2017年11月26日 聖霊降臨後最終主日
「キリストを告白する行い」 マタイの福音書25章13-46節
牧師 若林學
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
先週のテレビのニュースバラエティー番組を見ておりましたら、連日各テレビ局とも「日馬富士の貴ノ岩に対する暴行事件」で埋め尽くされておりました。今回の暴行事件で一つ私の心を打つものがありました。それは貴乃花親方が暴行を受けた貴ノ岩をかばっている姿でした。彼が言っている言葉が印象的でした。貴乃花親方はこう言っていました。「私の弟子が暴行を受けたことは、私が暴行を受けた、と同じく受け止めている。」最初この言葉を聞いたとき、少し大げさ過ぎるように思われました。暴行の真実はまだ明らかになっておりませんが、日を追うごとにこの問題が広がってゆくので、少なくとも親方貴乃花の弟子貴ノ岩に対する思いが並々ならぬものであることを改めて実感しております。本日の聖書箇所でもイエス様は弟子たちに対してこの様に述べておられます。40節です。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」貴乃花親方の真意がまだ公になっていませんので、彼の肩を持って感想を言ったわけではありませんが、この暴行事件が良い方向へと解決していくことを願っております。
さて本日の聖書箇所は、この世の最後の日に起こる審判の場面です。永遠の命を受けて天の御国に入るのか、それとも永遠の刑罰を受けて地獄に落ちるのか、その時までに地上に生まれて来た全ての人が裁かれる場面です。この裁きはわたしたちが生きているこの世で受けるものではなく、ほとんどの人にとって死後に起こるお話です。死後のことは誰にもわからないからと言って済ませられる問題ではないところに、この裁きの恐ろしさがあります。生きている今、裁きが行われるのであれば、その裁きの恐ろしさを見て考え直すこともできますが、そうでないから恐ろしいのです。
そこで神様であるイエス様が人間の姿を取られてこの世に来られ、どのようにすれば確実に天の御国に入れるのか、その方法を教えてきてくださいました。イエス様はこのことをご自分が宣教を開始した時からわたしたちに命じておられました。マタイの福音書4章17節です。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」この御言葉の通り、悔い改めた信仰を持つこと、それが天の御国に入る唯一の方法です。
悔い改めとは、わたしたちの心の中心に陣取っている自我が砕かれ、イエス様を自分の主(あるじ)として迎える経験です。もちろん自我を砕くなんて人間にはできませんので、神様に砕いていただくしか方法はありません。それでこのように神様にお願いすれば良いのです。「神様。どうかわたしの自我を砕いてください。」このようにわたしたちが神様に祈るなら、神様はわたしたちの日常生活を通して、ある日突然、わたしたちに恐怖を臨ませ、わたしたちの自我を砕き、悔い改めに導いてくださいます。もし祈らないなら、使徒パウロがそうであったように、あるいは神様が憐れんで強制的に悔い改めさせてくださることも考えられますが、特別な場合に限られますので基本的に悔い改める可能性は低くなり、悪くすると悔い改めずにこの世を去ることにもなりかねません。さらに恐ろしいことは、「悔い改める」ということを知るチャンスの無いこの世の人が悔い改めずにこの世を去っていくことです。そうならないようにと神様は私たちクリスチャンに福音伝道するようにと命じておられます。この悔い改めた信仰のみが、確実に天の御国に入ることのできる信仰であるからです。
そしてこの福音が全世界の人々に伝えられた時、イエス様の再臨が起こります。浄土宗や浄土真宗や時宗という浄土諸宗には「御来迎」というに阿弥陀三尊が25人の菩薩と共に白雲に乗ってその死者を迎えに来るという信仰があります。そしてその御来迎の様子が絵として描かれているのを見たことがあると思います。私もどこかのお寺で見ました。しかしイエス様が再臨される場合はそのようなつつましい姿ではありません。イエス様に従ってくる御使いたちは少なくとも12軍団以上です。1軍団6千人ですから、合計7万2千人となります(マタイの福音書26章53節参照)。イエス様はまばゆいばかりの栄光を帯びて、無数の御使いたちを伴ってこの地上に再臨され、地上に設けられた栄光輝く玉座に座られます。イエス様は天と地とを支配される王様であるという本来の姿を現されるのです。
御到着されると、イエス様は直ちにおびただしい御使いたちを全世界に遣わして、死んだ人々をよみがえらせ、生きている人々と共に御前に集めさせます。そしてその無数の人々をご自身の右と左に分けさせられます。ちょうど羊飼いが羊と山羊とを分けるように人々を分けるのです。羊は従順な性格を持っているので、悔い改めの信仰によって従順とされた人々を表していると思われます。また山羊は物怖じしないでどんどん進んでいく性格を持っているので、信仰の従順を獲得していない人たちと見ることができます。
審判者であり、王様であるイエス様はまずご自分の右に分けられた人々に向かって言われます。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。」イエス様はこのように言われました。「悔い改めた信仰を持つ人たち。あなたがたはわたしの父なる神様に祝福されています。あなたがたは、たとえ困難の中にあっても、この世に生きている間から家族に恵まれ、経済的に不足することなく、平和のうちに過ごし、喜びに満ちた人生を送るという、わたしの父の祝福に包まれ人々でした。わたしの父はあなたがたのために天地創造の初めから御国を用意されておられたのです。そして今、あなたがたをその御国に招き入れてくださいました。あなたがたの頭に冠をかぶせ、王として迎え入れてくださるのです。そして私イエスが王であるあなたがたの王となるのです。」このように、天の御国は王様だらけの場所です。テモテへの手紙第二4章8節で使徒パウロはこのように教えています。「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主がそれを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には誰にでも授けてくださるのです。」わたしたちも天の御国に行ったら、王冠をかぶせていただき、同じく王冠をかぶった使徒パウロにも会えることは間違いありません。
王なる審判者イエス様はまたその判決理由を宣べられました。「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」この判決理由を見ると、「あなたがたは悔い改めた信仰を持っているからです。」とは書いてありません。そうではなく、行いだけです。「食べさせた。飲ませた。泊まらせた。着させた。見舞った。尋ねた。」天の法廷もこの世の法廷と同じく、行為が判決理由になるのが分かります。人間には信仰が見えません。見えるのは行いだけです。
しかし大きく異なるところは、「わたしに食べさせた。わたしに飲ませた。・・・」という王イエス様に対する行為であることです。イエス様を信じる信仰から生じる「キリストを告白する行い」がその判決理由なのです。しかし何というつつましい行為でしょうか。人間の目にはとても判決理由とは思えない行為が判決理由として挙げられているのです。なぜでしょうか。それは空腹や渇きや旅人や裸や病気や牢は、キリスト教を信じるがゆえに迫害に遭っている信仰者の姿であるからです。キリストのゆえに家を追われ、故郷を追われるとき、この様な苦しみに陥るのです。迫害が起こると、まず飲食に困り、次に長く続く迫害に住むところと着る物に困ります。そしてついには流浪の疲れからある者は病気になり、ある者は牢獄にぶち込まれるのです。ですから、このキリストの故に迫害に遭っている人に手を差し伸べることは、自分にも迫害が及ぶ覚悟をしなければなりません。そしてこの時行えるのは、誰が見ても人道的と思われることしかできません。そうであっても、それは「キリストを告白する行い」であって、本当の意味での信仰の働きとみなされるのです。イエス様がこの様に明言されるからです。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」
このキリストを告白する行ないはどんなにつつましくても、どんなに小さいイエス様の弟子であっても、必ずイエス様に覚えられているのです。行った当の本人が覚えていなくともイエス様は覚えていてくださるのです。何とありがたいことではないでしょうか。人間の裁判官は忘れることはあっても、神なる審判者は決して忘れないのです。ですからイエス様はマタイの福音書10章42節でこのように言われました。「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
この一杯の水で思い出されるのは、「ベン・ハー」とういう映画の中で、囚人として鎖につながれてゆく主人公のベン・ハーにある人が現れ、看守をたじろがせ、ベン・ハーに一杯の水を飲ませてあげる場面です。戦車競走が圧巻のこの映画の中にあって、この小さなシーンはとても印象的でした。そして最後にベン・ハーは十字架を負ってゴルゴダの丘に引いて行かれるイエス・キリストに出会い、あの時水を飲ませてくれたのはこの方であることを知り、キリストが倒れた時、今度はキリストに水を飲ませて差しあげたのです。ベン・ハーはキリストを信じ、その時、彼のお母さんと姉妹のハンセン氏病は瞬時に癒されました。
一方、イエス様の左に分けられた山羊なる人々に対する王なる審判者イエス様の裁きは過酷でした。まず判決は「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。」です。この山羊の人たちへの判決は、羊の人達への判決と大違いです。羊の人達が父なる神様に祝福されているのに対して、この山羊なる人たちは父なる神様に呪われている人たちです。この世に生きていた時は経済的に恵まれ、社会的地位もあり、権力もあったことでしょう。しかし、裁きは悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火の中に投げ込まれてしまうことでした。なぜでしょうか。
イエス様はその判決理由を宣べられます。「おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。」これは祝福された人々に述べられた判決理由の項目は同じですが、全て行わなかったと否定されています。しかし被告たちは不服ですね。「いつお世話しなかったのか。」と問い返しています。王なる審判者は答えます。「まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。」つまりこのように言われたのです。「お前たちは、私の弟子たちの最も小さい者たちの一人が迫害にあっているのを見ながら、手を差し伸べようとしなかった。そのことによってお前たちは自分たちを、キリストを迫害する者の側の人間にしてしまい、わたしを拒絶する者となってしまったのだ。そのお前たちが示した「キリストを告白しない行い」によって、お前たちは自分たちに悔い改めた信仰が無く、わたしを拒絶していることを証ししている。」
「こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」この永遠の刑罰に落ちた金持ちの話が、ルカの福音書16章24節に載っています。「彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』」ハデスと呼ばれる地獄はかなり住みにくいようです。永遠の刑罰を受ける場所ですから、恐ろしい所であることは確かです。
それに反して「永遠の命」は素晴らしい響きです。この世の命は限りがあり、長くて120年ですが、天の御国に行くことができれば父なる神様に祝福された王としての生活が永遠に楽しめることは確かです。
このように、わたしたちが死後永遠の刑罰に入るかそれとも永遠の命に入るかは、この世で悔い改めた信仰を持つことができるかできないかにかかっています。悔い改めた信仰を持つ人だけが、迫害に苦しんでいる人に手を差し伸べるという、キリストを告白する行ないをすることができるのです。悔い改めた信仰のみがわたしたちをどんな時であってもキリストから離さないからです。ですからわたしたちは誰でも悔い改め、キリストを告白する行ないをするものとならせていただきましょう。そして共に永遠の命に入らせていただきましょう。
人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。
©2017 Rev. Manabu Wakabayashi
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