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過去の説教 聖書箇所
2018年6月24日(日) マルコの福音書 4章35-41節

35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。


36 そこで弟子たちは、群衆をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。


37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。


38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」


39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。


40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年6月24日(日)  聖霊降臨後第五主日


まだ信仰を持っていないのか     マルコの福音書 4章35-41節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

本日の聖書箇所は、イエス様とその弟子たちがガリラヤ湖で舟に乗り、大嵐に遭遇し、遭難の危機に瀕する場面です。


この様な大ごとではありませんが、わたしも船に乗って大変な思いをしたことがありました。小学生のころ、船で粟島に遊びに行ったことがありました。粟島は佐渡島の北に位置する小さな島です。わたしの家がお店をやっており、その店員の一人に粟島から来た人が居たのです。夏休みにその人の家に招待されました。北原白秋の作詞した歌に、「海は荒海、向こうは佐渡よ。」と言う題名の歌がありますが、日本海は結構あれる海です。けれども行きは天気が良く風も無かったので、楽しい船旅でした。しかし帰りがひどかったのです。当時の粟島航路のその船は大きな船ではなく、小さな船でした。天気は良かったのですが、風があり、船は揺れました。最初はその揺れを楽しんでいたのですが、大波が来るたびに大きく揺れるようになり、だんだんと気分が悪くなり、とうとう船酔いにかかってしました。新潟に帰り着くまでずっとこの気持ちの悪い船酔いが続き、もう吐く物もなく、大変な思いをしました。小船はもうこりごりです。


しかし数年前に北海道の旭川の教会で集会が開かれた時、新潟から大勢の人が参加したことがありました。この時乗ったのは日本海フェリーでした。行く時は海がしけて荒れていましたので、船酔いになる前に寝たほうが良いという声を聞き、寝ようと思いました。しかし外は嵐なのに船は意外と揺れず、快適な旅をすることが出来ました。船が大きいから揺れなかったのではなく、スタビライザーと言う装置が働いていて、船が左右に揺れないように制御しているという話を聞きました。フェリーは車を積むので、船が傾くと積んでいる車が横滑りして危険なのでどのような嵐の時でも船が傾かないように制御しなければならないのだそうです。良く「大船に乗ったように安心しなさい」と言いますが、まさにフェリーは大きさも性能も大船で、船酔いもなく、快適な船でした。


ところがイエス様が乗られた舟は漁師の舟ですから、客室も無ければスタビライザーもありません。環境変化をまともに受ける舟です。船酔いし易いわたしに適していないことは一目瞭然です。イエス様はガリラヤ湖畔の水辺に係留したこの舟に座られて、一日中、陸地に集まっている群衆に向かって教えておられました。そして夕方になり、イエス様が言われました。「向こう岸に渡ろう。」


向こう岸に渡るのは、群衆から解放されて休息や夕食を取るためではありません。次の聖書箇所の次の5章1節と2節を見ますと、向こう岸とはゲラサ人の土地で、汚れた霊に憑かれた人がそこの墓場に住んでいる場所です。その人と会い、その人から汚れた霊を追い出すためだったと思われます。きっとその人がイエス様のお名前を呼んで、この様に叫び求めていたからでしょう。「イエス様。どうかわたしから汚れた霊を追い出して、わたしを救ってください。」というのは、マルコの福音書1章21節から28節に記されているように、イエス様がカペナウムの会堂で汚れた霊を追い出された話は大変な驚きをもって伝えられ、たちまちガリラヤ全土のいたるところに広まっていたからでした。ガリラヤ湖を挟んで対岸のゲラサ人の地に住むこの人も、イエス様の噂を聞いていたことでしょう。そして「このお方なら、自分に取りついている汚れた霊を追い出してくださるに違いない。」と確信していたと思われます。本日の週報の裏表紙に「今週の御言葉」に載せておきました、詩篇50篇15節の御言葉の通りです。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」


ところで、このイエス様を対岸にお連れした舟には何人乗っていたでしょうか。この時既にイエス様は、12人の弟子たちを任命しておられました。マルコの福音書3章16節から19節に12弟子の名前が書いてあります。そうすると、弟子たち12人とイエス様一人で、合計13名となります。イエス様が艫(とも)の方で、枕をして眠る余裕がありましたから、結構大きな舟であったと思われます。36節を見ますと、「他の舟もイエスについて行った。」とありますから、群衆が何艘かに分乗してついて行ったことが分かります。どこの世界でも、どの時代でも、有名人に付いて行く追っかけは居るものです。


今、ロシヤでサッカーのワールドカップが開かれており、世界中から自国の選手を応援するために多くのサポーターがロシヤにやって来て、試合会場を埋め尽くしています。サッカーワールドカップの試合場の観客席は4万人が基準だそうで、その膨大な数の席がほとんど埋め尽くされていますからびっくりです。サポーターと言う名前の膨大な追っかけがいる、ということが分かります。先日、日本対コロンビア戦が行われ、わたしもテレビの前に釘付けになって見ていましたが、コロンビアのサポーターの数が半端でなく、その声援もまた半端でないのに驚きました。なにしろマイクの前で話しているアナウンサーの声がそのコロンビアのサポーターの声援の大音量にかき消されて、良く聞こえないのです。こんな事、初めてです。雑音にかき消されそうな昔のラジオ放送を聞いているような錯覚を覚えました。


さて、イエス様と12人の乗った舟と追っかけの人々の乗った数艘の舟が激しい突風に襲われました。ガリラヤ湖で激しい突風が起こるのは、ガリラヤ湖の周りの地形のためと言われています。突風は主に夕方から夜にかけて起こる自然現象であって、決して神がかりなのではありません。即ちイエス様が意図的に起こされたのではありません。でもイエス様はそのことをご承知の上で、ガリラヤ湖を渡ろうとされたのは事実です。ですから、ガリラヤ湖で漁をしていた元漁師のペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、突風が起こることは子供の頃から良く経験していたので、イエス様の提案に素直に従えなかったことは確かでしょう。でも汚れた霊さえも戒め、悪霊を追い出し、ツァラアトを癒し、中風の人を歩かせ、片手の萎えた人を元通りにしたお方がご一緒なら、きっと大丈夫だ、突風は起こらないと信じて従ったのかもしれません。


しかし、案の上、恐れていたことが起こりました。しかもその突風は今まで経験したことのない程恐ろしい突風だったのです。波はたちまち逆巻き、怒涛のように舟の中に流れ込んできたのです。ハワイでサーフィンをする人の後ろを大波が追っ掛けて来る映像をよく見ますが、そのような大波ではないとしても、ある人によるとガリラヤ湖の波は2m以上にもなるそうです。そのような大波に襲われ、舟はたちまち満水となり、今にも沈まんとしていました。


弟子たちは慌てました。特に元漁師のペテロやアンデレやヤコブやヨハネは漁師のメンツにかけてもこの難局を乗り切らねばなりませんでした。元漁師でガリラヤ湖を知り尽くしている自分たちが手を尽くさなかったら、誰が一体この難局を乗り切れるというのでしょうか。彼らはあらゆる手段を尽くしました。皆で水を掻き出したことでしょう。しかしそれは無駄でした。何しろ入ってくる水が掻き出す水よりもはるかに多かったのです。ある者は向こう岸に付こうと、必死で漕いだでしょう。でも逆巻く波に翻弄されて、ぐるぐる回るだけでした。あと彼らに残されている手段が有ったでしょうか。経験したことも無い嵐に見舞われ、お手上げの状態でした。為す術も無く、呆然とするしかありませんでした。もう舟が沈没するのは時間の問題でした。彼らは死を覚悟しました。そのすべての希望が絶たれたと思われた時、彼らの目に入ってきたのは、艫(とも)の方で枕をしてすやすやと眠っておられたイエス様の姿です。イエス様は昼間の説教で疲れ果て、深い眠りに落ちておられました。


弟子たちはこのイエス様の許に駆け寄り、イエス様を起こし、口々に言ったのです。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」


弟子たちはイエス様が元大工であって、船乗りではなく、また舟を操ったことも無いことをよく知っていました。舟に関してはど素人のこのイエス様に、元漁師たちは助けを求めたのです。弟子たちのイエス様に対する呼びかけは「先生」です。決して「主よ」ではありません。この呼びかけから、弟子たちにはまだイエス様に対する信仰が芽生えていなかったことが分かります。弟子たちにとってイエス様は教師であり、せいぜいユダヤ教の律法学者「ラビ」であったのです。神でもない人間に、それも舟に関してはど素人に頼んで何の足しになるのと考えられましたが、彼らにはそれしか残されていなかったのです。まさに「藁にもすがる」思いでした。


次に、弟子たちは「わたしたちがおぼれて死にそうでも」と言っています。原文のギリシャ語聖書では「わたしたちが滅びようとしても」と書いてあります。「溺れて死ぬ」なら、まだ土左衛門となるだけです。しかし「滅びる」のは消滅することです。人間としての影も形もなくなることです。このガリラヤ湖でとれる魚で有名な魚は肉食のピラニヤの一種であるピーターフィッシュです。わたしもイスラエル旅行中に二度食べましたが、あまりおいしいとは言えない魚でした。多分、土左衛門となったら、肉をこの魚に食われ、骸骨にされてしまうのを恐れていたのかもしれません。ですから、弟子たちは自分たちが完全に消滅する危機に陥ったことを認識して、ぞっとしたのです。弟子たちに残された最後の手段は、自分たちのメンツを捨ててイエス様に助けを求めることでした。


まさに先ほど紹介した今週の御言葉です。詩篇50篇15節です。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」最後の手段としてイエス様にすがりついたのは正解でした。ですから大切なのは「苦難の日に神様を呼び求める」ことです。呼び求めない限り、神様は勝手に手出しすることは為さいません。神様はおせっかいをなさらないのです。奥ゆかしいと言えば奥ゆかしいのですが、度が過ぎるほど奥ゆかしいのです。それは私たち人間に信仰を持たせるためです。わたしたちが求めないのに、神様が勝手に助けても、誰も神様に感謝しないでしょう。運が良かったとしか思わないでしょう。そこに信仰の芽生える余地はありません。わたしたちが神様を呼び求めて、わたしたちが苦難から救われたなら、わたしたちは神様の存在を知り、神様を信じ、神様をあがめるようになるからです。ですから、苦難の日にまず神様に助けを呼び求めること、これがわたしたちに苦難が与えられている理由なのであり、この呼び求めが私たちの救われる手段なのであり、この呼び求めがわたしたちの神様を賛美する源なのです。


この弟子たちの「苦難の日の呼び求め」に、イエス様は直ちに立ち上がり、「風をしかりつけ、海に『黙れ、静まれ』と言われました。」するとなんと風は瞬時に止み、海は大凪になったのです。この経験したことも無い大嵐、自分たちに滅びをも覚悟させた自然の猛威は、父なる神様が起こされた自然の摂理ではありましたが、また御子イエス様の全能の力を表す機会でもありました。即ち弟子たちに奇跡を経験させるためでした。普通人は滅びから救われた経験する時、変わります。イエス様を救い主として信じるようになるのです。不肖私もそうでした。弟子たちは変わったでしょうか。弟子たちは、直ちにイエス様の前にひざまずき、イエス様を礼拝したでしょうか。残念ながら弟子たちは、変わらなかったのです。ですからイエス様が言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」ギリシャ語を直訳すれば、こうなります。「どうしてそんなに臆病なのか。あなた方はまだ信仰を持っていないのか。」臆病だから、ちょっとしたことにも怖がったり、尻込みしたりするのです。臆病と言うのは、罪ある人間が持つ基本的な性質です。罪が無ければ堂々とできるのに、自分に後ろめたい事があるから、それを指摘されまいとして臆病になるのです。ちょうどアダムが神様の戒めを破って禁断の木の実を食べた時、「主の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記3章8節)状態です。義人ヨブは、ヨブ記31章33節でこのアダムの行為をこの様に言い当てています。「あるいは、私がアダムのように、自分のそむきの罪をおおい隠し、自分の咎を胸の中に秘めたことがあろうか。」アダムは罪を犯した時、自分の背きの罪を覆い隠し、自分の咎(とが)を自分の胸の中に秘めたのです。つまりアダムは自分の罪をひた隠しに隠したのです。これが罪を持つ全ての人間の姿です。全ての人はそむきの罪をひた隠しに隠しているのです。イエス様の弟子たちでさえ、自分の罪をひた隠しに隠していました。ですから、イエス様に「臆病」と言われたのであり、「まだ信仰を持っていないのか」と指摘されたのです。


弟子たちがイエス様の奇跡を見て必滅の死から救われた時、自分たちの不信仰をさらけ出し、イエス様の前にひざまずいて、罪の赦(ゆる)しを願うべきでした。しかし彼らはそうしなかったのです。それは彼らがユダヤ人であったからです。ユダヤ人は幼いころから偶像礼拝を戒められていて、人間を礼拝することができませんでした。即ち幼い時からの教育が邪魔をして、イエス様の中に神様を認めていても、心が動かなかったのです。異邦人のように素直になれなかったのです。弟子たちが初めてひざまずいてイエス様を礼拝したのは、3年後のことです。イエス様がオリーブ山からゆっくりと天に昇って行かれた時でした。


この弟子たちの性格をよく知っておられるイエス様はそれ以上弟子たちを咎めませんでした。ユダヤ人にはまだまだ時間が必要だったのです。しかしそのユダヤ人の弟子たちはこのように言い続けていました。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」弟子たちはこの滅びるかもしれないという経験を通して、漸く、イエス様について、どなたなのか考えるようになってきたのです。彼らは、理論的にはこの様に考えていたのです。「神以外の誰がいったい、一言で、荒れ狂う風と海を従わせることができるのだろうか。」この答えは、「神以外はできない」です。そして「そのことができたイエス様は神様である」、と言うことです。しかし、幼いころから植え付けられた教養と知性が邪魔をして、頭で「イエス様は神様である」とわかっていても、心が「イエス様は人間である」としてしまい、それ以上動けなかったのです。


イエス様はご自分の弟子たちを経験したことも無いような嵐に遭遇させ、滅びを覚悟させました。そして一言で嵐を鎮め、海を黙らせ、御自分が神であることを示されました。しかし弟子たちの心は臆病で、不信仰の罪、そむきの罪をひた隠しに隠し、イエス様を神様と信じる信仰を持つことができなかったのです。しかしこのお弟子たちの不信仰を通して、イエス様は私たちに苦難の日にはご自分を求めるように示されました。ご自分がわたしたちを苦難から救う救い主であり、ご自分が信仰の対象であることを明らかにされたのです。全ての人はそむきの罪を隠し持っています。その罪を隠し持っている限り、滅びから免れません。イエス様はその罪を赦すためにこの世に来られました。ですから、わたしたちが苦難に会う時、イエス様に助けを求め、イエス様に助け出され、イエス様を礼拝する者とならせていただきましょう。そしてイエス様と共に歩む祝福された生活、喜びと平安に満ちた生活を送らせていただきましょう。



 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi