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過去の説教 聖書箇所
2018年7月1日(日) マルコの福音書 5章21-43節

21 イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。

22 すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、

23 いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」

24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。

25 ところで、十二年の間長血(ながち)をわずらっている女がいた。

26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。

28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。

29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」

32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

35 イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」

36 イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」

37 そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。

38 彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、

39 中に入って、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」

40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。

41 そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味である。)

42 すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。

43 イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2018年7月1日(日)  聖霊降臨後第六主日


あなたの信仰があなたを救った     マルコの福音書5章21~43節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

さて、本日の聖書箇所には二人の主人公が登場します。一人は会堂司ヤイロであり、もう一人は長血の女性です。この二人に共通することはどちらも重い病で苦しんでいたことです。ヤイロは死にかけている12歳の娘を持ち、長血の女性は12年間だらだらと続いた、不正出血に苦しんでいました。そして二人の信仰も良く似ています。二人ともどのようにして癒して欲しいのか、その癒しの手段の明確なイメージを持っていたことです。ヤイロは、イエス様がその御手を娘の上に置いてくだされば娘は生きると信じており、長血の女性は、イエス様の着物に触れば自分の病気は治ると信じていました。さらに共通することは、二人ともイエス様の許に来てイエス様の前にひれ伏したということです。ヤイロは娘が癒される前にイエス様の前にひれ伏し、長血の女性は癒された後にひれ伏しています。ひれ伏すという行為は日本語の土下座と似ていますが、土下座と違うところは礼拝するという意味があることです。二人ともイエス様を神様と信じていたのです。

二人はこの信仰をどこから得たのでしょうか。会堂司ヤイロは、自分が管理者の一人であるカペナウムの会堂で、イエス様が汚れた霊に憑かれた人から汚れた霊を追い出すところを真近に目撃し、驚きました(マルコの福音書1章27節)。またイエス様がカペナウムの町で様々な病人を癒されるのを見聞きしていました(マルコ1:34)。その後、安息日に会堂で片手の萎えた人を、言葉だけで癒されたのを目撃していました(マルコ3:5)。このヤイロはユダヤ人で、それも会堂の礼拝のお世話をし、監督をする地位についていましたから、ユダヤ教の専門的な訓練を受けた人だと分かります。しかしそのようなユダヤ人が、イエス様の前にひれ伏したということは、ありえないことが起こったことを表しています。というのは、コチコチのユダヤ人にとって、目に見える人間を礼拝することは決してできないことであったからです。ですから、ヤイロは一般のユダヤ人の指導者とは基本的に違っていたと言えます。つまり、イエス様を肉の目では人間と見ていましたが、心の目ではまことの神様と見ていたのです。ヤイロはユダヤ人の慣例や常識にとらわれないで、事実を事実として真っすぐ受け入れ、イエス様の中にまことの神様を見る、心の目を持っていたということが分かります。

他方、長血の女性は一般人でありかつ女性であるがゆえに、会堂管理者ヤイロよりもユダヤ教の縛りを感じなかったのかもしれません。特にヤイロの場合と異なるところは、自分自身が12年間も長血で苦しみ、医者にかかっているのに悪くなる一方で財産を失い、頼る者も無く、人生の絶望の淵に立たされていたことです。その絶望の闇の中で聴いたのが、イエス様の噂でした。イエス様が奇跡を働かせて悪霊を追い出し、片手の萎えた人を癒し、ツァラアトにかかった病人を清めておられることを聞いたのです。(マルコ1:42)彼女の心に光明が差し込みました。まさにイザヤ書9章2節です。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」こんなに力のあるお方なら、その御着物に触れただけで私も癒されるに違いない、と彼女の心に灯がともったのです。男性のイエス様に恥ずかしいことを打ち明けてお願いしなくとも、癒していただけると確信し安心したのです。その安心の灯がどんなに大きかったのかが分かるのが28節です。28節をギリシャ語聖書から直訳しますと、この様になります。「『お着物にさわることでもできれば、きっと救われる。』と言っていたからである。」彼女は、その恥ずかしいことを、知人や友人に熱心に話せるほどになっていたのです。「もう私は安心よ。イエス様の後ろから近付けば、わたしはきっと救われるのだから。」

彼女は群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の着物に触ったのです。正確には着物の房に触りました。同じ出来事を書いている、マタイの福音書9章20節を見ますと、この様に書いてあります。「すると、見よ。十二年の間、長血をわずらっている女が、イエスのうしろに来て、その着物のふさにさわった。」着物の房とは、民数記15章38節から40節に書いてある房で、そこから青いひもがぶら下がっているものです。その青いひものぶら下がっている房を見て、神様の全ての命令を思い起こして行うためであり、神様の聖なる者となるためです。信仰深いユダヤ人は、着物の四隅に房を作り、その四隅の房に青いひもをぶら下げていました。

以前話したかもしれませんが、5年前、私たち夫婦はイスラエル巡礼の旅に出た時、最初の日曜日にテルアビブ近郊のヤッフォと言う町にある、ベイト・インマヌエル・ルーテル教会の礼拝に出席しました。その礼拝には、いわゆるメシヤニック・ジュウと呼ばれる、ユダヤ教からキリスト教に改宗した男の人が一人出席していました。その人はズボンのベルトから、腰の四隅に青いひもをぶら下げており、礼拝中ずっと前列席の端に立ちっぱなしで、お辞儀をする姿勢を繰り返していました。その教会の会員の方にその男の人のことを聞いたら、「彼はユダヤ人で、キリスト教に改宗したのだけれど、今まで身に着けた習慣を断ち切ることができずにいるのですよ。本人が不必要だと思うようになるまで、わたしたちは静かに見守っているのです。」と話しておられました。

長血の女性は、この青いひものぶら下がっている、房の一つに触ったのです。そうしたらなんと、直ちに出血の源が干上がり、ひどい痛みが治ったことを体に感じました。「ひどい痛み」と書かれている痛みは、ギリシャ語聖書では「鞭打たれる痛み」と書いてあります。彼女は12年間鞭打たれていたのです。なんと彼女は長い間、体の内側で鞭打たれる痛みに耐えてきたことでしょうか。その痛みを、イエス様はまず癒されたのです。イエス様は、彼女がご自分に近づき房に触ることを知っておらました。そして触った瞬間彼女に力を注ぎ、彼女の病を癒されたのです。イエス様は神様ですから、接触無しでも人を癒すことが出来ましたが、彼女の信仰に従って、彼女を癒されたのです。

彼女の喜びも束の間、思いもよらぬことが起こりました。イエス様が群衆の中を振り向いて、「誰がわたしの着物にさわったのですか」、と言われたのです。イエス様は彼女が何か陰に隠れて、不適切にイエス様から癒しを得たという、後ろ向きの思いを抱くことを望まれなかったのです。正々堂々と、正面からイエス様に癒していただいた、という思いにさせてあげたかったのです。ですからイエス様は女の人が言い出さないので、彼女の辺りを見回すしぐさをしました。そしてとうとう、目と目が合ってしまいました。万事休すです。もう逃げも隠れもできません。多分その時、イエス様は促すようなまなざしをなさったことでしょう。ですから女の人は恐れおののきつつも、イエス様の前にひれ伏し、群衆の真ん中で真実を余すところなく打ち明けることができたのです。彼女の長血のことが公になり、彼女は恥ずかしい思いをしたでしょうか。否、もうしませんでした。なぜなら、それはすでに過去のことであったからです。今はもう、癒されていたからです。もう隠すことはありませんでした。反対に大きな声で、「わたしの病気をイエス様は癒してくださった。もう私は恥ずかしくない。」、と大声で知らせたい気持ちだったのです。

その彼女にイエス様は言われました。祝福の温かい言葉です。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」このイエス様の言葉を誤解しないでください。信仰があったから、彼女が癒されたことは、確かです。でも癒したのはイエス様です。ですから信仰は、癒しや祝福と言う賜物を神様から受け取る手であり、送られてくるパイプであるということが分かります。子供のわたしたちが親に向かって「ごはんちょうだい。」「お小遣いちょうだい。」、と差し伸ばす手です。神様に手を差し伸ばさなくては、何も与えてもらえないことは確かです。しかし、信仰と言う手を持てば、必要なものを与えていただけることも確かです。

さて、会堂司ヤイロの方はどうなったのでしょうか。何とイエス様がまだ女の人と話をしている間に、家の方から知らせが来たのです。「あなたのお嬢さんは亡くなりました。なぜ、この上先生を煩わすことがありましょう。」イエス様は神様ですから、ヤイロの娘が死の淵に沈み込んで行くのをご存知でした。そのことを知りながら、女の人と話しておられたのです。ちょうど、ヨハネの福音書11章に書いてあるように、マルタとマリヤの兄弟であるラザロが死の淵に沈み込んで行くのを知りながら、イエス様はなおも二日間、ヨルダン川の岸辺に留まっていたのと同じです。イエス様はご自分が死人をも復活させることができる神であることを、少女の両親と弟子たちに教えたかったのでしょう。

ですからイエス様は、家から来た使いの言葉にヤイロが気落ちし、御自分に対して諦めの感情を抱き、信仰を失ってしまわないように、元気づけられました。「恐れないで、ただ信じていなさい。」ヤイロはイエス様に励まされて、「ああ、この御方はわたしの心を知っておられる。」と直感し、イエス様に全てを委ねよう、と心を決めたのです。

イザヤ書42章はイエス様のことを預言している章と言われています。その42章3節にこのような言葉があります。「彼は傷んだ葦(あし)を折ることなく、くすぶる燈芯(とうしん)を消すことも無く、まことをもって公義をもたらす。」ヤイロの信仰はまさに傷んだ葦であり、くすぶる燈芯だったのです。イエス様は、そのいまにも消えようとしている、その信仰の燈芯を、真っすぐに立たせ、また油を吸い上げて、赤々と燃えるように、整えてくださいました。ヤイロの心は再び赤々と燃えあがってきたのです。

ヤイロの家に着くと、そこは既にお葬式のための泣き女や悲しみ男が雇われてきていて、大騒ぎでした。その人たちに向かってイエス様は言われました。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」このイエス様の言葉を聞いて、雇われて来た泣き女たちや悲しみ男たちはイエス様をあざ笑いました。少女が完全に死んでいることを知っていたからです。しかし神様であるイエス様にとって、死に対する理解は人間の理解と異なっていました。イエス様は先ほどのラザロの死も「眠り」であると言われました。神様にとって、人間の死は眠りでしかないのです。「完全に滅んでしまってはいない」という意味で眠りです。ですから必要ならば何時でも甦らせることがおできになるのです。恐ろしいのは第二の死です。イエス様に裁かれて、永遠の炎の中に投げ込まれてしまうことです。その死は「無」を意味しています。全く消滅してしまうのです。

ですからイエス様は騒々しいその人たちを全て追い出し、少女のお父さんとお母さんと弟子たち3人だけを伴って、少女の部屋に入りました。しかし息もせず、血の気も無い娘を見て、父親のヤイロは自分の心がイエス様から急速に離れていくのを感じました。イエス様に対する信仰がしぼんで行ったのです。イエス様から何も元気づけれていない母親は、今頃イエス様がおいでになっても何もできないと、はなから諦めていたことでしょう。その両親を前にして、イエス様はヤイロの最初の信仰に沿って少女の手を取り、ヘブル語で「タリタ・クミ」と言われたのです。「少女よ。起きなさい」と言う意味です。するとなんと少女は起き上がり歩き出したのです。驚いたのは両親です。自分たちの手の届かない世界に行ってしまった、と悲しみに沈み始めた両親に衝撃が走ったのです。天地がひっくり返った驚きに包まれました。悲しみの地獄から、突然、喜びの天国引き上げられました。

その驚きと喜びが隠せない両親に向かってイエス様は、慰めの言葉を掛けられました。一つ目は「このことを誰にも知らせないように。」と厳しく命じられました。奇跡が起こったことは隠せませんでした。少女が死んだことは、多くの人に知られてしまっているし、生き返ったことも、多くの人に知られることになるからです。そしてイエス様がよみがえらせたということも、明らかになるからです。イエス様にとってそれで十分でした。イエス様は両親に、奇跡を宣伝する人になって欲しくなかったので、誰にも知らせないようにと命じられたのです。平穏に生きたいと願う信仰者にとって、この神様であるイエス様の言葉は何と大きな慰めであったことでしょうか。二つ目の慰めの言葉は、「少女に食事をさせるように」という勧めです。少女は病気の間は、何も食べることができなかったからです。ですから元気になった今、食事が必要でした。しかし驚きに心が奪われている両親にとっては、その少女の食事まで心が及ばなかったのは確かです。イエス様に言われて、両親は直ちに、娘に食事を与えたことでしょう。ヤイロさんの家庭に、日々の平安がまた戻って来ました。

この様に、信仰こそが病気が癒される決め手であり、永遠の滅びから救われる手段です。イエス様が長血の女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言われた通りです。イエス様はこの「救い」と言う言葉によって、病気の癒しと同時に、永遠の滅びから長血の女性を救われました。そしてわたしたちをも救って下さるのです。それはイエス様を信じる信仰を通して、罪の赦(ゆる)しが与えられるからです。この信仰は、長血の女性とヤイロが、イエス様の前にひれ伏した姿勢に現されているものです。イエス様の前にひれ伏すとは、イエス様を神様と認め、罪の赦しを求めて、イエス様に全面降伏することです。これがまことの信仰です。わたしたちがこのイエス様の前にひれ伏す信仰を持つとき、わたしたちはこの世に生きている今、天の御国に入れられ、平和な生活、喜びに満ちた生活、祝福に溢れた生活を送ることができるのです。神様はこのような人を用いられます。ですから神様は皆さんお一人お一人にご計画をお持ちです。ヤイロや長血の女性のようにイエス様の前にひれ伏す者となり、神様に用いられた福福の生活を送らせていただきましょう。


 人知では到底はかり知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。

©2018 Rev. Manabu Wakabayashi