的に正確に翻訳するとこうなります。


3節と10節は現在形なのでそのままでOKです。4節は「その人たちは慰められるから」では無く、受動態の未来形で「その人たちは慰められるようになるから」。同様に5節も「その人たちは地を受け継ぐから」ではなく、能動態の未来形で「その人たちは地を受け継ぐようになるから」。6節も「その人たちは満ち足りるから」ではなく、受動態の未来形で「その人たちは満ち足らせられるようになるから」。7節も「その人たちはあわれみを受けるから」ではなく、受動態の未来形で「その人たちはあわれみを受けるようになるから」。8節は「その人たちは神を見るから」ではなく、今度は能動態の未来形で「その人たちは神を見るようになるから」。9節は「その人たちは神の子どもと呼ばれるから」ではなく、受動態の未来形で「その人たちは神の子どもと呼ばれるようになるから」となります。わたしは日本語聖書の翻訳者がどうしてこの様に正確に翻訳しないのか不思議でなりません。


これ等の未来形は、現在形の3節あるいは10節の扉を通って天の御国に入ればおのずとそうなりますよ、と保証している言い方です。生まれつきの人間が自分の知恵や努力で柔和な者とか、義に飢え渇く者とか、憐れみ深い者とか、心のきよい者とかになることができる、とはとても思えません。神様の力によらなければ、そうなることができないことは明らかです。ですから、そうしてくれる素晴らしい天の御国の扉が3節と10節に用意されているというのです。


それではその素晴らしい天の御国の扉として、3節と10節のどちらの扉が入り易いでしょうか。義のために迫害されるよりも心が貧しい方が入り易いように思えるのは、人間の心理として当然ですね。誰も迫害されることなど歓迎しません。


そういうことで3節の「心の貧しい者は幸いです」が、臆病者のための天の御国の扉となります。これが最初に書いてあるのは、ここから入りなさいということですね。そこでまず、「心の貧しい者」とはどのような心の持ち主を言うのでしょうか。ギリシャ語の原文では「霊の貧しい者」と書いてあります。調べてみましたら英語聖書はどの聖書もそのものずばり「the poor in spirit」です。それに反して日本語聖書は、口語訳も、新共同訳も、新改訳第三版も、そして今度新しく発行された新改訳2017年版も全て「心の貧しい者」です。どうして日本語聖書はどれもこれも判で押したように「心の貧しい者」なのでしょうか。一つくらい、原文に忠実な翻訳があってもしかるべきと思うのですが、無いのです。


日本語聖書の貧しさを嘆くのはそのくらいにして、ギリシャ語原文通り「霊の貧しい者」とは、どのような人のことを言うのか見てまいりましょう。


ご存知のように、人間は体と心と霊の三要素からなっています。体と心と魂の三つだという人もいますが、キリスト教では魂とは言わず霊と言います。霊も魂もいずれも精神活動を司ると考えられている場所です。人間は生まれつき、この霊の場所には何が位置しているかというと、「自我」が位置しています。すなわち「自分自身」がでんと腰を下ろしているのです。自我が位置している限りその人は「貧しく」ありません。しかし、その代わり人を人と思わず、神を神と思わない傲慢さに満ちています。すなわち、人間一人一人がそれぞれ小さな神様となっているのです。それでお互いにいがみ合い、憎み合い、傷つけ合い、殺し合うのです。


しかしこの自我が打ち砕かれる時、その人の霊は貧しくなります。貧しいとは空っぽという意味です。誰が打ち砕いて空っぽにするのでしょうか。打ち砕くことのできるのは人間を造られた神様だけです。神様が人間に傲慢の自我を与えておられるから、神様のみが自我を砕くことができるのです。ですからお互いいがみ合い、憎み合い、傷つけ合い、殺し合う結末が滅びであることを恐れて、神様に何とかしてくださいとひれ伏す時、自我が砕かれます。またある人は、自分の思い通りにわがままな生活を送った結果、重病に陥り死を恐れるようになり、神様に何とかしてくださいとひれ伏すかもしれません。その時、自我が打ち砕かれます。このように死を目の前に突き付けられなくとも、こんな自分勝手なことをしていたら行く末は死だと悟り、さっさと神様の前に何とかしてくださいとひれ伏す人もいるでしょう。その時その人の自我は打ち砕かれます。いずれの状態でも自我が打ち砕かれること、これがいわゆる悔い改めです。これがルカの福音書15章17節に示されているように、放蕩息子が「はっと我に返って」父のもとに帰ろうと思い立った瞬間です。「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。」放蕩息子は飢え死にしそうだという恐怖に襲われて自我が打ち砕かれたのです。


この様に自我が砕かれると、今まで自我が占有していた霊の場所に位置するのは、イエス様です。もはや悪魔に支配された自分ではありません。ガラテヤ人への手紙2章20節で使徒パウロが告白している通りです。「わたしはキリスト共に十字架に付けられました。もはやわたしが生きているのではなく、キリストがわたしの内に生きておられるのです。」このようにイエス様が内に生きておられるようになったその人には、もはや肉の行いである「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」(ガラテヤ人への手紙5章19節-21節)などはありません。あるのは御霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ人への手紙5章22節-23節)です。


この御霊の実を実らせている人はどのような人でしょうか、その人は本日の聖書箇所マタイの福音書5章4節の悲しむ人です。共に悲しんでくださるイエス様がその人の内におられるからです。ヨハネの福音書11章33節から35節には、兄弟ラザロが死んで悲しむマリヤを見て霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて涙を流されたイエス様が記されています。この様に書いてあります。「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。」


同様に、この御霊の実を実らせている人は柔和な人でもあります。柔和なイエス様が内におられるからです。

同様に、この御霊の実を実らせている人は義に満ち足りる人でもあります。義なるイエス様がその人の内におられるからです。

同様に、この御霊の実を実らせている人は憐れみ深い人でもあります。その人の内に憐れみ深いイエス様がおられるからです。

同様に、この御霊の実を実らせている人は心のきよい人でもあります。その人の内に心のきよいイエス様おられるからです。

同様に、この御霊の実を実らせている人は平和を造る人でもあります。その人の内に平和の君イエス様おられるからです。


この様に悔い改めた人の霊の座にイエス様が座られると、その人は悲しみの分かる人、柔和な人、義に飢え渇く人、憐れみ深い人、心のきよい人、そして平和を造る人となるのです。一人の人に様々な御霊の実が実るようになるのです。


それではもう一つの天の御国の扉である10節の「義のために迫害されている者」とはどのような扉なのでしょうか。義とは、義なる方イエス様を表します。ですから義のために迫害されている者とは、イエス様のために迫害されている人です。つまりキリスト教を広めようと日夜努力している人々です。キリスト教が広まると困る人は誰でしょうか。キリスト教が広まると困るのは、この世の人々であり、この世の権力者たちです。自分たちの罪が示され、暴かれるからです。まあまあ、なあなあで行かなくなるからです。賄賂で口を封じることができなくなるからです。賄賂が効かないとなると、暴力に訴えてくるのです。つまり迫害するのです。この世はクリスチャンのきよい生き方や言葉に耐えることができないからです。しかし人間は神様に勝つことはできません。神様は人間よりも強いのです。このことを知っている人が迫害を恐れない人々です。この人々はキリストを内に持ち、天の御国に住み、キリストのくださる永遠の命や自由を、この世の命や自由とは比べ物にならないくらいはるかに素晴らしい、と確信している人々であるからです。


イエス様はこの人々に対して言われました。11節と12節です。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」なんと、イエス様は、ご自分のために迫害されている人々を預言者たちと同列に置かれました。即ち、あなたがたは預言者ですと言われたのです。ですから迫害を受けた人は、迫害を受けなかった人よりも報いは大きいと約束されました。一体どのくらいでしょうか。それは想像を絶するほどのものです。その報いを見た瞬間、幸いと感じるだけではありません。おおっーと喜びが沸き起こり、そして落ち着いて座っておれなくなり、気が付いたら喜びに満ち溢れて、踊り回っているようになる、という、そのような報いなのです。一体それはどのような報いなのでしょうか。それは天の御国に凱旋してからのお楽しみですね。


そういう訳ですから、普通の人である私たちは、生まれつきのままでは放蕩息子のように滅びるだけだと知って、悔い改めて霊の貧しい者とならせていただきましょう。悔い改めさえすれば、私たちの空っぽとなった霊の場所にイエス様が入ってくださいます。そして私たちを天の御国に引き入れてくださり、わたしたちを内側から根本的に変えてくださいます。すなわち、わたしたちは人の悲しみを共に悲しむ者となり、イエス様から涙をぬぐっていただく者となります。また柔和な者とされ、この地上では天寿を全うする者となります。また義に飢え渇く者となり、イエス様から義人とみとめていただけます。また憐れみ深い者とされ、イエス様から憐れみを受ける者となります。また心のきよい者とされ、いつも神様を見る者とされます。また平和を造る者となり、神の子どもと呼んでいただけます。そしてたとえ義のために迫害されるようになっても迫害を恐れなくなり、かえってイエス様のためにののしられ、迫害され、ありもしないことで悪口を浴びせられると、「御名のために辱められるに値する者とされたことを喜ぶ」(使徒の働き5章41節)ようになります。この様にされた私たちの報いは大きいとイエス様は約束しておられます。ですから、まず悔い改めましょう。そしてマルティン・ルター博士が言うように、日々悔い改めましょう。そうすれば私たちの報いは天において大きいのです。

人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2017 Rev. Manabu Wakabayashi