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過去の説教 聖書箇所
2019年3月17日(日) ルカの福音書 13章31-35節

31 ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエスに言った。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」

32 イエスは言われた。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。

33 だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』

34 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。

35 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年3月17日(日)  四旬節第二主日


「あなた方の家はあなた方に残される     ルカの福音書13章31~35節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

四旬節第一週の先週、救い主の任務に就かれたイエス様の第一番目の仕事は悪魔の試みに遭われることでした。この悪魔の試みに遭われることによって、私たちクリスチャンに御言葉をもって戦う手本を示されました。悪魔を退散させるためには、御言葉以外に方法は無いと言われるのです。御言葉こそが悪魔と戦う武器であることを示され、日頃からみ言葉を蓄えること、即ち覚えることを暗に示されました。皆さん御言葉を覚えましょう。御言葉を覚えることは、悪魔と戦う武器となるだけでなく、私達の内なる霊の糧となるのです。御言葉はイエス・キリストそのものです。御言葉を覚えることは、イエス様を私たちの体の中に宿すことを意味しています。私達がみ言葉を覚えれば覚えるほど、イエス様の体が私達の中にはっきりとした形をとって、現れて来ます。使徒パウロはガラテヤ人への手紙2章20節で言われました。有名な御言葉です。「私はキリストと共に十字架に付けられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです。」

そして四旬節第二主日の本日、イエス様とその弟子たちの一行はエルサレムを目指して進んでいました。13章22節を見ますと、この様に書いてあります。「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。」そして本日の聖書箇所31節を見ますと、何処におられるのかが分かります。「丁度その時、何人かのパリサイ人が近寄ってきて、イエスに言った。『ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。』」とあります。このパリサイ人達の言葉から、イエス様とその一行は、ヘロデ・アンティパス王の治める領地の中を旅していたことが分かります。ヘロデ・アンティパス王の領地は二つありまして、一つは北にあるガリラヤ湖の東側の領地、もう一つは南にあるヨルダン川の東側の領地です。31節の言葉から、イエス様の一行はヨルダン川の東側にある道を北から南に向かって南下し、ヘロデ・アンティパス王の領地に入り、エリコに面するヨルダン川の渡し場を渡るルートをエルサレムに向かって歩いていたとおもわれます。

 

そのイエス様に向かってヘロデ・アンティパス王はパリサイ人たちを用いて、自分の領地から離れるように脅しました。多分、自分の民衆と接触して、影響を与えて欲しくなかったのでしょう。しかしイエス様は神様ですから、人間であるヘロデ王の脅しや、パリサイ人らの悪巧みによって、御自分の行動を変更する方ではありません。ですからイエス様はそのパリサイ人たちに言われました。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。私は、今日と、明日とは、悪霊どもを追い出し、病人を癒し、三日目に全うされます。だが、私は、今日も明日も次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』」

イエス様がヘロデ・アンティパス王を狐呼ばわりされたのは、王が、兄弟ピリポの妻ヘロデヤと道ならぬ恋をして、夫ピリポが健在なのに、こっそりと自分の妻としたことを指していると思われます。その陰険でずる賢いヘロデ・アンティパス王に言いなさいと言われました。「ヘロデよ。あなたは私が何をしているのかよく見なさい。あなたは私の奇跡を見たいと願っていました。その通り私は、今日も明日も、悪霊どもを追い出す奇跡を行い、病気の人を癒す奇跡を行っています。それはあなたも、あなたの民も、私を信じるため、私を信じて永遠の命を持つためです。それは私があなたと多くの人々のために自分の命を身代わりとするからです。ですから私は、多くの人を救うという、私の使命を果たすために、今日も明日も次の日も、エルサレム目指して進んでゆかなければなりません。なぜなら、預言者である私がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからです。」

イエス様は御自分がエルサレムで十字架に掛かって死ぬことを預言して「三日目に全うされる」と言われました。前にもお話ししたことがありますが、私が牧師となる道を選ぶきっかけとなった言葉があります。それは私の主治医から告げられた言葉です。主治医は私に向かって言いました。「若林さん。あなたの現在の心臓のままでは天寿を全うできません。心臓手術をお勧めします。」わたしはこの主治医の言葉に、はっとさせられました。主治医は私に、「長生きできません。」とは言いませんでした。「天寿を全うできない。」と言われたのです。天寿というのは、神様から授かった寿命という意味です。この言葉を告げられた時の私の年齢は40歳でした。クリスチャンとなって10年目の事でした。その私にとってこの「天寿」という言葉は、私に何か厳かなものを感じさせ、私自身が神様の御前に引き出されたような思いを抱かせました。そして続いて言われた言葉「心臓手術」と聞いた時、私は神様から「死刑」という宣告を受けたような恐怖に襲われたのです。その結果、罪を悔い改めるという機会に導かれました。私はこの自分の経験を通して、悔い改める機会をも神様が用意してくださるのだと確信しましたのです。ですから私たちができることは、神様を求めることだけです。

 

ところでなぜイエス様はエルサレム目指して進んでいかなければならなかったのでしょうか。何故、預言者イエス様がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得なかったのでしょうか。それはイエス様が、エルサレム神殿をご自分の父の家であり、御自分の体であると、みなしていたからであると考えられます。

ルカの福音書2章41節から51節には、12歳になられたイエス様が両親に連れられてエルサレムに行き、過ぎ越しの祭りを過ごされる場面が有ります。この時、イエス様は神殿に残り、教師たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしていました。その様子を見た母親のマリヤさんはイエス様を叱って言いました。「父上も私も、心配してあなたを捜しまわっていたのです。」するとイエス様が答えられたのです。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」この御言葉からエルサレムは、イエス様にとってご自分の父なる神様の家のある場所であり、御自分も必ずその家にいる者であったからと言えます。

またイエス様は救い主に就任された最初の年に、過ぎ越しの祭りに参加され、エルサレム神殿で生贄の動物を売る商人たちや両替商たちを追い出して、宮清めをされています。この宮清めに異議を唱えたユダヤ人たちに対して、イエス様はこのように答えています。ヨハネの福音書2章19節です。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」このイエス様の言葉から、ご自分の体がエルサレム神殿であると言われました。

このエルサレム神殿とイエス様の体の関係をヘブル人への手紙の著者はこのように解説しています。ヘブル人への手紙 9章12節です。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」エルサレム神殿の中にある至聖所には、大祭司が年に一度、血を携えて入り、自分のために、また民が知らずに犯した罪のために、その血を金の香壇の角に塗り、罪の贖いをしていました。(出エジプト30:10)つまりイエス様の十字架は「まことの聖所」というエルサレム神殿の至聖所であり、その十字架上でご自分の血を流すことにより、その御自分の血を金の香壇の角に塗り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。ですから、イエス様が十字架上で息を引き取られた時、聖所と至聖所を分けていた隔ての幕が、上から下へと真二つに引き裂かれ、年に一度行われていたこの罪の贖いの儀式が強制終了させられたのです。(マタイ27:51)

 

このように、エルサレム神殿の機能を終了させるために、イエス様御自身がエルサレムで十字架に掛かる必要があったのです。しかし本日の聖書箇所の34節を見ますと、この様にイエス様は言われます。「それなのに、あなた方はそれを好まなかった。」ユダヤ人はイエス様の教えや、やり方が気に入らなかったようです。何故でしょうか。元ユダヤ教の熱狂的信者であった使徒パウロはローマ人への手紙9章32節でこのように言っています。「信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。」

ユダヤ人は律法を「見える化」しました。律法を目に見えるように細分化して、その細分化された一つ一つを行いで守ろうとしたのです。しかし律法とは霊的なものです。使徒パウロがローマ人への手紙ローマ 7章14節でこのように言っています。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。」律法は霊的なものですから、信じて行わなかったら、単なる形式になってしまい、律法を守ったことにはならないのです。行いによって義を求めているユダヤ人にとって、これは気に入りませんでした。イエス様から二千年後の今に至るまで、ユダヤ人は行いによって義を求めています。この姿は、良い行いを積んで罪滅ぼしをしようする異邦人と少しも違うところはありません。

ですからイエス様は、行いによって義を求める態度を変えようとしないユダヤ人に対して言われました。「あなた方の家は荒れ果てたままに残される。」この35節の翻訳は、「思いやり翻訳」です。「思いやり翻訳」とは読者に理解が難しいと思われる原文の文章に言葉を加えて、わかりやすい文章に翻訳することです。原文のギリシャ語聖書には、「あなた方の家はあなた方に残される。」としか書いてありません。これでは何のことか分らないので、「あなた方」を「荒れ果てたまま」と言い換えたのです。翻訳者の思いやりです。マタイの福音書 23章38節「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。」から持って来たと思われます。

それでは「あなた方の家はあなた方に残される。」とはどのような意味でしょうか。それは後半の言葉から説明されます。イエス様は言われます。「わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」この『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とはイエス様が、ロバの子に乗られてエルサレム入城をされた時に、弟子たちの群れが叫んだ言葉です。でも弟子たちは、なぜ自分たちがこの言葉を叫んでいるのか、わからなかったと言っています。(ヨハネ12:16)つまり、神様が弟子たちに叫ばせていた言葉であると言うのです。つまりイエス様を信じる者に神様が働いて、心から叫ばせている言葉です。そのように、ユダヤ人たちがイエス様と信じるようになると、イエス様はユダヤ人の所に来られますが、そうでなければイエス様は来られないという意味です。ですから、「あなた方の家はあなた方に残される。」とは、「私を信じないユダヤ人よ、私はあなた方が後生大事にしている神殿から去り、神の居ないその神殿はあなた方に残される。」と言う意味です。

私と妻とは6年前エルサレムを訪れましたが、はっきり言って、神様はお留守であると感じました。ユダヤ教の神殿は西暦70年にローマ軍によって破壊された状態のまま、再建されていません。神殿跡には金のドームの屋根を持つイスラム教の建物が建ち、現在ユダヤ教徒はもちろんのこと、イスラム教徒でない人は入ることができません。ユダヤ人は、残された神殿の西の壁に向かって祈ることが許されているだけでした。  

 

このように、神様を求めない人、イエス・キリストを信じようとしない人には、目に見える物、即ち偶像や偶像の宮しか与えられません。ユダヤ人には二千年前に破壊された神殿跡しか残されていないように、そこには神様がおられません。しかし私たちが「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と言うようになればイエス様は私達と共におられます。父なる神様がそのように叫ばせてくださるからです。ですから私たちはまず神様を求めましょう。そうすれば神様が私達を導いて、イエス様を信じるようにしてくださいます。そして「祝福あれ。主の御名によって来られる方に。」と叫ばせてくださいます。さらにその人の中にイエス様が住まわれるようになり、神様の器として用いてくださり、良き実を結ぶ人生としてくださいます。



人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi