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 小針福音ルーテル教会へようこそ! 

 WELCOME to KOBARI EVANGELICAL LUTHERAN CHURCH !

過去の説教 聖書箇所
2018年1月28日(日) マルコの福音書 1章14-20節

14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。

15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

16 ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。

17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」

18 すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。

19 また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。

20 すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年1月28日(日)  顕現後第三主日


悔い改めて福音を信じなさい     マルコの福音書 1章14-20節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

昨年2017年はルターの宗教改革500周年でした。その記念する年に、この小針福音ルーテル教会が設立献堂されたということは神様の導きというほかございません。様々な方々からの献金や献品、特に2016年には祭壇や説教台、聖書台、それに聖餐式の用具まで捧げていただき、早く宣教活動を始めなさいと、せつかれているような思いでした。それでいつ始めたらいいのだろうかと妻と相談していた時、神様から「ペンテコステ(聖霊降臨祭)の日しかないのではないの」、と言われたような気がしまして、確かにそうだと思いました。そのようなわけで、この小針福音ルーテル教会の設立献堂式が、本教会でできた唯一の、ルターの宗教改革500周年の記念事業でした。

そのルターの宗教改革は、皆様ご存知のように、マルティン・ルター博士がドイツのヴィッテンブルグの城教会の入り口に張り付けた「九十五個条の提題」が引き金となって始まりました。その第一提題は、イエス様が福音宣教を開始された第一声を引用しております。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めよ・・・』(マタイの福音書4章17節)と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」

ルター博士はこの第一提題で「イエス・キリストは、信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうた。」と教えています。この教えから、クリスチャンとなる始まりは悔い改めて洗礼を受けることであり、クリスチャンは毎日悔い改める人である、ということになります。つまり、クリスチャンの生活は日々の悔い改めの上に築かれているということです。

宗教改革500周年記念として昨年発行された、マルティン・ルター著、ルター研究所訳の「エンキリディオン小教理問答」という題名の本は、最も新しい日本語訳小教理問答書です。この中に、夜寝る前の祈りが書いてあります。その祈りを紹介します。

「夜、寝に就くとき、十字を切って祈り、言うのだ。

『父と子と聖霊なる神の御心のままに、アーメン。』

次に膝まずくか立って、信仰告白と主の祈りを唱え、望むならば、加えて次の小さい祈りを言うことができる。

『天の、私の父よ、私はあなたの愛する御子イエス・キリストによってあなたに感謝します。あなたは私をこの日も守ってくださいました。また私はお願いします。私が不正をしておりましたら、どうかすべての私の罪をお赦(ゆる)しくださり、この夜も私を、恵みをもってお守りください。私は私を、私のからだと魂とすべてをあなたのみ手のうちにお委ねいたします。あなたの聖なる天使が私と共にいて、悪い敵が私に力を振るうことのないようにしてください、アーメン。』
 それからすぐに喜びをもって眠るのだ。」

この就寝前の祈りの中でルター博士は、「私が不正をしておりましたら、どうかすべての私の罪をお赦しください。」と祈るように勧めています。これが悔い改めです。毎晩、一日の終わりにこの様に罪の赦しを祈り願うなら、その人の生涯は確実に悔い改めた一生であることに間違いはありません。

またルター博士はその「九十五個条の提題」の第三提題で、この様に言っています。「しかし、それは単に内的な悔い改めだけを指してはいない。否むしろ、(その内的な悔い改めが)外側で働いて肉を種々に殺すことをしないものであるなら、(その)内的な悔い改めはおよそ無に等しい。」ルター博士はこの第三提題で、悔い改めとは、内的な悔い改めと、その結果としての罪を犯さない外的な生活があると言います。しかし私たち人間は生きている限り罪を犯す存在です。どうしたらよいでしょうか。その答えがマルコの福音書3章28~29節にあります。「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」このように、聖霊様をけがすこと以外は、どのような罪を犯しても赦していただけるのです。ですから、罪を自覚したら、恐れずに素直になって悔い改め、直ちに罪の赦しを求めましょう。相手が神様であっても人間であっても謝るのに、変わりはありません。意地を張ったりしても、何の得もないばかりか、関係を悪化させるだけです。例え、赦してくれそうもない相手であっても、謝らなければ始まらないことは誰の目にも明らかです。

遠藤周作が書いた「沈黙」と歴史小説を題材にした映画を見たことがあります。その映画の中で、キチジローという軟弱なキリシタン信者が出てきます。このキチジローが拷問に耐えかねて仲間の居場所を密告したり、ロドリゴというポルトガル人の司祭の居場所を奉行所に密告したりします。密告するたびに、司祭ロドリゴに罪の赦しを求めてくる、軟弱なキチジローの姿が印象的でした。人間と言うものは軟弱なのです。ですから誰も罪を犯す人を攻めることができません。

さて本日の聖書箇所は、イエス様が救い主として宣教の第一歩を踏み出された場面です。その14節を見ますとイエス様が宣教の第一歩を踏み出したのは、洗礼者ヨハネが、ガリラヤとペレヤの国主であるヘロデ・アンテパスに捕らえられてからでした。ヘロデ・アンテパスは異母兄弟であるヘロデ・ピリポの妻と通じ、結婚しました。そのことを洗礼者ヨハネに厳しく咎められたので、人をやって捕らえ、牢獄につないだのです。

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられてから、ヨハネが捕らえられるまで、すなわち宣教を開始するまでに、約1年以上のギャップがありますが、その間、何をなさっておられたかが、ヨハネの福音書2章と3章に書いてあります。イエス様はカナの婚礼に出られたり、過ぎ越しの祭りに参加するためにエルサレムに上られたり、パリサイ人ニコデモと会ったり、そして洗礼者ヨハネと共にヨルダン川で人々に洗礼を授けておられました。

そして洗礼者ヨハネが捕らえられると、そのヨハネの働きを引き継いで、ガリラヤ中に神の福音を宣べ伝え始めたのです。マタイの福音書4章23節には並行記事としてこのように書いてあります。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」

「神の福音」とは、神様が言われる良い知らせです。地獄に落ちるしかない罪深い人間にとって良い知らせとは、罪の赦しと、滅びからの救いです。具体的には、救主イエス・キリスト、そのお方御自身が来られたことを指します。ヨハネの福音書3章16節に書いてある通りです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス様は、人々が御自分を信じることによって、罪が赦され、滅びから救われることをガリラヤ全土に宣べ続けていたのです。

この神の福音の中身が、本日の聖書箇所の1章15節の御言葉です。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」「時が満ち」とは印象的な言葉です。旧約聖書に伝道者の書があります。ダビデの子であるソロモンが書いたと言われている書です。その3章1節にはこのように書いてあります。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」なぜ全ての営みには時が定まっているのかというと、その理由が同じく伝道者の書8章17節に書いてあります。「すべては神のみわざであることがわかった。」全ての事は、人間がやっていることも含め、神様が行っているからだというのです。人間は自分の意志でやっていると思っていますが、実は神様がその行動の陰にいらっしゃるというのです。そして元に戻り、伝道者の書3章8節の後半にはこのように書いてあります。「戦うのに時があり、和睦するのに時がある。」神様は今まで人間と争ってきたけれど、人間と和睦する時が来たと言われるのです。この和睦する時がマルコの福音書1章15節の御言葉です。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

「神の国」とはマタイの福音書で言う「天の御国」と同じものです。平たく言えば天国です。神様がご支配なさる国です。イエス様は神様ですからイエス様のおられるところが神の国となります。ですから神の国が近くなったとは、神様が受肉されてイエス様という姿を取り、私たちの間に住んでくださったので、その物理的な距離が近くなったと言うことができます。

その神の国に入る方法が簡単であることも、その距離が心理的に近くなった、と言うことができるでしょう。その神の国に入る方法とは、「悔い改めて福音を信じること」です。手続き的には、「悔い改める」ということと「福音を信じること」ですから、簡単明瞭です。複雑なことを求めているわけではないので、誰でもできることです。知恵のついた大人よりも、物心つかない幼子の方が素直なだけに、容易でしょう。ルカの福音書でイエス様は言われました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

しかし自尊心やメンツを大事にする大人の場合はとても難しくなります。自分の罪を認めることは、自分の敗北を意味するからです。ですからこの敗北を大人は受け入れられません。自我が許さないからです。しかし神様に追いつめられるとき、人間は降伏せざる得なくなり、自我が砕かれます。使徒の働き9章には使徒パウロの回心の記事が載っています。パリサイ人サウロは、クリスチャンを追ってダマスコへの途上、天から強い光に照らされて倒され、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」という声を聞き、自分の非を認め、自我が砕かれました。不肖私も40歳の時、医者から「若林さん。あなたの今の心臓のままでは、天寿を全うできません。」と言われ、死刑の宣告を受けた恐怖に襲われ、自我が砕かれました。

そして「福音を信じる」とは救い主イエス・キリストを信じることです。ですから悔い改めるならば、本当に素直に、イエス様が神様であることが分かり、イエス様を信じることができるようになります。使徒パウロはキリストを信じることをこの様に表現しました。ガラテヤ人への手紙2章20節です。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」悔い改めるとは、キリストと共に十字架に付けられることであり、キリストを信じるとは、キリストを自分の内に宿すことであるというのです。

宣教開始されたイエス様は、まず弟子たちを集められました。弟子たちを訓練し、使徒として全世界に遣わすためです。弟子として最初に呼ばれたのはシモンとアンデレ、そしてヤコブとヨハネの4人でした。この4人は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、イエス様と懇意になり、弟子としてイエス様の内定を受けました。特にシモンはイエス様からペテロという名前を戴きました。彼らの内、ヨハネとアンデレは洗礼者ヨハネから、イエス様が神の小羊、即ち全人類の罪の身代わりとして十字架にかけられる、神様の御子であるであることを知らされており、この二人からそれぞれの兄弟であるシモンとヤコブもイエス様がどなたなのか知ることが出来ました。彼らはガリラヤの自分たちの家に戻り、神の御子イエス・キリストのことを話し、このお方の弟子として従って行きたいと家族に話していたことと思われます。どの家族も皆信仰深い家族ですから、自分たちの息子が神の御子に仕えることを喜び、二つ返事で了承したと推測されます。ですから、その日が来た時、家族たちは彼らを快く送り出したのです。人を永遠の命に導くという素晴らしい仕事をするためには、家族の平和な送り出しがなければうまくゆくことはありません。そして、神様は送り出したそれらの家族を豊かに祝福されたことは想像に難くありません。

イエス様の宣教開始の第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」でした。ルターがこの言葉を用いた時、宗教改革が起きたように、イエス様のこの第一声がキリスト教の本質をよく表しています。すなわちキリスト教とは、悔い改めてイエス・キリストを自分の救い主として信じる宗教であるということです。人が悔い改めてイエス・キリストを信じる時、その人は永遠の滅びから救われ、神の国に入ります。しかし悔い改めることは簡単ではありません。キリスト共に十字架に付けられることですから。ですから、まず神様に悔い改めさせてくださいと祈りましょう。祈り求めるならば、丁度良い時に、神様が悔い改めに導いてくださいます。そしてあなたはイエス・キリストが神様であることが分かり、即信じることができます。そしてこのお方からもう離れることができなくなります。なぜなら神の国に入っていることがこんなにも安全で祝福に満ちたものであると知るからです。その人の一生が悔い改めであることは間違いありません。そして悔い改めてイエス・キリストを自分の救い主として信じ、神の国へ入っている人は、神様であるイエス・キリストが日々導いて下さる、この安全で祝福に満ちた人生が存在することを、まだイエス・キリストを知らないこの世の人々にお知らせしましょう。それは、神様が全ての人の救われることを心より願い、イエス・キリストを救い主としてこの世に送ってくださったからです。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi