バーナー 本文へジャンプ
 

 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

過去の説教 聖書箇所
2017年12月10日(日) マルコの福音書 1章1-8節

1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前
 に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐ
 にせよ。』」そのとおりに、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪の赦しのための悔い改めのバプ
 テスマを宣べ伝えた。
5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分
 の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
6 ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野
 蜜を食べていた。
7 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいで
 になります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありま
 せん。
8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがた
 に聖霊のバプテスマをお授けになります。」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2017年12月10日  待降節第二主日


悔い改めの洗礼」        マルコの福音書1章1-8節

牧師 若林學      


 
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

もう14年前の話になりますが、アメリカから日本へ引き上げる間際に日本の母から連絡があり、「『東京に転勤になるので車が要らなくなる。兄貴はいるかな?』と登が言っている。お前たちには車が無いようだが、欲しいなら登に言っておくが。」と言うのです。登というのは私の弟です。弟は宮城県に住んでおり、車で福島県にある工場に通っていました。それで私は帰国すると高速バスに乗ってすぐに弟の家を訪れ、車を頂いて来ました。「ガソリンを食う大きい車なんだけれど。」とだけ聞いていたその車は、6年落ちでしたが思いがけなくも高級車の部類の日産・セフィーロでした。帰り道はその車で東北道を通り、郡山ジャンクションで磐越道に入り新潟まで帰って来ました。アメリカで真っすぐな道に慣れていた私にとって、カーブの多い東北道を運転することはとても疲れました。そして思ったのです。「これではスピードが出せないし、事故の起こる確率も高くなる。」アメリカの高速道路では制限速度の時速70マイル、約110㎞で飛ばしていたのですが、東北道では時速80㎞がせいぜいでした。何しろカーブの連続で、必死になってハンドルを握り、アクセルを踏み続けるという、とても疲れる運転が求められました。ところが磐越道に入ると、途端に運転が楽になるのです。気が付くと道が比較的真っすぐなのです。その代わりトンネルの連続です。よくもまあこんなに長いトンネルをつくったものだと感心していました。それも緩やかにカーブしていたり、中で上り下りがあったりと、トンネルに対するわたしの常識を覆すものばかりでした。東北道建設の頃よりトンネルの切削技術が飛躍的に進んだことを感じました。東北道のように山を避けたりせず、また山を削って平らにするのでもなく、トンネルを掘って真っすぐな道を造るのです。本日の聖書箇所の「主の道を用意し、主の通られる道を真っすぐにせよ。」という預言者イザヤの言葉が実現している思いがいたしました。

さて、本日の聖書箇所のマルコの福音書第一章第一節を読む時、違和感を覚える方がおられるのではないでしょうか。少なくとも私は、「『神の子イエス・キリストの福音のはじめ』とは一体何のことだ?」といつも思ってしまいます。この「はじめ」という言葉に引っかかってしまうのです。この「はじめ」と翻訳されているギリシャ語を辞書で調べると、日本語のギリシャ語辞書には「初め、発端、最初、原始」とにあり、英語のギリシャ語辞書には、「beginning, first; origin, first cause」と書いてあります。日本語の「発端」は物事の始まりを示し、英語の「Beginning」も「始まり」という意味なので一致します。ですから福音記者マルコはこのように言っているのではないでしょうか。「神の子イエス・キリストの福音はここから始まる。」

「ここ」とはどこかというと、それは4節の、「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」時点だというのです。その理由が2節と3節に書いてあります。福音記者マルコはこう言っているのです。長くなりますが聞いてください。

「わたしが、神の子イエス・キリストの福音の始まりを、その誕生からではなく、洗礼者ヨハネの出現からである、と結論付けたのは、預言者イザヤの書にこう書いてあるからだ。『見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。』『荒野で叫ぶ者の声がする。「主の道を用意し、主の通られる道を真っすぐにせよ。」』

だから私はイエス・キリストの福音の始まりを、他の福音記者のようにその誕生から記すことはしない。救い主イエス・キリストの誕生は喜ばしいことではあるが、まだ私たちを霊的に救う話とはなっていない。救い主がこの世に公に現れるには、預言者イザヤが預言しているようにその「先駆け」がまず現れ、主の通られる道を用意することが起こらなければならないからだ。その先駆けである洗礼者ヨハネが現れたから、わたしは「神の子イエス・キリストの福音が始まった」、と言ったのだ。

ちなみに、『神の子』と私が言ったのは、救い主キリストはただの人間ではなく、聖霊によって乙女から生まれた神である、という意味である。イエス・キリストは唯一人、罪のない人間であり、かつ神様であるから、全人類の罪の身代わりとなることができるのである。キリストは全人類の罪の身代わりとなるためにお生まれになった。だから悔い改めてこのお方を信じ、このお方に自分の罪を告白して自分の罪を担ってくださるように願うなら、その人の罪は全て赦(ゆる)される。そしてその人は天の御国に入れていただける。これが神の子イエス・キリストの福音である。これほど喜ばしい知らせが他にあるだろうか。

しかし、人間にとって悔い改めることは非常に難しい。自分の心の奥底に潜む悪い思いを認めることは、自分がダメ人間であることを認めることになり、誇りもメンツも体裁もかなぐり捨てることになるのだから。そんなことは人間には簡単にできることではない。だから洗礼者ヨハネが遣わされたのだ。優柔不断なあなたがた火のような説教で恐怖を覚えさせ、救い主イエス・キリストに助けを求めさせるためである。」この様に福音記者マルコは言っているのです。

救い主イエス・キリストが来られることは天地創造の初めから預言されていたことでした。アダムとエバが蛇に騙されて食べてはならないと禁じられていた善悪の知識の木の実を食べた時点で、神様から直接に告げられたのです。創世記3章15節です。神様は人類の祖先アダムとエバにこのように預言されました。これは初期段階の福音という意味で「原始福音」と呼ばれています。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

神様がお前と呼んでいるのは蛇のことで、この蛇は悪魔の化身です。そして女の子孫とは救い主イエス・キリストです。蛇がアダムとエバに食べさせた善悪を知る知識の木の実は、純真無垢なアダムとエバの目を開かせて善悪を知る者とさせ、人間を神様と同列に置かせることによって人間を神様に背かせ、神様から切り離したのです。命の源である神様から切り離された人間の行く末はどこでしょうか。それは死であり、滅びです。だから神様は、「善悪の知識の木から取って食べるとき、あなた方は必ず死ぬ」(創世記2:17)と言われたのです。エバはいつ死んだのかは分かりませんが、アダムは930歳で死んでいます。このアダムの長寿年齢から推測するに、人間は永遠に生きる者として神様によって創造されたことが分かります。しかし神様から霊的に切り離された人間の人生は、欲望と争いの渦に飲み込まれているものであって、決して平安なものではありませんでした。それで神様は地獄のような生活を送らなければならない人間をあわれみ、その寿命を120年と縮めてくださいました。そして天地創造から三千年経った紀元前約800年頃、預言者イザヤが遣わされ、その預言者イザヤの口を通して先ほど述べた3節の言葉、救い主の「先駆け」が遣わされるということが人間に知らされたのです。しかしそれが何時なのか明確な年数は知らされませんでした。そして紀元前430年ごろ旧約最後の預言者マラキが遣わされ、そのマラキ書3章1節でこのように預言がなされました。「『見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている』と万軍の主は仰せられる。」そしてこの預言者マラキの後、ユダヤの国には預言が途絶えるのです。何時その契約の使者が来るのか、誰もわかりませんでした。この世の人々はもちろんのこと、神の民であったユダヤ人でさえも暗闇の中に据え置かれてしまいました。全ての人が暗闇の地に住む民となったのです。太陽の光は射すけれど、神様の光、御言葉の光、霊的な光が無い年月が長く続きました。人々は霊的な暗闇の中で過ごし続けたのです。

その預言者マラキから約460年後、即ち西暦30年頃、ユダヤの人々が待ち望んでいた契約の使者が「荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」のです。この人が洗礼者ヨハネでした。このヨハネの「罪の赦しのための悔い改めの洗礼」は、神様の霊的な光を待ちわびていたユダヤの人々の心に深く響き、終に「契約の使者が来た」という思いを人々に抱かせ、ユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民とが、誰もかれもがまるで鉄が磁石に吸い付けられるように、ヨハネがいる荒野に出て行き、ヨハネの厳しい説教を喜んで受け入れ、心から自分の罪を告白してヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのです。皆、神様の罪の赦しの恵みに、与りたかったのです。

神様から遣わされた洗礼者ヨハネに自分の罪を告白し、洗礼を授けていただき、罪の赦しを宣言された時、誰もかれもが大いなる喜びで満たされ、目は涙で溢れ、口は感謝と感激で言葉にならなかったことでしょう。それ程、心に巣くっていた罪からの解放は人々を喜びで満たしたのです。なぜなら、人々は洗礼者ヨハネの中にまだ来られていない救い主イエス・キリストを見たからだと言えるからです。自分の罪を赦してくださったのは神様だと感じたのです。なぜなら罪の赦しは神様しかできないからです。

自分が一番心に隠しておきたい罪を告白することを悔い改めと言います。自分が一番心に隠しておきたい罪を告白することは、神様に対して全面降伏することであるからです。神様に全面降伏して、自分の過去も現在も未来も、すなわち自分の全てを神様に委ねる時、私たちは神様とつながります。神様に接ぎ木されるのです。すると直ちに神様から豊かな樹液が自分の中に流れてきて、私たちは神様の恵みで満たされます。私たちの心は神様の平安で満たされ、神様の民の一員として受け入れていただいた、という確信に満たされるのです。これが霊的な意味での「主の道を用意し、主の通られる道を真っすぐにする。」ということです。

さて、ヨハネはラクダの毛で織った裾の長い上着を着て、その上着がはだけないように腰に革の帯を締めていました。それは預言者イザヤの姿に似ていました。それで人々は洗礼者ヨハネを神様から遣わされた偉大な預言者と見たのです。

しかしヨハネは人々からそのように見られ、そのように言われても決して高ぶらず、自分の後からくるお方、神の御子イエス・キリストを人々に紹介しました。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」なんと謙遜な受け答えではないでしょうか。ヨハネは自分が、「かがんでその方のくつのひもを解く値うちもない」ほどだと、イエス様のことを、自分とはまるで次元の異なるお方、聖霊の洗礼を授けてくださる神様です、と紹介したのです。

というのは、ヨハネは御使いガブリエルの御告げにより年老いた祭司ザカリヤと不妊の女性エリサベツの間に生まれた子供で、お母さんの体内にいる時から聖霊様に満たされていた人であったからです。神の御子イエス・キリストをお腹に宿したマリヤが親類のエリサベツを訪問した時、そのマリヤの挨拶の声にヨハネはエリサベツの胎内で喜んで踊った、と福音記者ルカは告げています。(ルカの福音書1章44節)ですから洗礼者ヨハネは生まれる前から聖霊様に満たされ、生まれてからも聖霊様に導かれて成長しました。それでイエス様が洗礼を受けようとヨハネのところに来た時、イエス様が神様でありながら、十字架の上で全人類の罪の身代わりとなる「神の小羊」であることを、自分の二人の弟子たちに教えたのです。その二人の弟子ヨハネとアンデレは、洗礼者ヨハネの言葉「見よ、神の小羊」を聞いてイエス様についていきました。(ヨハネの福音書1章35~40節)

神の御子イエス様はこの洗礼者ヨハネをこのように評しています。マタイの福音書11章11節です。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」そしてさらに同じく11章14節では「実はこの人こそ、来るべきエリヤなのです。」と評しています。この来るべきエリヤである洗礼者ヨハネを御使いガブリエルは、ルカの福音書1章17節でこのように預言しています。「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」この様に、洗礼者ヨハネはユダヤ人の父アブラハムよりも、大預言者モーセよりも、また竜巻に乗って天へ上って行った預言者エリヤよりも優れた人で、そのエリヤの霊と力で主の前ぶれをし、人々に悔い改めの洗礼を授けて、整えられた民を主のために用意する人であって、女から生まれた者の中で最も優れた人であるとイエス様は評価しておられるのです。

この様にキリスト教は、悔い改めの洗礼を基本とする宗教であることが分かります。それは神様が天地創造の初めから、人間を神様に逆らうという、原罪を持って生まれてくる存在にされ、女の子孫である救い主イエス・キリストを悔い改めて信じることによって罪赦され、神の子供とされる道を備えられたからです。この救い主イエス・キリストの到来を準備するために、洗礼者ヨハネが先駆けとして備えられ、大勢の人々を悔い改めの洗礼に導いて、真っすぐな主の道を人々の心の中に用意しました。ですから、誰でも悔い改めて洗礼を受ければ、必ず救われるのです。ですから悔い改めて洗礼を受け、罪赦され、喜びに満たされ、天の御国に入れられ、神様の祝福と守りの内に幸せな人生を送る人とならせていただきましょう。

またこのクリスマスの期間を通し、まだイエス・キリストを知らない方々に、救い主イエス・キリストは、全ての人間が幸せな人生を送ることができるようになるためにおいで下さった、ということをお伝えしましょう。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2017 Rev. Manabu Wakabayashi