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過去の説教 聖書箇所
2019年3月6日(水) マタイの福音書 6章1-6, 16-21節

 1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

 2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

 16 断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

17 しかし、あなたが断食するときには、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。

18 それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が報いてくださいます。

 19 自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。

20 自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
21 あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年3月6日(水)  灰の水曜日


人に見せるために義を行わない     マタイの福音書6章1~6、16~21節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

日本は自然災害の多い国ですので、昔からお互いに助け合って、乗り越えて来たのではないかと推察されます。三陸地方ではしばしば大津波に襲われてきた経験から、津波の到達した場所に石碑が建てられ、そこから海岸までは、住むことが危険であることを知らせていました。しかし「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のことわざの通り、便利さには代えがたく、海岸近くに住むようになり、被災するということを繰り返してきました。このことは、地震による山崩れでも、火山噴火でも、洪水でも同じです。人は同じ過ちを犯してしまいます。

被災して困っている人々を目の前にして「自業自得」と切り捨てるのは簡単ですが、放っておけないのも人情です。近年はテレビやラジオのニュースだけでなく、インターネットを通して被災地の惨状を見ることができ、多くの人の心を掻き立て、ボランティアとして奉仕するようになりました。日本全国から大勢の人が集まって来るので、被災地ではすぐには受け入れ態勢が整わず、混乱もしばしば起こってしまっております。しかし人数に物を言わせて、重機の入れない狭い小路の奥の家から、泥水を含んでさらに重くなった畳や泥まみれの家財を運び出してくださることは、ボランティアでなければできません。被災地の方々はどんなに助かったことでしょうか。

8年前の東日本大震災の時は、妻の実家も床上浸水し、畳が全て泥だらけになりました。乾いた畳なら一人でも何とか持てますが、水を含んだ畳は重く、二人以上で持たないと運び出せません。この時ほどボランティアの助けに感謝したことは無い、と妻の母が話していたのを、妻は私に話してくれました。

また日本は物質的に豊かな国に見えますが、光の当たらない社会の片隅には、日々の生活に困る人々が大勢います。中には生活保護を受けている母子家庭とか、養護施設にいる子供たちもいます。その子供たちは、両親が居ないとか、両親を知らない子供たちです。こういう子供たちに匿名でランドセルを贈るという人が現れ、新聞をにぎわしました。

これ等の例だけでなく、日常的に慈善活動している人たちは多く居ます。ホームレスの人たちに生活保護やアパート申請を手伝ったり、病院に付き添って行ったりする人々、消費期限の迫った食料を集めて、貧しい家庭に配る人々、等々、様々な方々が数々のボランティア活動に携わっておられます。

この様なボランティアや慈善行為は素晴らしいことで、助けを待っている人には大きな光です。

 

しかしクリスチャンがボランティアや慈善行為をする時、注意しなければならないことは、本日の聖書箇所の6章第1節の前半です。私共が今用いている新改訳聖書第二版や第三版で、イエス様はこの様に言われました。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」この御言葉は本日の聖書箇所全体を要約していますので、特に注目しなければならない御言葉です。そこで原文のギリシャ語聖書をみますと、この様に書いてあります。「人々に見られるために、彼らの前であなたがたの義を行わないように気を付けなさい。」このギリシャ語聖書と日本語訳聖書の違いは、「義」と言うギリシャ語が「善行」という日本語に翻訳されていることです。「義を行わないように」と言っても、抽象的なので、読者に意味不明と判断され、「善行」と意訳されたのでしょう。しかし、1954年改訳の口語訳聖書は、ギリシャ語聖書通りに翻訳しています。「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。」

 

「義を行う」とはどのようなことを言うのでしょうか。その具体例をイエス様は本日の聖書箇所で4つ取り上げています。2節で「施し」、5節で「祈り」、16節で「断食」、19節で「宝を蓄える」、の4つです。まず施しと言う義を行うためにはどのようにしたらよいのでしょうか。イエス様は「人々から見られるために、義を行わないようにしなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から、報いが受けられません。」と言われました。この御言葉は「義を行わないようにしなさい。そうでないと・・・報いが受けられません。」と、初めと終りが否定の言葉で書かれていますから、始めも終わりも肯定の言葉に言い変えればよいと分かります。肯定の言葉に変えるとこの様になります。「天の父から見られるために、義を行ないなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられます。」

2節も否定の言葉で書かれていますから、同じ様に肯定の言葉に書き直すとこの様になります。「だから、施しをするときには、天におられる父に褒められたくて、誰にも見られないようにこっそりと行うのです。」このことが書いてあるのが3節です。右手とは行(おこな)っているあなたであり、左手とはこの世の人々です。明るいところなら、右手がしていることを左手が分かりますが、真っ暗であったら、右手が何をしているのか、左手にはわかりません。4節はまさにこのことを言っています。「あなたの施しが隠れているためです。」施しは、誰にも見られないようにこっそり行う。これがイエス様の言わんとすることであり、秘訣です。

「伊達直人」という名義で恵まれない子供たちにランドセルを贈ってあげた無名の人は、この秘訣を知っていたクリスチャンであったのかもしれません。先ほど「天の父に見られるために義を行ないなさい。」と言い換えましたが、この言い換えから、イエス様は、クリスチャンにこの施しの義の行為を、きちんきちんと行うことを期待されているように読み取れます。施しは、クリスチャンの信仰を表す善い行いの一つであることは、間違いありません。使徒パウロもテモテへの第一の手紙6章18節でこのように教えています。「また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」

 

施しに引き続いて2番目の義の行いは「祈り」です。祈りの相手は父なる神様であり、御子イエス様であり、聖霊様です。私たちが祈る時に、呼びかける言葉がそれを表しています。私たちが「主よ。」と呼びかける時は、たいてい御子イエス様に向かって祈っています。「聖霊様」と呼びかける祈りはあまりありませんね。でも私たちは父、御子、御霊の三位一体の神様を信じていますから、「聖霊様。助けてください。」と祈っても問題ありません。父なる神様も神様であり、御子イエス様も神様であり、聖霊様も神様です。聖霊様は別名「助け主」とも呼ばれ、信仰者であるクリスチャンを助けてくださるお方です。

祈る時に大切なことは、祈りの場所です。イエス様は言われます。「祈る時には自分の奥まった部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所におられる父に祈りなさい。」しかしこれは神殿で祈ったり、教会で祈ったりすることを妨げるものではありません。大切なことは、祈っていることが人に見られないようにしなさいということで、誰にも分らないように、こっそりと祈りなさい、と言うことです。

そして今度はイエス様が「隠れた所におられる父に祈りなさい。」とはっきり私たちに命じられています。このはっきりした御命令から、イエス様は私たちに、祈りも積極的になされることを期待しておられることが分かります。使徒パウロも私たちに命じました。テサロニケ人への第一の手紙5章17節です。「絶えず祈りなさい。」積極的に絶えず祈りましょう。

 

施し、祈り、に続いて3番目の義の行いは「断食」です。ユダヤ人は年に一回断食をすることが求められました。その日は7月10日に行われる贖罪の日です。罪を贖う日です。レビ記23章27節に規定されてあります。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。」この言葉の中の「あなたがたは身を戒めて」と言う言葉が、断食を求めている言葉です。ところが、ユダヤ人の中の厳格な律法主義集団であるパリサイ人は、毎週木曜日と月曜日に断食をしていました。というのは、モーセは出エジプト記19章23節でこの様に言っています。「民はシナイ山に登ることはできません。あなたが私たちを戒められて、『山の回りに境を設け、それを聖なる地とせよ』と仰せられたからです。」木曜日とはモーセが十戒の板を受け取るためにシナイ山に上った日で、月曜日とは山から下りてきた日です。この様にパリサイ人は、自分たちの信心深さを示そうと、これ見よがしに断食をしていたかが分かります。

しかし断食もまた父なる神様に見られるために行わなければならないことが18節からわかります。18節にはこのように書いてあります。「それは、断食していることが、人には見られないで、隠れた所におられるあなたの父に見られるためです。」ですから頭に油を塗り、顔を洗うのです。私は東京目黒にある聖契神学校に通っていた時、「今、断食をしています。」と言う神学生に会ったことが有ります。その方は断食することを自慢するために私に打ち明けたのではありません。私が親しく話しかけたので、会話の中で明かしてくれました。その神学生は顔がつやつやしていて、本当に断食しているのかな、と思われるほどでした。それにしてもよく断食できるものだと感心しました。私は断食をしたことがないので、その苦しみは分かりません。イエス様が「断食をしなさい。」と命じてはおられないことに感謝しています。

 

そして四番目は「宝を蓄える義の行い」です。イエス様は20節でこの様に私たちに命じておられます。「自分の宝は、天に蓄えなさい。」確かにこの世で得たこの宝を楽しむことのできる期間はこの世に生きている期間だけです。立派な家を建て、高級な家具に囲まれ、安楽に過ごしたとしても、時が来れば、私たちはこの世を去らなければなりません。後継ぎがいなければ、せっかく建てた家は自分一代で終わりです。私たちはクリスマスのチラシ配りで、教会を中心として多くの家々を回りましたが、この地区は結構空き家が目立ちました。蓄えた宝は子供たちが持っていくとしても、空き家を見るとむなしさが残ります。

ですからイエス様は「自分の宝は天に蓄えなさい。」と言われました。この宝とは何でしょうか。それは父なる神様が与えてくださる報い、即ち報酬です。第1節で言い換えましたように、「天の父に見せるために義を行なった」結果、「天におられる私たち方の父から受けた報い」です。施しをするときには、天におられる父に褒められたくて、誰にも見られないようにこっそりと行った結果、天の銀行に蓄えられた報酬であり、誰にも分らないように、こっそりと祈った結果、天の銀行に蓄えられた報酬であり、顔を洗い、頭に油を塗って、人に分からないようにして断食をした結果、天の銀行に蓄えられた報酬です。しかしイエス様はまた、「自分の宝は天に蓄えなさい。」と言われました。これは命令形です。即ちイエス様は、積極的に天に宝を蓄えなさいと言われたのです。つまり「天に宝を蓄えることを目的とせよ」と言われるのです。ですから天に宝を蓄えること自体が義なる行いなのです。なぜなら、21節でイエス様が言われるように、「私たちの宝のある所に、私たちの心が有るからです。」

私たちはこの世で働いて生活の糧を得て暮らしますが、その働き方が大切なのです。いつも喜んで仕事をしていますか?絶えず祈って仕事をしていますか?全ての事に感謝して仕事をしていますか?この様に私たちの意識がこの世だけに向いているのか、それとも父なる神様に向いているのかによって、成果が大きく異なってきます。もし私たちが、この世の仕事はこの世の仕事と割り切って、信仰と切り離して行っていたとしたら、それはもったいないことです。あなたの仕事に神様の助けがないからです。そのあなたの仕事の出来具合は、普通でしょう。その結果、給料が上がりますか?しかし、この世の仕事を、喜びつつ、祈りつつ、感謝しつつ行ったとしたらどうなるでしょうか。神様が助けてくださるので、出来栄えが違うのではないでしょうか。そうすると給料は上がる可能性が有ります。それだけでなく、天の銀行にカシャ、カシャとあなたの宝が蓄えられていくのです。この様に自分の宝が天の銀行にカシャ、カシャと蓄えられていくのを楽しみして義の行いをしなさいと、イエス様は言われるのです。

 

ですから、私たちは「父なる神様から見られるために、義を行う」のです。何をするにも父なる神様から見られるために、おこなうのです。この世の仕事は何であれ、神様から見られるために行う時、出来栄えは異なり、光り輝き、おまけに天に宝を蓄えることになります。これがクリスチャンの特権であり、クリスチャンにしかできないことです。私たちは、いつも着実に天に宝が積まれていくことを楽しみにしながらこの世を送らせていただきましょう。


人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi