2017年12月17日 待降節第三主日
「主の道を真っすぐにせよ」 ヨハネの福音書 1章6-8、19-28節
牧師 若林學
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
本日の主人公である洗礼者ヨハネは、わたしたちを悔い改めに導いて、キリストの花嫁としてわたしたちを整えるために、神様から遣わされた心優しい人です。けれども悔い改めようとしない人にとってはおっかない人です。洗礼(バプテスマとも言う。)を受けようとして出てきたパリサイ人やサドカイ人たちに対して、ヨハネはこう言いました。マタイの福音書3章7節から10節の御言葉です。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」
パリサイ人やサドカイ人はユダヤの国では指導者階級です。宗教だけでなく国民生活全般を厳しく取り締まっている官憲でした。サドカイ人たちは祭司階級に属し、ユダヤの国を宗教国家として導き、パリサイ人たちは国民に安息日を会堂で守るように指導し、日常生活を律法や古くからの言い伝えに従って守るように教えました。この様な指導者たちに対して、洗礼者ヨハネは「蝮の末たち」、即ち「悪魔の息子ども」と大声でしかりつけ、悔い改めにふさわしい実を結ぶように導いたのです。
そうかといってヨハネは誰に対してでも厳しく当たる怖い人ではありませんでした。本当に怖い人はまた本当に優しい人でもあります。パリサイ人やサドカイ人のように偽善の生活を送っている人々に対しては厳しく接し、素直に悔い改めの洗礼を受けに来る一般市民に対しては優しく接しました。ヨハネはお母さんのお腹にいた時から聖霊様に満たされた人でした。ですから神様に導かれていたので、国の指導者たちや官憲の人々など、人間を恐れることはなかったのです。
洗礼者ヨハネはイエス様より半年早く生まれました。洗礼者ヨハネがイエス様より半年早く生まれたのは、イエス様よりも半年早く世に現れて、イエス様の先駆けとして道備えをするためでした。ヨハネはイエス様の3年に渡る公生涯の間にヘロデ・アンティパスによって殺害されていますので、30歳代半ばで亡くなっています。ですから洗礼者ヨハネは、光について証しするためだけに生まれてきた神様の器と申せましょう。
光とはイエス・キリストです。神様です。「神にとって不可能なことは一つもありません。」とは、ルカの福音書1章37節で御使いガブリエルが乙女マリヤに告げた言葉です。神様にとって不可能なことが無いのなら、どうしてご自分の先駆けや証人が必要であったのでしょうか。先駆けや証人がいなくとも、自由に人の心を操作してご自分を信じるように導くこともできたはずです。それなのに、なぜ先駆けや証人が必要だったのでしょうか。それは7節に書いてあるように、「全ての人が洗礼者ヨハネによってイエス様を信じるようになるためでした。」神様は人間を創造された時に、ご自分が自由意志を持っているように人間にも自由意志を与えられました。それは人間が自由意志を用いて、自発的にご自分を信じるようになるためです。人間もそうですが、神様もそうなのです。誰も下心をもって自分にすり寄ってきて欲しくないのです。心から自分を信頼して近づいてきて欲しいのです。奴隷やロボットのように自分に仕えてもらっても、ちっとも楽しくありません。神様は人間と対等に交わりたいのです。大家族を構成したいのです。そしていつまでも仲良く暮らしたいのです。
この会堂の入り口に19世紀のベルギーの画家ルネ・マグリットが描いた「大家族」という名前の絵が掲げられています。天地創造直後、まだ陸地が無く地球が水で覆われていた時に、聖霊様が鳩の姿で水の上を飛んでいる絵です。この絵は私が新しい教会を造りたいと公表した時にクリスチャンの友人が送ってくれました。この絵をいただいた時、その友人にこのように言いました。「教会堂が完成したら、この絵をその入口に掲げます。この入り口を入ってくる人に、『貴方も神の大家族の一員ですよ』というメッセージを伝えたいのです。」
大家族というのは単なる人の寄せ集めではありません。一人の家長がいて、その下に大勢の兄弟姉妹がいる整然とした家族です。家長は父なる神様で、兄弟姉妹の長兄はイエス・キリストです。このことを使徒パウロはローマ人への手紙
8章29節でこのように表現しています。「なぜなら神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」
大家族の一員となるために最低必要なことは、悔い改めです。自分の今までの不信仰を悔い改め、神様の方に向き直り、犯してきた罪を神様に告白し、父なる神様に赦しを願うことです。具体的に言えば、「『神様。赦してください。』と心から言うこと」です。
しかし人に向かって「悔い改めなさい」と口で言うことは簡単ですが、自分のこととなると簡単ではありません。「イエス様は『だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。』(マタイの福音書5章28節)と言われるけれど、性欲を造られたのも神様だよな。」と言って、自分の罪と認めようとはしません。しかし私は主治医から「若林さん。心臓手術を受けない限り天寿を全うできません。」と告げられ、死刑を宣告された恐怖に襲われ、ガタガタと震えて悔い改めました。ことほど左様に、人間は恐怖を覚えない限り自分の罪を認めようとはしないのです。
ですから人に恐怖を覚えさせるために、聖霊様に満ちた洗礼者ヨハネが用意されました。洗礼者ヨハネは聖霊様に教えられて、自分の前に来た人がどのような罪を犯しているか、そしてそれを人に知られないようにひた隠しに隠しているかが分かったのです。それでヨハネはここぞとばかり、その人の罪を指摘し、恐怖を与えて罪を告白させ、悔い改めに導いたのです。そしてその人に後からくるイエス・キリストを信じるようにと、罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を授けました。
この洗礼者ヨハネの、厳しくも恵み溢れる洗礼を受けた人々は、自分がいかにしてもできなかった悔い改めが洗礼者ヨハネの導きで出来、罪の赦しに喜び溢れたのです。このことが評判となり、多くの人がまるで川の水の流れのように洗礼者ヨハネのもとにやって来ました。
余りにも多くの人が来る日も来る日も洗礼者ヨハネのもとに集まって来るので、ユダヤ人の指導者たちは宗教問題として黙って見ていることができなくなりました。そこで現状を把握すべく、権威ある調査隊として祭司たちとレビ人たちを洗礼者ヨハネのもとに遣わしたのです。彼らの問いに洗礼者ヨハネは、自分はキリストでも、エリヤでも、あの預言者でもない、と否定しました。実はマラキ書4章5節で預言されているエリヤであったことは確かです。イエス様もマタイの福音書17章12節この様に認めておられます。「しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。」しかしたとえ自分がエリヤであったとしても、謙遜なヨハネにとって、それを自分の口から言うことはできないことだったのです。ですからヨハネは、祭司たちが「あなたは自分を何と言われるのですか。」と問うた時、「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」と答えざるを得ませんでした。ヨハネは自分に重きを置くのではなく、自分に課せられた任務に重きを置いたのです。この答えを聞いた祭司たちやレビ人たちはどのように上司のユダヤ人に報告したでしょうか。ヨハネの言葉をそのまま報告したことでしょう。キリストとか、エリヤとか、あの預言者という答えなら、つかまえようがありますが、声ではつかまえようがありません。ユダヤ人たちはヨハネの謙遜にうまくかわされてしまったのです。
このヨハネの答えで大切なことは「主の道をまっすぐにせよ」いう言葉です。「主」とは天地を創造された父なる神様です。その神様がイエス・キリストという姿でやって来られるのです。そのやって来られる「主の道」とは、主イエス・キリストが通られる道です。その道はどこにあるのかというと、それは私たちの心の中にあります。ですから私たちの心の道を真っすぐにして、救い主イエス・キリストを心の中に迎え入れなさい、という意味です。もっと簡単に言うなら、悔い改めて救い主イエス・キリストを信じなさい、ということになります。
悔い改めるためには、心の底から罪を自覚し、その罪を告白しなければなりません。自分がいかにみじめな人間であり、いかにみすぼらしい人間であり、いかに罪深い人間であり、救われるには全くふさわしくない人間であり、全く呪われた人間であるということを自覚することです。そして自分の愚かさを認め、神様である主イエス・キリストに向き直って罪の赦しを求めるのです。主イエス・キリストに向き直ること、これが主の道を真っすぐにすることです。主イエス様に向き直るなら、イエス様が直ちにあなたの心に入ってくださり、あなたの罪を赦し、あなたを滅びから救って下さいます。
洗礼者ヨハネに質問したのは祭司たちやレビ人たちの他にパリサイ人たちもいました。彼らはヨハネにどのような権威で洗礼を授けているのか、問いただしました。ヨハネの洗礼は罪の赦しを与える悔い改めの洗礼であったからです。罪を赦す権威は人間には与えられていません。罪の赦しは神様にしかできないことです。
「キリストでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」ヨハネは答えました。「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私のあとから来られる方で、私はその方のくつのひもを解く値うちもありません。」ヨハネはこのように答えました。「わたしが水で罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を授けているのは、あなたがたの中に、あなた方の知らない方が立っておられますが、その方の権威によっているのです。その方はわたしの後から来られる方で、わたしはその方の靴の紐を解く値打ちもない、恐れ多いお方、神様です。その神様がわたしに命じて罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を授けさせておられるのです。」
洗礼者ヨハネは、自分の後から来られるイエス・キリストを信じるようにと告げて、人々に悔い改めの洗礼を授けました。現代の私たちは既に来られたイエス・キリストを信じるようにと告げられて洗礼を受けます。ですからヨハネの洗礼も、現代の私たちが受けるイエス・キリストの洗礼も、同じ罪の赦しを得させる「恵みの手段」なのです。
使徒の働き19章1節から5節には、使徒パウロがエペソの町で幾人かの弟子に出会い、「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。それでパウロは不安に思い、どのような洗礼を受けたのか聞く場面があります。それに対して弟子たちは「ヨハネの洗礼」ですと答えています。それでパウロは「ははん」と理解したのです。「この弟子たちはきちんと教えられていないな」と。ヨハネがヘロデ・アンティパスによって殺害された後、ヨハネの弟子たちはヨハネの後を継いで人々に洗礼を授けていました。でもこの弟子たちには聖霊様が与えられえていなかったので、彼らの洗礼は形だけの物でした。パウロが使徒の働き19章4節で言うように、「イエス・キリストを信じるように人々に告げて、悔い改めの洗礼を授けた」ものではなかったのです。つまりヨハネの弟子たちが授けた洗礼は、イエス様の御名前が無く、形だけのもので、罪の赦しを得させるものではありませんでした。ですからエペソの弟子たちは、パウロから主イエス様の御名によって洗礼を受ける必要がありました。
聖霊に満たされた洗礼者ヨハネの洗礼は、罪の赦しを与える悔い改めのまことの洗礼でした。その洗礼は、「主の道を真っすぐにせよ」と、悔い改めをわたしたちに求める厳しいものでした。悔い改めて自分の罪を告白し、洗礼者ヨハネの後から来られるイエス・キリストを、自分の救い主として信じて受け入れることを求めていました。しかし、わたしたちには自分の力で悔い改めることはできません。悔い改めるには、いかに自分が罪深い者であって、そのままでは滅ぶほかはないと、御言葉によって教えられなければならないのです。御言葉、すなわち聖書の言葉のみが、わたしたちに罪を示し、悔い改めに導くことができるのです。ヨハネは若くして殺されましたが、今でもその言葉によって多くの人々を悔い改め見導いています。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。」私たちはマムシ、即ち悪魔の子孫です。必ず来る御怒りの対象です。それを逃れて天の御国に入るには、悔い改めしかありません。悔い改めて救い主イエス・キリストを信じ、私たちの心の中にある主の道を真っすぐにさせていただきましょう。そして救いの喜びで満たしていただきましょう。
人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。
©2017 Rev. Manabu Wakabayashi
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