2019年2月24日(日) 顕現後第七主日
「ただ、自分の敵を愛しなさい」 ルカの福音書6章27~38節
牧師 若林學
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
本日の説教題「ただ、自分の敵を愛しなさい」からすぐ思い出される故事は、「敵に塩を送る」と言う言葉でございます。この言葉は日本の戦国時代、信濃の武田信玄が遠江(とうとうみ)の今川と相模の北条の両氏から経済封鎖をされ、塩不足で困り果てていた時、長年敵対関係にあった越後の上杉謙信が武田信玄に塩を送って助けた、という話に基づきます。この時、上杉謙信は武田信玄に無償で塩を送ったのではなく、相手の弱みに付け込んで通常よりも高値で売って儲けたとも言われています。けれども武田信玄は上杉謙信に太刀一振りを贈っております。弱みに付け込まれて高値で塩を売りつけられたとはいえ、窮地を救われたことには変わりなく、それはそれ、これはこれとはっきりと切り分けて、感謝の意を表したことは立派であります。しかしこの時、もし上杉謙信が義を重んじる戦国武士道を発揮して、無償で塩を武田信玄に贈っていたとしたら、歴史はまた違ったものになっていたことは想像に難くありません。きっと信濃の国と越後の国とは、今に至るまで、切っても切れない友好関係になっていたのではないかと、想像されるわけであります。
上杉謙信は商売の好機と見て、武田に塩を高値で売りつけたのですが、本日の聖書箇所でイエス様は、損得抜きで行いなさいと命じております。すなわち「ただ、自分の敵を愛しなさい」と言われます。しかしこの自分の敵を愛することほど、私たち人間にとって、難しいことはありません。難しいというよりは、基本的にできないことをイエス様は「しなさい。」と言っておられます。
というのは、敵と言うものは本来、憎いから敵であって、決して愛する味方ではないからです。その味方ではない敵を愛することは、もはやその敵は憎い敵ではなく、愛する味方である、ということを意味しています。そうすると、この「ただ、自分の敵を愛しなさい」というイエス様の命令は、「この世に憎い敵と言うものがあってはならない。全ての人を、愛する味方にしなさい。」と命じておられると受け取らなければならないことを意味しております。
この世に敵がいなくなり、全ての人が自分の味方になるなんて、どうしたらできるのでしょうか。もしできるものならば、いじめは無くなるし、夫婦喧嘩は無くなるし、強盗も殺人も無くなるし、暴力事件や戦争もなくなります。地獄と言うこの世は即天国となります。でも、この世はこの世であって、決して天国ではありません。この世は、この世の終わりの日まで、この世であり続けるのです。なぜなら神様がこの世を造られたからです。神様が造られた物を、人間が勝手に変えることができません。
しかし、この醜い世の中に、イエス・キリストと呼ばれる神様がかつておられたということは、この世にかつて天国が存在したことを表しています。しかし、「かつて」だけでしょうか。イエス様はマタイの福音書18章20節で言われました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」二人でも三人でも、イエス様のお名前で集まるところにはイエス様もおられると、イエス様御自身が言われるのです。例えば私と妻は二人ともクリスチャンです。朝、昼、晩の食事の時は、二人でイエス様の御名を通してお祈りします。その時私たち夫婦と共にイエス様がおられると言われるのです。私たちだけでなく、どのクリスチャン夫婦でも、またどのクリスチャンの集いでも、イエス様のお名前で集まる所には、イエス様もおられると言われるのです。ですから、今、この礼拝中にもイエス様も一緒におられる、と言われるのです。イエス様のおられる所、そこは天国です。ですから、天国は今でもこの世に存在しているのです。
しかし問題は、その天国がこの世を満たすまでに至っていないことです。満たすまでに至っていないいどころか、日本ではスカスカです。そこでイエス様は言われました。27節から31節です。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」
今イエス様が話をしておられる「あなた方」とは、12弟子たちと、エルサレムやユダヤ全土から集まって来た弟子たちと、不治の病を癒していただいた病人たちからなる大集団でした。彼らは皆、イエス様を神様として信じた人たちでした。すなわち私たちと同じクリスチャンだったのです。
そのクリスチャンたちにイエス様は言われました。「あなたの敵を愛しなさい。」愛するとは心の状態です。愛することの反対は、先ほど申しましたように、憎むことです。憎む事も心の状態です。その憎むことが具体的に行動として現れるのが、28節から30節に書いてある五つの行為です。「のろう」、「侮辱する」、「ほほを打つ」、「上着を奪い取る」、そして「物を求める」ことです。そのような憎む人に対して「善を行いなさい」とイエス様は言われました。五つの善です。「呪う者を祝福する」、「侮辱するものために祈る」、「頬を打つ者にはほかの頬も向ける」、「上着を奪い取る者には、下着もあげる」、「求める者には与える」。
でも五つの憎む行為に対して五つの善では十分ではありません。憎しみに対しては、それを上回る愛が必要です。溢れるばかりの愛があって、人は初めてその愛が本物であることが分かるのです。どのような愛の行為が必要なのかイエス様は付け加えられました。30節と31節に一つずつあります。「奪い取る者から取り戻さない」こと、そして「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにする」ことです。この二つの善が加わることによって、愛が本物となるのです。
さて、イエス様はなぜ敵を愛さなければならないのか、その理由を35節で述べられました。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」ですから、もしクリスチャンが、「呪う者を祝福し」、「侮辱するものために祈り」、「頬を打つ者には、ほかの頬も向け」、「上着を奪い取る者には、下着もあげ」、「求める者には与え」「奪い取る者から取り戻さず」、そして「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにする」という合計七つの善を実行する時、その人はいと高き方の子供であると、イエス様は言われます。それは、私たちクリスチャンがこの世の人のできないことを当然のことのようにするからです。
イエス様の目的は、36節に書いて有りますように、「天の父なる神様が憐れみ深いように、私たちクリスチャンも憐れみ深くなるためです。」憐れみ深いという言葉の意味が37節と38節に書いてあります。憐れみ深いとは、即ち、「人を裁かず、罪に定めず、赦(ゆる)し、そして与える」ことです。これは現在の父なる神様の姿勢であり、御子イエス様の姿勢でもあります。
御子イエス様はヨハネの福音書3章17節で父なる神様の姿勢をこのように言われます。「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」父なる神様は、現在、人々を裁くためでも、人々を罪に定めるためでもなく、世を救うために尽力してくださっておられる、と言われるのです。
御子イエス様は同じくヨハネの福音書12章47節で、御自分の姿勢をこのように言っておられます。「誰かが、私の言うことを聞いてそれを守らなくても、私はその人を裁きません。私は世を裁くために来たのではなく、世を救うために来たからです。」御子イエス様も、この世を裁くために来たのではなく、この世を救うために来たと言われます。
ですから、私たちクリスチャン全てに望まれている、憐れみ深さとは、父なる神様と御子イエス様がそうであるように、人を裁かず、人を罪に定めず、かえって人を赦し、人々に福音を宣べ伝え、人々をイエス様のもとに導き、救われるよう働くことです。この様に働く人が、憐れみ深い人となります。
憐れみ深い人のもう一つの特徴は、豊かに与える人であることす。私はこの豊かに与える人から程遠い人だなあと、自分の鷹揚でない性格、けちな性格に自分ながらがっかりしております。昨年の夏のある日の午前中、一人の青年が当教会に立ち寄り、これから島根まで歩いていくので、飲み物と少しばかりのお金を恵んで欲しい、と求められました。家内と相談して軽食を出し、飲み物を上げました。しかしお金は、渡しませんでした。今から思うと、千円でも渡せばよかったなと後悔しております。ですから残念ながら私は「人々が量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれる」と言うことを期待はできません。イエス様が「あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」とおっしゃっておられるからです。
このイエス様の最後の言葉から、「自分の敵を愛するのも、人に情け深くするのも、人に良くしてあげるのも、」全ていつの日か、自分に返ってくることになるからである、ということが分かります。求める人々に豊かに与えたからと言って、決して貧しくなるわけではありません。与えてくださった神様がその人の後ろについていてくださるからです。私たちの財産は全て神様が与えてくださったものです。自分で稼いだのかもしれないけれど、基本的に神様が与えてくださいました。神様は多く与える人の後ろに立っておられます。その人がさらに多く与えるためであり、その人を通して神様の御名がほめたたえられるためです。しかし、神様が与えてくださったものを人に与えず、抱え込む人の所には、神様はそれ以上与えることができず、その人の後ろにいる理由がなくなってしまいます。
ですから、35節にあるイエス様のお言葉、「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。」をもう一度心に留め、ただ、自分の敵を愛する者となりましょう。そして、私たちクリスチャンを通して、一人でも多くの人がイエス様のもとに導かれ、救われることを祈りましょう。
人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
©2019 Rev. Manabu Wakabayashi
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