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過去の説教 聖書箇所
2019年2月3日(日) ルカの福音書 4章31-44節

31 それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。
32 人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。
33 また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。
34 「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」
35 イエスは彼をしかって、「黙れ。その人から出て行け」と言われた。するとその悪霊は人々の真ん中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。
36 人々はみな驚いて、互いに話し合った。「今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。」
37 こうしてイエスのうわさは、回りの地方の至る所に広まった。

38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です」と大声で叫びながら、多くの人から 出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。

 42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」

44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。



(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年2月3日(日)  顕現後第四主日


一人一人に手を置いて癒された     ルカの福音書4章31~44節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

さてイエス様は故郷ナザレでの会堂で説教された時、ナザレ人の反感を買い、迫害に遭いました。ナザレの人々はイエス様の説教を聞いて、その恵みの言葉に驚いたものの、その言葉に権威を認めることができませんでした。「この人は、ヨセフの子ではないか。」と人間を見てしまったからです。それでイエス様から不信仰を指摘された時、怒りに燃えてしまい、イエス様を殺そうとしました。

同じようにカペナウムの人々も、イエス様の教えに驚きました。しかしそれだけでなく、カペナウムの人々は、イエス様の教えに権威を認めたのです。つまりカペナウムの人々は、「イエス様を神様から遣わされた人である」と認めたのです。ですからイエス様は、ナザレではたった1日だけの説教でしたが、カペナウムでは幾つかの安息日に渡って説教することができました。きっと、カペナウムの人々には、驚きずくめの安息日が続いたことでしょう。

 更に、カペナウムの人々を驚かすことが起こりました。それはイエス様が汚れた悪霊に憑かれた人から、その汚れた悪霊を追い出されたことです。悪霊は本質的に汚れた霊です。しかもこの悪霊は、さらに汚れているのです。ですから全く汚れており、道徳的な純粋さは微塵も無い霊です。この汚れた悪霊に取りつかれた人が礼拝中に突然叫びだすので、カペナウムの人々はほとほと困っていました。それで、その汚れた悪霊をイエス様が追い出したので、カペナウムの人々はびっくりしたのです。

この汚れた悪霊はこのように叫びました。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」人間は悪霊を追い出すことはできませんし、イエス様が神の聖者であることも知りません。ですからこの汚れた悪霊の言葉は、人間が話している言葉ではなく、汚れた悪霊が人間の口を用いて話している言葉であることが分かります。早い話、汚れた悪霊が語っているのです。このことから一般に、悪霊は「人格的な存在である」、と言うことができます。

なぜこのような悪の人格が存在するのかと言いますと、神様が造られたからとしか言いようが有りません。イエス様は悪霊の親分である悪魔を、「人殺しである」と言いました。ヨハネ 8章44節です。イエス様はご自分を殺そうとしているユダヤ人に向かって、このように言われました。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」ですから、かたくなにイエス様を信じようとしない人や、意識的にクリスチャンを迫害する人は、悪霊に取りつかれているということができます。さらに今日、日本のみならず世界中で、人間を簡単に殺してしまうという恐ろしいニュースが溢れています。人間は、一歩間違えば相手を殺してしまう存在であることが分かります。ですから人間は、程度の差はありますが、全ての人が悪霊に取りつかれていると言うことができるのではないでしょうか。

そういう訳で、この世は簡単にイエス様を信じることができないように造られている、ということが分かります。まず人間は罪に汚染していますので、神様から切り離され、基本的に神様が分かりません。さらにこの世には、悪魔とその手下である悪霊が全ての人間に取りついていて、人間を神様から遠ざけるようにと働いています。何故こんなにしっかりとマイナスの力が働いているのかと言いますと、罪ある人間が間違っても神の国に入らないようにしているためです。イエス様はマタイの福音書19章24節で言われました。「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」金持ちとは、この世の物質的な生活に満足している全ての人のことを言います。このように神の国に入ることは非常に難しいことが分かります。と言いますのは、神様は、人間の自主性をとても大事にしていらっしゃるからです。信仰とは、神様から押し付けられることでもなく、ましてや牧師やクリスチャンから押し付けられるものでもありません。そうではなく神様は、人間の方から神様を探し求めることを望んでおられるのです。それは信仰が神様から与えられ、その素晴らしさのために、あなたが神様からもう離れたくなくなるためです。それで神様は人間に悪霊を取りつかせ、様々な災難に遭わせ、その苦しみの中からご自分を呼び求めるようにしておられるのです。

全ての人間が悪霊に取り付かれていると言うのなら、イエス様の正体を知っている悪霊が、とりついているその人に教えてもよさそうに思えます。しかし悪霊の役目は、人間をイエス様から遠ざけることであって、イエス様に近づけることではありません。ですから、自分たちにとって都合の悪い情報が入らないように、人間の耳を塞いでいるのです。しかしカペナウムの会堂でわめいた汚れた悪霊は、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」と叫びました。

何故嘘つきであるこの汚れた霊が本当のことを言ったのでしょうか。即ち、イエス様の正体をばらしたのでしょうか。それは汚れた霊がイエス様の正体をばらせば、イエス様が神の聖者であるかどうかがあいまいになっていくからです。正しい人、例えば洗礼者ヨハネがイエス様を指して「見よ、神の小羊。」と言えば、聞いた人は「イエス様が神の小羊である」と受け取ることでしょう。しかし嘘つきがイエス様を指して「見よ、神の小羊。」と言えば、聞いた人はイエス様を「神の小羊である」と受け取るでしょうか。受け取るかもしれないし、受け取らないかもしれません。多分受けとらない人が多いでしょう。そうすると人々の間で混乱が起こり、何が正しいのか分からなくなり、結局イエス様を受け入れることができなくなってしまうのです。この様に、人々の中に混乱を起こすのが悪魔のやり方です。それでその悪霊を叱って「黙れ。その人から出て行け。」と言われたのです。イエス様は人々が直接御自分の説教の言葉を聞いて、「この方こそ神様から遣わされた聖者である」と確信し、信じて欲しかったのです。

イエス様は悪霊をも地獄で滅ぼすことのできるお方です。そのイエス様の命令によって、悪霊はその人から出て行きました。悪霊が出て行ったことは、悪霊に憑かれていた人が投げ倒されて静かになったことによって、はっきりとわかりました。びっくりしたのは、この悪霊に憑かれた人に手を焼いていたカペナウムの人々です。ですから彼らはイエス様の権威と力を認めました。そんなわけで、この悪霊の追い出しの奇跡のニュースは大ニュースとなって、たちまち回りの地方の至る所に広まりました。

このあと、イエス様は会堂を出られ、即座にシモンの家に行かれました。シモンの姑が高熱で苦しんでいるのを知っておられたからです。でも人々が彼女を癒してくださるようにお願いすることも受け入れられ、導かれるままについて行かれました。イエス様が姑の枕元に来て、熱をしかりつけられると、熱が彼女から去り、姑は熱で疲れた様子もなく、すっくと立ち上がってイエス様とその弟子たちをもてなし始めました。イエス様は姑から熱を去らせただけでなく、姑の健康も体力も回復させられたのです。イエス様の癒しは完全であることが分かります。

日が沈んで安息日が終わると、イエス様の悪霊の追い出しを聞いた人々が、いろいろな病気で弱っている人を、イエス様がおられるシモンの家の前に連れてきました。イエス様は一人一人に両手を置いて癒されました。イエス様が両手を置かれたからと言って、イエス様の癒しの力がその両手を通して病人に伝わったのではありません。イエス様の御心が病人の病を癒したのです。例えば、ツァラアトに罹っている者に、「わたしの心だ、清くなれ」(ルカ5:13)と言われたのと同じです。繰り返して言いますが、イエス様の御心が病人を癒したのです。両手を病人の上に置かれたのは、病人に安心感を与えるためであり、癒しの祝福をするためでした。ですから、イエス様が病人一人一人の上に両手を置かれたのは、慰めるためであって、「羊飼いのない羊のように、弱り果てて倒れている彼らを、かわいそうに思われた。」(マタイ9:36)からであることが分かります。イエス様は私たち人間の弱さに同情できない方ではありません。私たちの弱さを本当に知り尽くしておられるお方です。


一人一人に両手を置かれ、夜通し病人を癒し、悪霊を追い出されたイエス様は、夜が明けると静かに祈るために寂しいところに出て行かれました。御自分の本来の任務を再開するためです。それは他の町々にも神の国の福音を宣べ伝えることでした。しかしカペナウムの人々は律法学者の退屈なお話を聞くよりも、もっとイエス様の権威のあるお話を聞きたいと願いました。おまけに病気も癒していただけます。こんな素晴らしい先生は他にはいません。ですからイエス様が自分達から離れて行かないように引き留めておこうとしました。けれどもイエス様は、御自分が神の国の福音を宣べ伝えるために遣わされたことを話し、理解してもらいました。そしてカペナウムを離れ、ユダヤ全土の町や村で福音を告げ知らせ続けられたのです。

しかし問題がありました。あれほど多くの病人を癒すという大きな奇跡を経験したカペナウムの人々は、イエス様を信じることもせず、悔い改めもしませんでした。なぜでしょうか。悪霊によって混乱させられたこともありますが、それよりもカペナウムの人々がユダヤ人であったからと考えられます。元々ユダヤ人は一神教徒ですので、人間の姿を取られたイエス様も神様であるとは、想像だにできませんでした。そのため、ユダヤ人は最後にはイエス様を十字架に付けてしまったのです。ですからカペナウムの人々は、自分たちの目の前で力ある業を行われたイエス様を、自分の心の目でしっかりと見るべきだったのです。しかしそうしなかったのですね。このあと、ルカの福音書10章15節でイエス様は、悔い改め無かったカペナウムを呪われております。その呪いの通り、カペナウムは今も廃墟となっており、再建されてはいません。


この様に、悪霊に取りつかれている人間が、神の子である人間イエス・キリストを信じることは非常に難しいことです。神様がそうされているからです。しかしこのような厳しい状況にあっても、私たちが神様に助けを求めるなら、神様は私たちを助けるために、天より下ってきてくださいます。この御方が助け主であり、癒し主であるイエス様です。イエス様は、私たちの病んだ体に両手を置かれて私たちを慰め、御心のままに私たちの病を癒してくださいます。それは私たちがそのイエス様の力ある業を見て、イエス様を信じるためです。ですから神様に助けを求めましょう。聖書はこのように教えています。詩篇50篇15節の御言葉です。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」困ったときには神様に助けを求めましょう。そしてイエス様を信じましょう。


人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi