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過去の説教 聖書箇所
2019年2月17日(日) ルカの福音書 6章17-26節

17 それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいた。

18 イエスの教えを聞き、また病気を直していただくために来た人々である。また、汚れた霊に悩まされていた人たちもいやされた。

19 群衆のだれもが何とかしてイエスにさわろうとしていた。大きな力がイエスから出て、すべての人をいやしたからである。


20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。

21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。
   
  いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。

22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。

23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。

24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。

25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
   
  いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。

26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。



(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年2月17日(日)  顕現後第六主日


天ではあなた方の報いは大きい     ルカの福音書6章17~26節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

先週は競泳の池江璃花子選手が急性白血病を発症されたというニュースで、日本中に衝撃が走りました。昨年のアジア大会で六つの金メダルを取った方ですから、無理もありません。有名な彼女が白血病にかかったということで、骨髄バンクのドナー登録者数が急増しているそうで、多くの人々が何とか力になりたいと願っていることが分かります。

また新潟アルビレックスに、白血病にかかりながらも骨髄移植を受けて回復し、現在サッカー選手として復帰している早川史哉という選手が居られるということも報道され、池江選手も元気で復帰できるかもしれないという希望が与えられました。

この池江選手の報道を契機に、山中教授のiPS細胞を用いた再生医療も白血病に有効であることが紹介され、難病を克服する道が複数示されていることは大変うれしいことです。

私と家内は毎晩夕食の前に、病にかかっておられる私たちの親戚の方々や知人の方々のために、一人一人名前を上げて癒されますようお祈りしております。そしてそれぞれの病を契機にして、癒し主であるイエス様を信じることができますようにと祈っております。

 

さて本日の聖書箇所の中で、イエス様は説教の前に、まず病気の方々を癒しておられます。痛み、苦しみを抱えて説教を聞いても、なかなか心に入らないことは確かであるからです。ところで17節を見ますと、不思議なことが書いてあります。17節を見てください。この様に書いてあります。「それから、イエスは、彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになったが、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海辺から来た大勢の民衆がそこにいた。」この文章を見ますと、イエス様が山から下りて平らな所に来ると、なんとそこに大勢の病人がいたと言うのです。これはあたかも、大勢の病人が今や遅しと、イエス様の降りて来られるのを待っていたかのような情景を思い浮かべます。ちょうど劇場に観客が詰めかけ、そのステージに本日の主役が登場するのを待っているような感じです。

主役のイエス様の登場を待ち望んでいたこの病人たちは、ユダヤ全土とエルサレムに住むユダヤ人、それに地中海に面したツロやシドンから来た外国人でした。この人々は、イエス様がどんな病気でも癒され、悪霊も追い出しておられると言う噂を聞き付け、自分一人で、あるいは家族の者や友達に支えられて、遠くの地からはるばる旅をしてきた人たちでした。この人たちがスマホもナビも無い時代に、どのようにしてイエス様の居場所を探り当てたのでしょうか。不思議な話です。イエス様がおられた山は、ありきたりの普通の山で、地名も番地もありませんでした。その山の上から、どうしてイエス様が自分たちの待っている所に確実に降りて来るということが、大群衆に分っていたのでしょうか。

この病人たちや病人を運んでいた人たちは癒し主イエス様を求めていましたから、イエス様の方で導いておられた可能性が有ります。そうでなければ、イエス様のおられる所に、東西南北から来る人々が正確に集まるなんてできるわけが有りません。私たちが信じる神様は私たち人間を創造されたお方ですから、私たちの心の内を良く読み取られるお方です。そしてご自分を求めている人を導かれるお方であることは確かです。

このことは、マタイの福音書2章をみますと良く分かります。イエス様は東方の国の博士たちに星を送って、ご自分を拝みに来なさいと招かれました。そして同じ星を用いて、エルサレムからベツレヘムの御自分がおられる家まで博士たちを導いたのです。同じようにして、星こそは使わなかったかもしれませんが、多くの人々の心の中にナビを与えてご自分の居場所を知らせ、全ての人々の心の中に、「ああ、あの山ね。」と言う思いを入れ、あたかも初めての道なのに良く知っている道を歩いている気持ちにさせ、前日の日没までに到着して待っているように指示されたのではないか、としか考えられません。

 

イエス様は御自分を待っていた群衆の中に入って行かれ、まず癒しの必要な人々が御自分の衣に手で触れるようにされました。ここで初めてイエス様は、病人の信仰を求められたのです。「イエス様の着物に触ることでもできれば、きっと治る。」(マタイ9:21)と言う信仰を求められたのです。マタイの福音書9章20節から22節に、12年の間長血、多分不正出血と思われますが、その病に悩んでいた女の人が登場します。彼女はイエス様の後ろに来て、イエス様の着物の房に触ったのです。「お着物に触ることでもできれば、きっと治る。」と心の内で考えていたからです。イエス様は後ろを振り向いて彼女に言われました。「しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」するとその女の人の不正出血は、その時から完全に直りました。

本日のルカの福音書19節を見ますと、「群衆のだれもが何とかしてイエスに触ろうとしていた。」と書いてあります。イエス様は病人の心に「イエス様の着物に触ることでもできれば、きっと治る。」と言う思いを入れ、病人から自発的に触らせたのです。ですからイエス様の着物に触った人は、直ちに癒されました。この様に説明すると、それは病人の自発性に任されたのではなくて、催眠術をかけて、本人の意思とは関係なく、無意識的に触らせたのではないですか、と言う疑問を抱く人が居ます。しかし聖書はこのように言います。ヘブル人への手紙12章2節です。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」イエス様は信仰の創始者であり、完成者なのです。イエス様が、神様を求める人々の心の中に、ご自分を信じる信仰を与えてくださり、病気が癒されるという奇跡体験を通して、心の中に与えられた信仰を完成してくださるのです。即ち、イエス様は神様なのだという確信を与えてくださるのです。それは誰も自分自身の力を誇らないためです。自分から信じたのだ、と言う思いを持たないようにするためです。もし自分から信仰を持ったという思いがあると、自分からその信仰を捨ててしまう可能性が有ります。人は導かれて神様の許に行くのであって、自分の力で神様を見つけるのではありません。人間には神様への道はわからないからです。もし皆様の中で、自分が信じたという思いを持っておられる方がおりましたら、それは聖書が示す道とは異なっていますので要注意です。

こうして、この山のふもとに集まった全ての病人が癒されました。汚れた霊に悩まされていた人たちも癒されました。19節に書いてある通りです。イエス様ってすごい医者ですね。脳卒中の人を癒して健康な体とし、盲人の目を開けて晴眼者とし、聾唖の人の耳と口を開いて会話ができるようにし、不妊の男の人や女の人の体を癒して子供を生めるようにし、ハンセン氏病を癒して元の体に戻し、躁鬱病や統語失調症を癒して明るい心を与え、あらゆる癌を癒して苦しみを取り除き、あしなえの人を歩けるようにし、パーキンソン氏病を癒し、その他、心と体のありとあらゆる病気を癒されました。イエス様の元に病気の癒しを求めて来たのに、イエス様から癒していただけなかった人は一人もいませんでした。

 

集まった全ての人々は、体と心の病が癒されると心に平安が訪れ、癒し主イエス様のお話が無性に聞きたくなります。体が悪かった時には何も聞きたくなかったのに、体が良くなると、心が空っぽなのに気付くのです。それでスポンジが水を吸い込むように、健康にされた人々の心はイエス様のお話を喜んで吸い込みました。イエス様は12弟子たちに向かって語られましたが、今癒された全ての人もイエス様の弟子となり、イエス様の言葉を聞いたのです。イエス様が霊的な心も与えてくださったからです。

イエス様は言われました。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」

イエス様が言われることは、物質的なことではなく、全て霊的なことです。神の国はこの地上の国とは違って、地上の財産を持って入ることはできません。丁度、私たちが死ぬと、全ての財産を残してこの世を去って行かなければならないのと同じです。しかしこの神の国は、私たちが生きている今入る場所です。20節には、「やがて入る」とは書いてありません。生きている今、入るのです。生きている今入っていなかったら、死んでから入ることが出来ると、誰が一体保証するのでしょうか。保証は誰もできません。この神の国に入るには、霊的に貧しくなることです。丁度、この世の貧乏人がこの世の金持ちに向かって、「お金を恵んでください」、とぺこぺこするように、自分は神の国に入る何の資格を持っていないから、無料で神の国に入れてください、と神様にぺこぺこしてお願いする人のことです。この人が入るのです。

「今飢えている者」とは、今食べ物が無くて、お腹を空かせている人ではありません。霊的に飢えている人のことです。一体、何に飢えているかと言うと、「義とされること」に飢えている人です。マタイの福音書5章6節を見てください。「義に飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるから。」と書いてあります。「義」とは、神様が裁判を行われる法廷で神様から「無罪」と宣言されることです。無罪と宣言されるために必要なことは、私たちの善い行いや罪滅ぼしではありません。この世における「善行や罪滅ぼし」は、霊的なことではなく、人間の一方的な思い込みにしか過ぎません。ですから善行をいくら積んでも、全く意味がないのです。神様が私たちに求めておられることは、「悔い改め」だけです。「私は罪にまみれた全くの罪人です。」と認めることです。この「悔い改め」と言う、自分を全否定する霊的な段階に至る迄には、時間がかかります。それで「やがてあなたがたは満ち足りるから。」とイエス様は言われるのです。神様から自分は正しいと認めてもらうには、その前に、自分に正しい所は一つも無い、「自分は神様を信じず、自尊心の塊でした。自分は全くの罪人です。」と、全否定の悔い改めが必要なのです。この悔い改めがなされた時、神様が「無罪」と宣言してくださるのです。「無罪」と宣言されると、「あなたは自分が義とされたことに、漸く満ち足りるのです。」

「いま泣く者」とは、一体何が原因で泣いているのでしょうか。神様は私たちに言われます。「お前は、私がしてはならないと命じたモーセの十戒を破っているではないか。人に対して腹を立てて殺人の罪を犯しているではないか。(マタイ5:22)また、情欲を抱いて異性を見たり(マタイ5:28)、不貞以外の罪で妻を離縁して(マタイ5:32)、姦淫の罪を犯しているではないか。ゆえにお前は死刑だ。」この様に神様から死刑の宣告を受けて、恐怖に打ち震えて、額を床につけて、さめざめと泣いている人です。するとこの人の前にイエス様が現れ、「わたしもあなたに罪を認めない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」(ヨハネ8:11)と宣言してくださるのです。するとあなたは罪赦(ゆる)されたことを知り、今度は大声を上げて喜びの涙を流すのです。

この様な、罪赦され、義とされ、神の国入る者とされた人、すなわちクリスチャンが行わなければならないことと、してはならないことが22節と26節に書いてあります。まず、クリスチャンがしてはならないことの方から行きますと、26節にあるように、この世の人に耳触りが良い言葉や、この世の人が喜ぶ言葉を言ってはならないことです。そうではなく、22節に書いてあるように、この世の人が憎む事を言うことです。例えば、私たち日本人には先祖礼拝が身に沁みついています。ですから「先祖礼拝をしても、先祖は私たちを守ってくれませんよ。」とはっきりと言うことです。これは耳触りが良くないので、この世の人はクリスチャンを憎み、あしざまにけなします。それにもめげずイエス・キリストを信じるように勧めるのです。最初はあまり信じる人が起こされませんが、熱心に信じるように勧めていくと、人は信じるようになるのです。エホバの証人はこの熱心さで多くの信者を獲得しています。クリスチャンはエホバの証人の熱心さを真似、彼ら以上に熱心に人々に信じるように勧めなければなりません。すると多くの人がイエス様を信じるようになり、何時の日か、神道関係者や仏教関係者がキリスト教を脅威と思い始めます。そうなると、彼らはイエス・キリストの故に、クリスチャンを憎むようになり、陰に陽に迫害を起こすようになります。この様な迫害が起こることが、イエス様の望みなのです。弟子たちが真剣になっているからです。イエス様は言われます。「その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。」

この様な喜びの日が何時来ることになるのでしょうか。私はこの「小針福音ルーテル教会」が、その「躍り上がって喜んでいる」人々の、中心集団であると信じております。その日は必ず来ます。なぜなら、昔も今もそして未来永劫に、生きて統治しておられるイエス・キリストを、私たちは信じているからです。この道のみが「天では私たちの報いは大きい」とさせる道であって、それ以外の道は、呪いの道となります。

 

わたしたちがおどりあがって喜ぶようになるために必要なことは、なんと言ってもまず、罪からくる報酬は死であることを認識し、恐怖に打ち震え、罪の赦しを神様に求めることです。そうすると、目の前にイエス様が現れ、「わたしもあなたを罪に定めない。」と宣言してくださいます。罪の赦し、これが第一番目の喜びです。イエス様と会うことができ、罪赦され、義とされ、神の国に入る者とされたからです。そしてイエス様にお願いして病気を癒していただくのです。健康が与えられること、これが第二番目の喜びです。その健康な体で、思い切りイエス・キリストを宣べ伝えるのです。この御方を信じれば罪赦されると宣べ伝えるのです。真剣になって、かつしつこく述べ伝えることです。これを地道に行うと、いつの日か、世の人々の反感を買うようになります。この日が来ることをイエス様は望んでいます。このイエス様の望みをかなえることが私たちの第三番目の喜びとなるのです。なぜならイエス様が私たちにこのように宣言してくださるからです。「天ではあなた方の報いは大きい。」このように天国でイエス様から宣言していただく日を楽しみにして、イエス様第一の生活を送らせていただきましょう。


人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi