2017年11月19日 聖霊降臨後第24主日
「地に主人の金を隠した僕」 マタイの福音書25章14-30節
牧師 若林學
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
11月5日の全聖徒の日から始まった終末節も半ばとなり、今週と来週の2週間を残すのみとなりました。来週はイエス・キリストが再臨される最後の審判の場面となります。そこで今週は、どういう人が最後の審判に引っかかって、天の御国に入れなくなるのか、そのことを学び、最後の審判に間に合って、全員がもれなく天の御国に入れるようにという考えのもとで、本日の聖書箇所が用意されています。そこで今朝は、天の御国に入れない人とはどういう人なのか、ということに的を絞って、本日の説教題を「地に主人の金を隠した僕」とさせていただきました。
先週も申しましたように、イエス様の再臨はまだまだ先のこと、おそらく2000年後のこと思われます。多分、主の再臨までにこれからも多くの人が亡くなって行くでしょう。ですからわたしたちの命が終わる時、すなわち私たちがこの世を去る時、その時が全ての人にとって主の再臨の時となります。わたしたちはこの世の生が終わると、永い眠りにつくからです。そして主の再臨が起こると、わたしたちは直ちに眠りから目覚めさせられ、もう一度永遠の体が与えられてよみがえり、主の御前に立たされます。ですから生きている今、信仰を持たなければ、信仰を持つチャンスは二度とめぐってこないということははっきりしています。
しかし一口に信仰を持つと言っても、主の再臨の時にどのような質の信仰を持っているかが問題となります。すべての人は主の再臨の時に主の御前に立つことになります。その時主の審判に耐え得る信仰を私たちはこの世に生きている内に持たなければなりません。主の審判に耐え得る信仰とはどのような信仰なのかが本日の聖書箇所に示されていますので、これからその信仰を見てまいりましょう。
さて25章14節でイエス様は「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」と言われました。旅に出て行く人はイエス様であり、旅とは昇天されることです。したがって僕たちとはイエス様の弟子達、すなわちクリスチャンのこととなります。イエス様は昇天される前に、弟子たちにタラントを預けました。15節です。「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。」このタラントは商売の元手でした。その元手で商品を仕入れ、必要経費と利益を上乗せして売るのです。ですから商売はほぼ確実にもうかりますが、どのように経営していくのかと言う才覚が求められます。
新改訳聖書下段にある引照の15節に*印があって「一タラントは6000デナリ」と書いてあります。1デナリは当時の労務者の1日分の賃金でした。今の日本の労務者の1日の賃金は約1万円です。ですから日本円に換算すると1デナリ約1万円となります。そうしますと1タラントである6,000デナリは、約6,000万円、二タラントは2倍の約1億2,000万円、五タラントは5倍の約3億円となります。合計すると約4億8,000万円です。大切なことは、「各々の能力に応じて」という言葉です。主人は僕たち一人一人の能力を知っていたことが分かります。
ですから、「五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに5タラントもうけ、同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけ」ることができました。彼らは二人とも、主人からお金を任されると、時間を置かずに「すぐに行って」商売を始めています。主人が旅に出たからと言って遊んでいなかったのです。この「すぐに」という言葉に、喜んで仕事に当たる僕たちの心意気が伺えます。自分達の能力を知って、自分達を信頼して大金を任せてくれた主人に感謝して、各々力を発揮して商売をしたということがわかります。
「ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した」のです。主人はこの僕に一タラントしか預けなかったからと言って、この僕を信頼していなかったわけではありません。信頼していました。ですから6,000万円もの大金を預けたのです。この僕に一タラント稼ぐ力があると評価していたからです。でもこの僕は出て行って、地面に穴を掘って、主人のお金を隠してしまいました。この僕は預けてもらった金額が他の僕たちよりも少なかったので、ひがんだのでしょうか。つまり自分が不当に扱われたとゆがめて考えたのでしょうか。人間一人一人の能力は、基本的に違いますから、もしひがんだとすると、この僕はクリスチャンとして問題があります。自分の能力を評価し、信頼して6,000万円もの大金を預けてくださった主人に、感謝こそすれ、ひがむ理由はあるはずがありません。ですからこの僕には、他に隠された問題があったことが分かります。その隠された問題は、この世の最後の日の裁きの時に、明らかにされるのです。
さて僕たちの主人はよほどたってから帰って来ました。イエス様の再臨が起こったことを表します。主人と僕たち間で清算が始まりました。まずやって来たのは五タラント預かった僕です。彼は主人に言いました。20節です。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」この言葉は自慢ではなく、喜びです。この言葉の内に、「あなたがわたしに五タラント預けてくださったから、わたしはそれを用いることができて、五タラント稼ぐことができたのです。もし五タラントわたしに預けてくださらなかったら、わたしは何もできませんでした。全てあなたのおかげです。」と言う喜びの気持ちに溢れていることが良く分かります。
ですから主人は言いました。21節です。「よくやった。良い忠実な僕だ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」このように、主人も大喜びしていることを隠してはいません。イエス様は私たちが任せられた仕事を忠実に遂行することをとても喜ばれることが良く分かります。主人はこの僕の仕事ぶりを「よくやった。何と良い忠実な僕だ。」と感嘆の意を込めて、べた褒めしているからです。そして「僅かなものに忠実であった。」と、その行いの正しかったことを最大限に評価しています。なぜかと言うと、人間は大きいことには忠実になってやりますが、誰にもできるような小さな事にはなかなか忠実にできない傾向があるからです。
今NHKの大河ドラマで「おんな城主直虎」をやっていますが、その中で伊井万千代と言う小姓が下足番を命じられる場面が数週間前にありました。万千代は最初「下足番?」と言って、不満の気持ちを表しました。しかし主君の家康から「日の本一の下足番になってくれ。」と言われ、万千代ははっと我に返ったのです。そして気持ちを入れ替え、日の本一の下足番になれるように忠実に励み、出世の足掛かりにしていきました。
しかし五タラント、3億円は、万千代の下足番とは違って、私たちにとって僅かなものであるとはとても思えません。しかしイエス様はこれを僅かなこととされました。イエス様が言われる「僅か」と言う意味は、お金の多い少ないではなく、仕事の質のことです。商売と言う仕事は基本的に商品を右から左に流す単純な作業です。当然そこには、才覚が必要であり、計算能力が求められますが、商売するにあたって大切なことは、その単純作業に飽きないということです。商売の商は「あきない」と読みます。商売に飽きてはならないのです。万千代の下足番も単純作業であり、商売も同じ単純作業なのです。私たちが忠実な商売人なのかどうかイエス様は見ておられるというわけです。イエス様はルカの福音書16章10節でこのように言っておられます。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。」
次に二タラント預かった僕も来て、主人に二タラント儲けたことを報告しました。主人はその二タラント授けた僕に、五タラント授けた僕に示したと全く同じ言葉、同じ態度で喜んでくださいました。
そして最後に一タラント預かった僕も来て言いました。24節と25節です。「ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。わたしはこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。」この僕の言葉の中に、この僕の性格と信仰が表されています。イエス様を「ご主人様」と呼んでいますから、この僕に一応信仰があることが分かります。しかしこの僕はイエス様を「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だ」と受け取っていたのです。この受け取り方は、前の二人の僕の受け取り方と真逆の受け取り方です。その受け取り方の意味はこうです。「ご主人さま。あなたは僕たちに種を蒔かせて、刈り取らせ、僕たちの労働によって良い収穫を得ており、僕たちに麦の穂を脱穀させて、もみ殻を散らさせ、僕たちの労働によって、あなたの倉庫を穀物で満たさせているひどい方です。」
この僕の主人は決して僕に、搾取するような労働を課しているわけではありません。僕に資本金ゼロで事業をせよと言っているわけではないのです。事実この僕は一タラントの資本金を受け取っています。しかし、この僕は自分が一タラント、日本円で6,000万円の資本金を預かったことを無視しています。ひどいのはどちらでしょうか。言いがかりをつけている僕の方ではないでしょうか。働くのが嫌だったり、損をしたりして一タラント失うのが怖かったのなら、後で主人が言うように、銀行に預けておくべきでした。いま日本は超低金利で、一般銀行の定期預金の金利は0.01%です。それでも6,000万円預ければ1年で6千円の利息が付きます。この様に銀行に預ければ、地面に穴を掘るという肉体労働も必要ないし、誰かに見られて盗まれる恐れもなく、さらにご主人様が帰って来た日にはたとえ僅かでも利息を付けて返すことができたのです。
それなのにこの僕は、地面に穴を掘って埋めてしまいました。主人の6,000万円は埋蔵金となってしまったのです。その埋めた理由は「怖かった」からと言うのです。こんな理由がまかり通るとでも言うのでしょうか。この故に主人はこの僕がどのような人間なのか断罪しています。「悪い怠け者の僕だ。」五タラントや二タラント預かった僕たちへの評価「良い忠実な僕だ。」とは全く正反対の評価です。
イエス様はマタイの福音書12章34節と35節で、パリサイ人に向かってこの様に言われました。「まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。」マムシと言うのはエデンの園でエバをだました悪魔です。悪魔は神様に逆らうことから、罪の権化と言えます。すなわち「悪」とは「罪」と言うことです。したがって「悪」の反対の「良い」は罪が無い状態、即ち「義とされた状態」となります。また「忠実な者」と言うのは「信仰心がある人」を表し、したがってその反対である「怠け者」は「信仰心の無い人」となります。これらを互いに組み合わせると、「良い忠実な僕」とは「義とされた信仰者」となり、「悪い怠け者の僕」とは「罪深い不信仰者」となります。
一タラント預かった僕は名目上クリスチャンでありましたが、イエス様はこの人を「罪深い不信仰者」と断罪されました。そしてこのように宣告されたのです。28節から30節です。「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」外の暗闇とは地獄です。その地獄でこの僕は永遠に泣き続け、歯ぎしりし続けるのです。
ところで「タラント」とは何を例えているのかという質問があります。ギリシャ語のタラントは英語のタレント(才能)の語源となっていますから、昔から才能ではないかと言われてきました。しかし、才能とは天から与えられるものであって、自分の力で稼ぐことができるものではありません。五つの才能を持つ僕がさらに五つの才能を得ることができるというのは疑問ですし、一つの才能を持つ僕が、土に中に埋めるようにその才能を人に知れずにこの世を過ごすということも考えにくいことです。本日の説教箇所では、「良い忠実で僕として働く事」であることが求められていますから、イエス様が銀行という言葉を使われていることも踏まえ、ここでは額面通り、通貨の単位と受け取ってよいと思われます。
この様にイエス様は私たちクリスチャンに、最後の審判の時に、「悪い怠け者の僕だ」と言われるのではなく、「良い忠実な僕だ」と言われなさいと示されました。「良い忠実な僕」とは「義とされた信仰者」と言う意味です。義とされるためには、イエス様がマタイの福音書4章17節で「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」で言われるように、悔い改め、罪を赦していただかなくてはなりません。私たちが悔い改めるとき、私たちは罪が赦され、義とされ、天の御国に入れていただけるのです。この道の他に私たちがイエス様の審判に耐え得る道はありません。
また、わたしたちが悔い改める時、わたしたちは「良い忠実な僕」となり、与えられた才能を用いて、多くの人を救いに導く人となるのです。多くの人々を救いに導き、その救われた人々と共に喜びに満たされて、天の御国に凱旋させていただきましょう。
人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。
©2017 Rev. Manabu Wakabayashi
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