バーナー 本文へジャンプ
 

 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

過去の説教 聖書箇所
2018年1月21日(日) ヨハネの福音書1章43~51節

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。


44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。


45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」


46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」


47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」


48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」


49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」


50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年1月21日(日)  顕現後第二主日


神の御使いたちが人の子の上を上り下りする     
                    ヨハネの福音書1章43~51節


牧師 若林學      


 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

先日ある方から聞いたことですが、その方のお母様が実家で一人暮らしていましたけれど、年齢が進み、一人暮らしがもう無理であることが家族全員の目に明らかになり、現在、今後どのようにしたらよいかが話し合われているとのことです。この様に私たちは、核家族時代における親の世話をどうするのか、現実的な計画を持つことが求められています。高齢の親だけでなく、その子供たちである私たち自身にとっても、近い将来必ず来る問題と受け取るべきと思わされました。

この世での老後の生活は介護保険や老人ホームが整いつつあり、行政も対策を取りつつありますので、大変ながらも何とかなるでしょう。しかし何とかならないのが、目に見えないあの世での生活です。死んでしまえば全て無に帰するという唯物論的な考え方の人であっても、何か釈然としない、漠然とした恐ろしさを感じるのが人間の死です。死んだらどうなるのだろうかというこの不安は、一体どこから湧いてくるのでしょうか。この不安は私たちが生きているという現実から生じてきます。私たちの体はこの大地から生じてくる農作物や海産物や家畜によって養われています。しかしこの大地は土や石でできており、生きてはいません。しかしその生きていない土が私たちの体を養っています。命の無い土で生きている私たちの体が保たれているというこのコントラストが私たち人間を特別な存在とし、死んだらどうなるのだろうかという目に見えない不安を産んでいるのです。当然、死んだら私たちの体は元の土に返るだけです。しかし私たちを生かしていた命はどこへ行くのでしょうか。それが分からないから不安なのです。しかしそのことを聖書は明確に答えています。伝道者の書12章7節です。「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」私たちの体は元あった地に帰り、命はこれを下さった神様に帰るのです。聖書によると、人間の命の本体は霊魂ということになります。この神様の許に帰った霊魂の状態をイエス様は「眠り」と呼びます。(ヨハネ11:11)人間の霊魂は神様のところで眠っているのです。そして「終わりのラッパと共に、たちまち、一瞬の内に、死者は朽ちないものによみがえり」(1コリント15:49-50)そして人の子である審判者イエス・キリストの御前に立たされ、生前の行いに応じて最後の裁きを受け、永遠の命(天の御国)に入る者と、永遠の火(地獄)の中に入る者とに分けられます。(マタイ25:31~46)

「死後、永遠の火の中に入る様な裁きがあるのなら、どうして生きている間にそれを知らせてくれなかったのか。」と文句を言う輩が必ずいます。しかしこのことは私たちの心に既に書き記されていることなのです。「嘘をついてはならない。盗んではならない。殺してはならない。姦淫してはならない。」と私たちの心は私たちに告げています。そしてその心に記されている戒めに逆らって罪を犯せば、それがどんな小さな罪であっても、永遠の刑罰を免れることはできないのです。


「それじゃ、罪を犯さない人は一人もいないのだから、総ての人が滅んでしまうじゃないか。」と言われるかもしれませんが、確かにそうなのです。そこで父なる神様は恵みの道を設けてくださったのです。その恵みの道とは、悔い改めて、神の御子イエス・キリストを信じれば罪が赦(ゆる)される道です。「わたしは罪を犯しました。神の御子イエス様を信じますから、どうか罪を赦してください。」と願うことです。この恵みの道が整ったことを全世界に知らせるために、救い主イエス様は弟子たちを集め始めました。


本日の聖書箇所の前、35節から42節を見ますと、既に4人のガリラヤ人たちがイエス様のもとに集まっています。まずイエス様のところに来たのはヨハネとアンデレです。この二人は、洗礼者ヨハネからイエス様が「神の小羊」、即ち全世界の人々のための身代金として、十字架に掛かられるお方であることを教えられたからでした。イエス様に弟子入りしたアンデレは自分の兄弟ペテロをイエス様のところに連れてきました。(ヨハネの福音書1章42節)福音書には書いてはありませんが、同じように、ヨハネも自分の兄弟であるヤコブをイエス様のところに連れて来たと思われます。使徒ヨハネは非常に奥ゆかしい人なので、自分のことは極力控えめにしている人です。ですから、ヨハネも当然自分の兄弟を連れて来たとみるべきではないでしょうか。したがって合計4人のガリラヤ人がイエス様のもとに引き寄せられていました。


そしてこの4人のガリラヤ人を連れて、イエス様は翌日ガリラヤに行こうとされました。多分出発して間もなくでしょう。イエス様はピリポを見つけて、「わたしに従ってきなさい。」と、弟子として召されました。イエス様はピリポを「見つけた」と書いてあります。「見つける」と言うのは行きあたりばったりと無差別に選ぶのではなく、いろいろな人の中からこの人というふうに選ぶ動作を表します。例えば、砂金を探す人が川の砂をザルに入れて選別し、砂の中から金を見つけるような動作です。ですから詩編14篇2節に書いてある通りです。「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。」この様に、イエス様や神の人々である福音伝道者たちはいつも神様を尋ね求める人を捜し続けていると言えます。ピリポも霊的なものに敏感な人、目に見えないものにあこがれる人、外面よりも内面的なものを大事にする人、即ち神様を尋ね求める悟りのある者であったということができます。ピリポはベツサイダの人ですから、ガリラヤ地方の出身です。宗教的中心地エルサレムよりも、かえって地方のガリラヤの方が霊的に純粋な人が育っていたのかもしれません。ピリポはイエス様に見つけられて、同じ町の出身であるペテロやアンデレと再会し、ヤコブやヨハネと知り合うことが出来ました。そして彼らからイエス様が「神の小羊」であり、「モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方」、すなわちメサイヤ(救い主)であることを教えてもらったのです。この出会いを通して、ピリポは素直に「イエス様が救い主である」と分かったのです。


ピリポは、イエス様を救い主であると確信した時、心が喜びで震えたことでしょう。というのは、このお方を信仰の友ナタナエルに紹介せずにはいられなかったからです。この方こそ、ナタナエルの捜し求めている人であるという確信があったからです。それでピリポはイエス様に待って頂き、その抑えきれない気持ちでナタナエルを捜しに行きました。ピリポは「ナタナエルを見つけて」、この様に話しました。45節です。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」です。


しかしナタナエルの反応はすげなかったですね。46節です。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」しかし、ナタナエルのそのすげない反応にめげなかったピリポはすごいです。それ程ピリポはイエス様の素晴らしさを感じていたということです。きっとピリポはイエス様の栄光を見ていたのでしょう。それでナタナエルにこう言いました。「来て、そして、見なさい。」この言葉を何度ピリポは繰り返したことでしょうか。「是非来て、自分の目で確認してよ。その価値は十二分にあるよ。」とナタナエルに勧めたのです。


わたしもこのピリポのように本気になって人に勧めるようにならなければならないと反省しております。キリスト教を人に勧めても、「ああ、うちは仏教だから。」と言われると、「そうですか。」と、すんなり引き下がってしまいます。1回位でめげてはだめなのですね。ピリポのように「ぜひ来て、見てください。」と食い下がらなければならないということです。人はこちらの本気度を見ていることは確かです。心を入れ替えてやりたいと思います。


このピリポのあまりにも熱心な勧めにナタナエルは圧倒されて、ピリポに付いて行くことにしました。イエス様はご自分の方に来るナタナエルを見て、4人の弟子たちに言われました。もちろんピリポやナタナエルにも聞こえるように言われたのです。47節です。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」本当のイスラエル人とはどのような人を言うのでしょうか。使徒パウロはローマ人への手紙9章6節でこのように言っています。「イスラエルから出る者がみな、イスラエルなのではなく、アブラハムから出たからといって、すべてが子どもなのではなく、『イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる』のだからです。」つまり、アブラハムの子孫だからと言う血族関係で生まれたイスラエル人ではなく、イサクの子孫という約束のイスラエル人、信仰のイスラエル人が本当のイスラエル人であると言っているのです。ということは、血族関係で生まれたと誇るイスラエル人には「偽りがある」ということですね。しかし、ナタナエルには偽りがありませんでした。この「偽り」と翻訳されているギリシャ語は、その他に「欺瞞、ごまかし、策略、悪だくみ、嘘」という意味があります。そういうものがナタナエルの中にはなかったということです。ナタナエルはそれらを徹底的に嫌っていたのでしょう。ですからナタナエルは日々悔い改め、犯した罪をその日の内に解決していた人、と言えるでしょう。そのことをイエス様が知っておられたことに、ナタナエルは驚いたのです。それで聞きました。「どうして私をご存じなのですか。」この問いにイエス様は答えられました。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」ナタナエルはこのイエス様の言葉にびっくりしてしまいました。特に「見た」という言葉に、背筋が凍るような恐ろしさを感じました。自分の全てが見られているという畏怖の念を抱いたのです。本日の週報で交読しました詩篇139篇に書いてある通りのことがナタナエルに起こったのです。詩編139編2節です。「あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」もうナタナエルはイエス様から離れられなくなりました。イエス様が人となられた神様であることを悟ったからです。そしてこの方こそ「イスラエルの王様」だと確信したのです。そしてイエス様の前にひれ伏しました。


ご自分の前にひれ伏すナタナエルにイエス様は言われました。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。」この翻訳はどこか非難めいた響きがします。確かにギリシャ語聖書の翻訳としては正しいのですが、文脈から言ってイエス様はナタナエルの心変わりを攻めているのではありません。そうではなく、ご自分が誰なのかを、ナタナエルが直感的に見抜いたので褒めているのです。ですからイエス様はナタナエルに「あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」と御褒美を約束されました。ナタナエルの信仰が本物であったからです。ちなみにこのナタナエルは、12弟子の一人バルトロマイと呼ばれていた人と同一人物とみなされています。


イエス様を信じたのはナタナエルだけではありません。この時点でペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、合計6人全部がイエス様を聖書で預言されていた救い主と信じました。その信じた弟子たちにイエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」この言葉は一体何を意味するのでしょう。この御言葉と似た御言葉があります。創世記28章12節に記されているヤコブが見た夢の中に出てくる光景です。「そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。」天と地をつないでいるはしごは、もはやそこには天と地を遮る物が何もないことを表しており、天におられる神様と地上の人間がまことの交わりをしていることを示しています。そしてそのはしごを上り下りしている天使は、人間の願いを神様のところに運び上り、神様の助けと守りを人間のところに運び降ることを表しています。この夢を与えられたヤコブは、自分が神様とまことの交わりをする者であって、自分の願いを神様が聞いてくださり、神様が助けと守りを直ちに下さることを確信したのです。


イエス様の場合は、もっとすごいことが起こるのです。まず「天が開けて」とありますが、この言葉のギリシャ語原文は完了形ですから、このイエス様の言葉以来、今に至るまで、天は開かれているのです。そしてヤコブのはしごの代わりに今度はイエス様がおられます。イエス様は誰の名前で祈れと私たちクリスチャンに命じられたでしょうか。そうです。イエス様のお名前です。イエス様はヨハネの福音書16章24節でこのように言われました。「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」私たちがイエス様のお名前によって祈るのは、このイエス様の御命令に従っていることです。私たちがイエス様のお名前によって祈ると、その祈りを天使たちが父なる神様のところに運び上げ、父なる神様の助けと守りをわたしたちのもとに運び降るのです。


それだけではありません。イエス様を信じる者は、この世にあって既に天の御国に入っている存在なのです。天が開けているというのはこのことを表しています。クリスチャンはこの世にあって、イエス様を介して神様と交わる者なのです。イエス様がヨハネの福音書14章6節で言われる通りです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」私たちクリスチャンはイエス様を通って父なる神様のみもとに行くことができるのです。ですから私たちクリスチャンが何事でも御心にかなう願いをするなら、神様はその願いを聞いてくださることは確かです。(ヨハネの手紙第一5章14節)そして助けと守りと導きが常に与えられます。即ち奇跡がイエス・キリストを信じる者の上に起こり、喜びが満ち満ちたものとなると約束されているのです。なんと素晴らしいことではないでしょうか。

このように、救い主の任務に就かれたイエス様は、ご自分が救い主キリストであることを信じる人々をご自分のところに引き寄せ、弟子とされました。その弟子たちに「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」と約束されました。この約束はクリスチャンに奇跡が起こることを預言しています。まずクリスチャンはこの世にあって既に天の御国に入っており、イエス様を介して神様と交わることができ、イエス様のお名前を通して願う御心にかなう祈りは必ず聞いていただけ、助けと守りと導きを常に与えて頂ける、と約束されています。すなわち奇跡がクリスチャンの上に起こるのです。それはイエス様を信じる者の喜びが満ち満ちたものとなるためです。この素晴らしいイエス様をまず信じましょう。そして多くの人にお知らせしましょう。多くの奇跡を経験し、喜びに溢れた人生とさせていただきましょう。

 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi