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過去の説教 聖書箇所
2019年2月10日(日) ルカの福音書 5章1-11節

1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。
5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。
7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。
9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年2月10日(日)  顕現後第五主日


あなたは人間を捕るようになる     ルカの福音書5章1~11節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

皆さんの中にも毎朝8時から始まるNHKの朝ドラ「まんぷく」楽しんでおられる方がおられると思います。その主人公の一人立花萬平さんは、結構いろいろな仕事に職業替えをしています。幻灯機から始めて、根菜切断機、印鑑作り、ダネイホンという栄養食品作り、と順調に物作りを進めていましたが、ある事件をきっかけに、池田信用組合の理事長に職業替えをし、そして現在、ドラマの中では、即席ラーメンの開発という物作りに職業替えをしています。それで私共も時々、お昼には昔懐かしの日清のチキンラーメンを美味しくいただいております。

私も職業替えをした一人です。私の場合は万平さんみたいな波乱万丈の職業替えではありませんでしたが、それでも様々な家電製品作りから、牧師へと職業替えをしました。

 

本日の聖書箇所の中で、主人公のシモンもペテロと名前を変え、漁師から人を捕る福音伝道者へと職業替えをしております。

その、漁師シモンが職業替えをしたのは、イエス様から「これから後、あなたは人間を捕るようになる。」と預言されたからでした。しかし、イエス様はシモンに、「私に付いてきなさい。」とか、「わたしに従ってきなさい。」、という召命の言葉を掛けてはおられません。それなのに11節を見ますと、シモンは、「何もかも捨てて、イエス様に従って行きました」。何が決定的にシモンの心を動かしたのでしょうか。それはシモンがまことの神様にお会いしたいという願望を持っていたから、と言えます。神様を求める人に、神様は御自身を現わし、その人を導かれるのです。

神の民ユダヤ人だからと言って、どのユダヤ人も神様に会っているわけではありません。詩篇14篇2節と3節にこのように書いてあります。「主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らは皆、離れて行き、誰も彼も腐り果てている。善を行う者はいない。一人もいない。」この「善を行う」とは文脈から、「神様を尋ね求めることです。」神の民と言われているユダヤ人でさえ、誰一人として神様を尋ね求めていないというのです。ましてや神様を知らない異邦人は誰も神様を尋ね求めていない、ということになります。

ですから、私たちが神様を尋ね求めなければ、何も起こらないことははっきりしています。というのは、神様は人間から求められていないことを、おせっかいがましくなさらないお方であるからです。それどころか全ての人間は罪を犯しているために、基本的に神様が見えず、おまけに悪霊に取りつかれていますので、神様が分からないのは当たり前なのです。

その神様の分からない人間世界にあって、ユダヤ人は唯一、神の民として、聖書が与えられ、律法によって教えられ、預言者によって導かれていました。しかし神様を尋ね求めないことに関しては、異邦人と全く変わりませんでした。そこに洗礼者ヨハネが現れ、イエス様がおいでになったのです。このような、時代のかすかな変化に、多くのユダヤ人が反応し始めました。神様による今までの宗教教育が実を結び始めたのです。多くのユダヤ人が洗礼者ヨハネの説教によって悔い改め、洗礼を受けました。そしてイエス様の説教を聞くようになったのです。特にシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの6人は、洗礼者ヨハネからイエス様が世の救い主メシヤであることを教えられ、イエス様の最初の弟子達となりました。中でもシモンは、イエス様から「ペテロ」と名付けられています(ヨハネ1:42)。シモンが神様を真摯に求めている人、まことの神様に会いたいと強い願望を持っていた人であることが、その名付けられた理由の一つと考えられます。

しかし、この最初の弟子たちは、洗礼者ヨハネからイエス様が世の救い主メシヤであることを聞いてはいたものの(ヨハネ1:36)、イエス様をどの程度理解していたかは疑問です。というのは、本日イエス様がゲネサレ湖、即ちガリラヤ湖の岸辺で群衆に説教されていた時、漁師たちはイエス様のお話を聞きながら網を洗っていたからです。この漁師たちの中に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人がおりました。イエス様がお話をしておられるのに、弟子たちがそのお話を聞く事に集中せず、聞きながら仕事をしているのは、いかがなものかという感じが致します。イエス様に押し迫るようにしてお話を聞いていた群衆の方が、弟子たちよりよっぽどイエス様を信じているように見えます。ですからイエス様はその優柔不断な弟子たちに対して活を入れるべく、シモンの持ち船に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。これでペテロは止むなく、イエス様のお話に集中させられたのです。また他方イエス様は、ご自分に押し迫るように集まってきた群衆との距離も取れ、座ることもできたので、話しし易くなりました。

しかし暫くするとイエス様は、群衆に対する話を止めました。私たちの新改訳日本語聖書では4節に「話が終わると」と翻訳していますが、ギリシャ語聖書では、「話すのを止めた」と書いてあります。何か突然お話を止めたような言葉づかいです。例えば時間が来たから止めた、というような印象です。この微妙な言葉遣いから、イエス様が群衆にお話ししていたのは、群衆教えるのが本意ではなく、目的は別であったように受け取れます。イエス様は特にシモンに用事があったのでしょう。それを実行する時を待っていたという印象です。太陽が十分昇って、もう漁には不向きとなる時間を待っておられたようです。

そしてその時が来ました。イエス様はシモンに言われました。「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」このイエス様の言葉は命令形です。この御言葉にシモンは少し反発しました。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。」このシモンの言葉から、次のような気持ちが伝わって来ます。「漁師として、魚を捕るのに最も良い時間に、最も魚の集まる場所で、丁度良い深さで網を仕掛けたけれど、一晩中やっても取れなかった。だからこんな真っ昼間に何をやっても無駄ではないですか。」しかしシモンの偉いところは、イエス様は自分の師であって、自分はその弟子であるという自覚でした。この自覚が「先生。」と言う呼びかけの言葉に現れています。そしてこの自覚が次の言葉を言わせたのです。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」けれどもこの言葉からも、シモンがイエス様を信じて網を下ろしたとは思えません。それどころか、シモンは心の中で、「絶対イエス様は間違っている。」という確信に満ちていたのではないかさえと思われます。


シモンはイエス様の言葉に従って、舟を深みに移動させました。そして網を下したのです。ところが、なんと網を下ろすや否や、網が、がさがさと揺すられ、強い力で水の中に引き込まれていくではありませんか。慌てたのはシモンです。でも漁師の経験から、網の揺れや引き込みが収まるまで待ちました。魚が網の奥深くまで入り込むのを待ったのです。その網の揺れが収まったので、引き上げようとしたところ、何か重たいものが入ったような手ごたえがありました。網を水面近くまで引き上げると、何と、多くの魚が所狭しと入っているのが見えてきました。とても重たくて、一人や二人では引き上げることができません。それで網を洗っている仲間のヤコブとヨハネに合図を送って、助けに来てくれるように頼みました。皆で網を舟に上げようとすると、網はおびただしい魚で、今にも破れそうでした。漸く網を二艘の舟に引き上げると、二艘とも沈みそうになり、網の中の魚を舟の中に引き出すと、二艘の舟が魚で一杯になりました。シモンの舟は、イエス様と12人の弟子たちを乗せてガリラヤ湖を横断できるほどの大きさでした。ですから大変な量の魚が網に入ったことがわかります。

この今まで見たことも、聞いたことも、経験したことも無いような大漁に驚いたのはシモンでした。判断が間違っていたのは、素人のイエス様でなくて、玄人の自分だったのです。さらに想像を絶するおびただしい魚の山を目の前にして、漁師の経験から「これは偶然ではない、イエス様が魚を集め、さらに魚を創られたのだ。」と直感し、イエス様の中に天地を創造された真の神様を見たのです。シモンは自分の上に起こった奇跡に打たれ、「絶対イエス様は間違っている」という自信は完全に打ち砕かれ、立ち上がることができませんでした。シモンは恐ろしさに震え、イエス様の足元にひれ伏してお願いしました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」シモンは真の神様を目の前にして、恐ろしさに体を震えさせながら、信仰告白したのです。「主」という呼びかけの言葉は、信仰を表します。この言葉から、シモンは今、漸く真の信仰を持ったことが分かります。その真の信仰はシモンに「罪」を自覚させ、そして自分が罪深い者であることを告白させたのです。


もう皆さんお気づきと思いますが、福音記者のルカは今まで「シモン」と呼んでいたのに、8節では、「シモン・ペテロ」と呼び変えています。「シモン」は生みの親が付けた名前で、「ペテロ」はイエス様が付けられた名前です。シモンが心から悔い改めて新しく生まれ変わったことを表すために、福音記者ルカは「シモン・ペテロ」と呼び変えたのだと言えます。

自分の罪深さに恐れおののいて、信仰告白をしたシモン・ペテロに、イエス様は宣言されました。ギリシャ語聖書の言葉を直訳します。「恐れてはならない。今から後、あなたは人間を生け捕りするようになるのです。」「恐れてはならない。」これはどういう意味でしょうか。これは、「あなたの罪は赦(ゆる)された」と言う意味です。「あなたの罪は赦されたから、もうあなたは恐れてはならない。」と言う意味になります。

そしてペテロに、これからどのような働きをする人になるのかを預言されました。「今から後、あなたは人間を生け捕りするようになる。」

私たちが「生け捕る」と言葉を聞くと、「ペテロ。お前はこれから奴隷商人になるのだ」と言われているような気がします。奴隷商人が子供や女性や後進国の人々など、いわゆる無防備で社会的に弱い人々を生け捕りにして、奴隷として売るような響きが致します。

しかし、ギリシャ語には少なくとも、「捕る」と言う言葉と「生け捕る」と言う言葉の二つの言葉が有ります。「捕る」と言う言葉は、殺してしまう意味が強くなります。ペテロたちが捕った魚は、皆死んでしまいました。人間が食べるために魚や動物を捕るからです。これに対して「生け捕る」は、生きたまま捕獲することで、当面は殺さず、食べるにしても、用いるにしても、後で何かに役立させようという意図がうかがえます。

イエス様が「生け捕る」と言う言葉を選ばれたのは、後で何かに役立させようと考えておられるからです。それは何かと言いますと、福音宣教です。福音は決して人を殺しません。それどころか人を死から救い、真の意味で人を生かすものです。それも天の御国に導き、永遠に生かすものです。ですからイエス様は、「生け捕る」と言う言葉によって、ペテロが福音宣教を通して、人々を永遠に生すために「生け捕る」人となると、預言されたのだということが分かります。

この想像を絶する大漁に、肝をつぶしたのはシモンだけではありませんでした。仲間のヤコブもヨハネも肝をつぶしたのです。彼らもまたイエス様の中にまことの神様を見ることが出来たのです。彼らはもうイエス様から離れられなくなり、船を陸にあげると、何もかも捨てて、イエス様に従いました。彼らは、多くの人を永遠に生かすために生け捕るという、福音宣教の大事業に職業替えをし、前に向かって歩き出したからです。

この様に本日イエス様は、シモンを真の悔い改めに導くために、意図的にシモンの舟に乗り込み、その舟から群衆に向かって説教し、その説教を途中でやめて、シモンに沖に漕ぎ出させ、シモンに網を自発的に下ろさせ、今まで見たことも、聞いたこともないような、想像を絶する量の魚を捕らせました。この自分に起こった奇跡の経験を通して、シモンはイエス様の中に、真の神様を見、恐ろしさに震え、悔い改めて罪の赦しを求めました。イエス様は、快くシモンの罪を赦しただけでなく、今から後、人々を生かすために「生け捕る」人となると預言されました。それはシモンがまことの神様にお会いしたいという願望を持っていたからであると言えます。

この様に神様は、御自分を求める人を導かれます。その人がどのような人であろうと、その人に恐れを臨ませて悔い改めに導き、罪を赦し、人を生け捕る福音伝道者へと職業替えさせます。なぜならこの福音伝道者の仕事がこの世の中で最も素晴らしい仕事であるからです。使徒パウロはテモテへの第一の手紙3章1節でこのように言っています。「『人がもし監督の職につきたいと思うなら、それはすばらしい仕事を求めることである』という言葉は真実です。」ですから私たちも神様を尋ね求めましょう。神様を尋ね求める時、私たちは神様とお会いし、私たちの人生は初めて本物の価値ある人生と変えられるのです。皆さんが皆、牧師になるわけではありませんのでご安心ください。神様は私たち一人一人にご計画を持ち、それぞれ適した職業を用意されておられます。私たちの人生を、神様のために働く有意義な人生とさせていただきましょう。


人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi