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過去の説教 聖書箇所
2018年2月4日(日) マルコの福音書 1章21-28節

21 それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。


22 人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。


23 すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。


24 「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」


25 イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。


26 すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。


27 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」


28 こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。



(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年2月4日(日)  顕現後第四主日


権威のある新しい教え     マルコの福音書 1章21-28節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

本日の聖書箇所27節をご覧ください。カペナウムの人々は、イエス様の権威のある教えを「新しい教え」と言いました。汚れた霊をさえ戒めるイエス様の権威ある言葉。この権威ある言葉に神の国の到来、即ち新しい世の到来を見たからです。カペナウムの人々が「権威のある新しい教え」と感嘆するに至ったそのいきさつを見てみましょう。

イエス様はペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人を弟子として召されると、この弟子たちを連れてカペナウムの町に入りました。そしてすぐに会堂に入られています。その日は金曜日であったのでしょう。ユダヤ教では金曜日の日没から安息日が始まります。

ユダヤ教の会堂には会堂管理者がおりました。この会堂の維持管理や聖書の朗読箇所の選定、礼拝の司会、聖書朗読者や説教者の指名をしていました。ですから会堂管理者の許可や依頼無しに、勝手に説教や奨励をすることはできません。それでその会堂管理者がイエス様の所に来て、説教または奨励の言葉を依頼したと思われます。そもそも説教や奨励は律法学者のように宗教教育と訓練を受けた者が行うことになっています。そのような厳しい審査基準の中で、宗教教育も訓練も受けたことのない一介の大工でしかなかったイエス様に依頼があったのです。このことは、イエス様が説教者として、この時にはもう既にかなり有名になっていたことが考えられます。マルコの福音書1章14節にはこのように書いてあります。「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べておられた。」このようにイエス様はガリラヤ中を巡って福音宣教を行い、福音宣教者として有名になっておられました。それでそのイエス様が会堂に出席されたので、会堂管理者は待っていましたとばかり、説教を依頼したのだと思われます。ですからその説教の中身は当然「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」を基礎したものと見ることができます。

「皆さん。あなた方はアダムとエバが蛇にそそのかされて善悪を知る知識の木から取って食べた時、神様が約束してくださった御言葉をご存知です。『わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。』(創世記3章15節)この約束の時が満ちました。今、神様はこの女の子孫である救い主キリスト送られました。預言者モーセもこの救い主キリストについてこのように預言しています。『あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。』(申命記18章15節)ですから、悔い改めて、この救い主キリストを信じるのです。そうすれば神の国に入ることができます。」

この様な説教をイエス様がされたかどうかわかりませんが、少なくとも、律法学者たちのような説教でなかったことは確かです。イエス様の教えは22節に記されているように、権威ある者が語っているような教えであったのです。このイエス様の教えにまずカペナウムの人々は驚きました。

繰り返しになるかもしれませんが、私は妻と一緒に2013年にイスラエルのカペナウムを訪れました。イエス様が説教されたと言われている会堂はガリラヤ湖の岸辺近くあり、床の上に壁や柱が立っている遺跡でした。この会堂の遺跡とガリラヤ湖畔の間には、住居の土台とみられる遺跡が沢山あり、その中にペテロの家だったと思われる家の跡が発掘され、その上には八角形の新しい教会が建てられていました。カペナウムではこの二か所しか、見学しませんでした。わたしはこの遺跡を見た後、今人の住んでいるカペナウムに連れて行ってもらえることを期待していたのですが、ガイドさんからカペナウムは滅んでしまい、現在は遺跡しか残されていないと説明を受けました。私は、ガリラヤ地方の中心地として栄えていたカペナウムが廃墟だなんて信じられませんでした。マタイの福音書11章23節にイエス様がカペナウムについて裁きを預言しておられます。「カペナウム。どうしてお前が天にあげられることがあり得よう。ハデスに落とされるのだ。」ここカペナウムは、イエス様が宣教の本拠地とされていた地だったにも関わらず、悔い改めなかったために滅んでしまったのです。

イエス様の説教が終わるとすぐに、その会堂にいた汚れた霊に取りつかれた人が、叫び出しました。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」

現代社会において汚れた霊が存在するというのは、とても信じられません。汚れた霊が人に取りついてものを言ったり、人をひきつけさせたり、あたかもホラー映画を見ているようです。でもテモテへの手紙第二3章16節の御言葉で、聖書は神の霊感を受けた人々が書いたものであると保証されています。ですから聖書の記述はすべて真実で、偽りはないという事は確かです。人に取りつく汚れた霊が存在することは確かです。そしてその存在が確かであるのは、その汚れた霊の言葉からも分かります。第一に、この汚れた霊がイエス様は自分たちを滅ぼしに来た方であるとを知っていた事。そして第二に、この汚れた霊がイエス様を神の聖者であることを知っていた事ゆえです。この2点は人間には知り得ないことです。このことから、この人は単なる精神病患者ではなく、確実に汚れた霊に取り付かれている人であったことが分かります。

聖霊様がおられるわけですから、汚れた霊もいることは確かです。人間はこの汚れた霊になぜ取りつかれるのでしょうか。でもこの質問は、人間はなぜ病気になるのかという質問と同じあって、病気になる原因が分からないように、汚れた霊にとりつかれる原因も分かりません。イエス様が人間を造られたわけですから、イエス様に病気を治していただき、イエス様に汚れた霊を追い出していただくしか方法はありません。昨今の医学の進歩により、多くの病気が医者によって直すことができるようになってきました。しかしすべての病気が克服されたわけではありません。人間が誰しも直面しなければならない最大の病気は死です。医者は死を治すことはできません。同じように医者は汚れた霊を追い出すことはできません。汚れた霊を追い出せるお方はイエス様だけです。

イエス様はこの汚れた霊に向かって「黙れ。この人から出て行け。」と命じられました。イエス様としては、人々が汚れた霊に教えられて、ご自分が神の聖者であると信じるではなく、一人一人が、イエス様の教えと力ある業から、この人こそ神の聖者と確信して信じて欲しかったのです。一体誰が、汚れた霊の言うことをそのまま受け取るでしょうか。イエス様は神の聖者ではないと否定的に受け取ってしまう恐れもあるのです。汚れた霊の親分は悪魔です。悪魔は人殺しで嘘つきです。(ヨハネ8:44)汚れた霊も嘘を言うからです。

イエス様の「出て行け」という命令によって、汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声を上げて出て行きました。この様子を見ていたカペナウムの人々は、皆ぞっとするような恐れを感じたのです。そして異口同音に言ったのです。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」カペナウムの人々の驚きようが尋常でなかったことを表しています。

 「権威」という言葉が22節と27節で合計2回出てきます。2回出て来るということは、そのことが確かであると福音記者マルコは告げています。つまりカペナウムの人々は、イエス様の教えに、神様から遣わされた権威を、はっきりと認めたのです。そしてイエス様の権威ある言葉に、神の国の到来、即ち新しい世の到来を見たからです。その衝撃に、カペルナウムの人々は異口同音に「権威のある新しい教え」と言わざるを得ませんでした。

このカペルナウムの人達の驚きは、イエス様の評判となり、直ちにガリラヤのいたるところに広まりました。でも残念なことに、悔い改めてイエス様を信じる人は、カペナウムの町から一人も出なかったのです。奇跡という力ある業を見せられて人は驚きますが、信じるところまではいきません。しかし自分自身の上に奇跡が起こる時、人は信じるようになります。

この様にイエス様の教えは権威のある新しい教えでした。それはカペナウムの人々が、汚れた霊をさえ戒め、従わせる力のあるイエス様の権威ある言葉に、神の国の到来、即ち新しい世の到来を見たからです。けれども誰も悔い改めてイエス様を救い主として信じませんでした。汚れた霊を追い出すという奇跡を見て、驚くことはあっても、悔い改めるという気持ちを起こさないからです。人は、心の中の罪を示され、このままでは滅びであると追いつめられない限り、悔い改めません。神様にお祈りして、悔い改めに導いていただきましょう。私たちの心から、汚れた霊である罪を追い出していただくという、奇跡を我身の上に起こしていただきましょう。そして新しく生まれ変わった経験をし、神様の祝福に満ちた新しい毎日を送らせていただきましょう。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi