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過去の説教 聖書箇所
2019年3月24日(水) ルカの福音書 13章1-9節


 1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

6 イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

7 そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

8 番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」


(新改訳聖書第3版


過去の説教 全文

2019年3月24日(日)  四旬節第三主日


悔い改めないなら滅びる     ルカの福音書13章1~9節


牧師 若林學      

 
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

1989年1月から始まった平成時代も、あと一か月余りとなりました。4月30日で、今上天皇が退位されて、平成時代は終わります。この30年間続いた平成時代の「平成」とは、「国の内外、天地とも平和が達成される」という意味であるそうです。その名の如く、日本は戦争のない平和の時代でした。

今上天皇であられる明仁(あきひと)天皇が昨年12月、誕生日に際して述べられた御言葉の中に、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに,心から安堵しています。」と言う御言葉に、私は心を打たれました。先代の昭和天皇の統治下で行われた悲惨な戦争を、少年時代に経験され、その天皇の息子として成長された明仁天皇にとって、その心に戦争の暗い影が色濃く刻印されていたことは、想像に難くありません。この太平洋戦争で亡くなった日本人は、軍人と民間人併せて262万人から312万人と言われています。とてつもない数の日本人が、わずか4年間の戦争で亡くなっています。戦争で人が無くなることは、人災以外の何物でもないと私は考えています。戦後に即位された明仁天皇は国民の象徴として、多くの戦死者を生んだこの負の遺産を少しでも返済しようと、沖縄訪問、慰霊のための戦跡訪問、被災地の訪問等を続けて来られたのだと推察しております。

 

さて本日の聖書箇所には二つの災害が記されています。一つは総督ポンテオ・ピラトによるガリラヤ人の殺害と言う人災、もう一つはシロアムの塔が倒れて18人の人が亡くなった自然災害です。

イエス様の公生涯の3年間、エルサレムを中心とするユダヤとサマリヤ地方は、ローマ行政長官の支配領で、総督ピラトが治めていました。その異邦人の総督ピラトが、なぜローマの兵隊を引き連れて神殿に乱入したのか、その理由は記されていません。一節によると、ピラトは、ユダヤ人たちを痛めつけることに喜びを感じていたようである、と言われています。多くの総督たちが困難で殺伐としたユダヤのような遠隔地への任務を嫌った中にあって、ピラトがユダヤに赴任することを受け入れたのは、何か受け入れなければならなかった理由があったのでしょう。それでその憂さ晴らしとして、ユダヤ人を痛めつける、ということをしていたのかもしれません。

ピラトが神殿でガリラヤ人を殺害したのもやはり、その憂さ晴らしの一つだったと思われます。神殿の前庭には大きな祭壇と、祭司たちが身を清めるため青銅の洗盤が有り、通常祭司だけが入ることが許されていました。しかし、全焼の生贄や罪のための生贄を捧げる一般のユダヤ人も、捧げる生贄の頭に手を置くために、神殿の前庭に入ることが許されました。けれどもユダヤ人でない異邦人は決して入ってはならなかったのです。その一般のユダヤ人たちであるガリラヤ人たちが、祭司と共に全焼の生贄を捧げる儀式(レビ1:3)、あるいは罪のための生贄を捧げる儀式(レビ4:4)をしていた時に、決して入ってはならないはずの異邦人の総督ピラトが、ローマ人の兵士を引き連れて神殿の前庭まで入り、ガリラヤ人たちを殺し、そのガリラヤ人たちの血を彼らの捧げる生贄に混ぜたのです。この様にして総督ピラトは、ユダヤ人の神聖な権利を残酷なまでに踏みにじりました。

しかしこの話の核心は、事件の原因が、事件を引き起こしたピラトにあったのではなく、その様な災難が降りかかったガリラヤ人たちに問題があった、と見られていたことです。ガリラヤ人たちが何か大きな罪を犯したので、その様な大きな災難が罰として降りかかったのではないか、というのです。この様に受けた罰の大きさから推測して、罪の大きさを評価するやり方は人間的な見方です。罰が大きければ大きいほど、犯した罪は大きいと推測する見方です。

しかしイエス様は言われました。「そうではない。」ガリラヤ人たちが殺されたのは、他のどのガリラヤ人よりも罪深かったからではなく、悔い改めなかったからである、と言われます。ですから罪の大きさは関係ないのです。大きな罪を犯していようと、小さな罪を犯していようと、罪には変わりないとイエス様は言われます。例えば、イエス様はマタイの福音書5章21節から26節で、「兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でも裁きを受けなければならない。また『ばか者』と言うようなものは、燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言われます。人間的に見れば、「ばか者」と言ったぐらいで、何で燃えるゲヘナへ投げ込まれなければならないのか理解に苦しみますが、神様から見たら、兄弟に向かって腹を立てることは、殺人と全く変わらない罪であるのです。兄弟に向かって腹を立てることは、兄弟の魂を殺しているからです。また同じく28節では「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯したのです。」と言われます。肉体関係を持つことだけが姦淫の罪ではなく、情欲を抱いて異性を見るだけで、姦淫の罪を犯している、とイエス様は言われるのです。心の中でその異性と肉体関係を持っているからです。その罰は滅びです。ですから罪の大きい小さいは全く関係なく、罪は罪なのです。そして罪の結果は滅びなのです。それ故イエス様は、「滅びたくなければ、悔い改めなさい。」と言われるのです。このイエス様のお言葉は、「悔い改めれば、罪の大小にかかわらず、全ての罪が赦される」という意味です。これは、なんという嬉しいお知らせではないでしょうか。悔い改めれば、罪の赦しが宣言され、心の呵責が消えうせ、晴れやかな心にしていただけるのです。もう罪滅ぼしと言う無駄な作業は必要ないのです。

 

次は自然災害です。エルサレム旧市街の南東部にシロアムの池が有りました。ヨハネの福音書9章7節に出てくる池です。イエス様は、道で会われた生まれつき盲人の目に泥を塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい。」と命じ、その盲人がイエス様の命令に従ってシロアムの池で目を洗うと、見えるようになったという奇跡の池です。しかしこの池の近くに建っていた塔が倒れ、18人のエルサレムの住人が死ぬという自然災害が起こりました。イエス様は「この自然災害で死んだ18人のエルサレムに住む人たちが、エルサレムに住んでいる誰よりも罪深い人たちだったと思うのですか。」と問われます。そして言われました。「そうではない。私はあなた方に言います。あなた方も悔い改めないなら、皆同じように滅びます。」イエス様は3節と5節で全く同じ言葉を2度言われました。イエス様が言われることは1度でも真理ですから、ましてや同じ言葉を2度繰り返される時は、それが真理でなくて何でしょうか。

先程からイエス様が言われる「滅び」とは、まさに地獄の炎の中に投げ込まれることを表しています。誰しも悔い改めないならば、たとえ平安のうちにこの世の生涯を終えても、死後に開かれる最後の審判を逃れることはできません。人的、自然的を問わず、災害は、私達に悔い改めを求めている神様からの警告とみるべきです。

 

そしてイエス様は最後に一つの例え話をされて、悔い改めようとしないある町の恐ろしい未来を預言されました。その町とはユダヤ教の中心地エルサレムです。イエス様は言われました。6節と7節です。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』」

この例え話の中で、「ある人」とは父なる神様です。そしてその父なる神様が持っておられる「ぶどう園」はイスラエルの国で、その中に植えられた「いちじくの木」はエルサレム、それもユダヤ教の宗教指導者たちです。そして「いちじくの実」は本日聖書箇所のテーマである「悔い改め」です。父なる神様がエルサレムの宗教指導者たちに悔い改めを見つけようとしたけれども、何も見つかりませんでした。それで父なる神様はぶどう園の番人に言いました。この「ぶどう園の番人」は御子イエス様です。父なる神様は、御子イエス様に言われました。「見なさい。私は洗礼者ヨハネやあなたを遣わして、3年もの間『悔い改め』を宣べ伝えさせたけれども、宗教指導者たちに、少しも悔い改めの実がなってはいないじゃないか。彼らを切り倒し、滅ぼしなさい。何のためにエルサレムが有るのか。金儲けのために有るのか、それとも悔い改めて私を信じ、また私を信じるように多くの人々を導くためにあるのか。」

 

すると番人であるイエス様が答えられました。8節と9節です。「御父よ。どうか今年一年そのままにしてやってください。彼らの罪のために、私が十字架に掛かり、復活し、昇天します。この私の復活を見て、悔い改めれば、・・・それでもだめなら、御父よあなたが切り倒し、滅ぼしてください。」

さて、ユダヤ教の宗教指導者たちは悔い改めたでしょうか。彼らはイエス様を十字架に付けただけでなく、そのイエス様の葬られたお墓に番兵を張り付けて見張らせ、その番兵たちの報告でイエス様の復活をいち早く知ったのに、番兵たちを多額のお金で買収してこの様に命じました。マタイの福音書28章13節と15節です。「『夜、私たちが眠っている間に、弟子たちがやって来て、イエスを盗んで行った』と言うのだ。」・・・「そこで、彼らは金をもらって、指図されたとおりにした。それで、この話が広くユダヤ人の間に広まって今日に及んでいる。」ユダヤ人の指導者たちは全く悔い改めなかったことが分かります。

それでは、いちじくの木は切り倒されたでしょうか。歴史は証明します。父なる神様は西暦70年3月にローマ軍兵士70万人をエルサレムの町に差し向けました。ローマ軍は、エルサレムを包囲し、兵糧攻めを行いました。対するエルサレムの城壁の中に立てこもったユダヤ人は60万人でした。ユダヤ人の食糧徴発部隊は、秘密のトンネルを使って市の内外をこっそり行き来して物資を運び、兵糧攻めに抵抗したのです。しかし、ローマ軍は5月半ばから破城槌で壁を破壊し始め、ユダヤ人の秘密のトンネルを囲む壁を築いて食料調達の道を絶ち、神殿を見おろすアントニウス要塞を夜間に奇襲攻撃して陥落させました。さらに戦闘中に、ローマ兵が燃える棒を神殿の城壁の上にばら撒いたことにより、城壁自体が炎上してしまい、神殿に移り始めた火の勢いは留まることを知らず、8月末に神殿は完全に倒壊してしいました。火はさらに住宅地区へも燃え広がり、ローマ軍がエルサレム市を完全に制圧したのは9月7日のことでした。攻撃を開始してから半年後でした。このとき焼け残った神殿の西壁の一部が、現代ユダヤ人にとって聖地となっている「嘆きの壁」です。エルサレムの町は、人が住んでいたことを信じられなくなるほどに破壊尽くされてしまいました。

ローマ軍はエルサレムから逃げたユダヤ人の抵抗者を各地で追い続け、ユダヤ人はエルサレムから完全に追い出されてしまいました。この様にして、いちじくの木は完全に切り倒されてしまったのです。神様がユダヤ教をご自分の正統的な宗教ではないと、見切りをつけた瞬間でした。そして正統的な宗教としてキリスト教に置き換えられました。これは父なる神様がなさったことです。

 

このように、悔い改めを求めるキリスト教は真の宗教として多くの人に信じられるようになりました。今や世界の33.4%の人が信じる世界第一の宗教となっております。それは私達が、犯した罪を認め、永遠の滅びを恐れて、心から悔い改める時、イエス様が現れてくださり、私達の罪を赦して下さるからです。この様な経験をした人、即ちイエス様と出会って、罪赦された人が続々と出て来たからです。そしてキリスト教こそ真の宗教であると自信をもって伝道したからでした。十二使徒や、使徒パウロや、初代教会の7人の執事たちはその最初の人達でした。

しかしキリスト教と言っても色々な宗派が有ります。イエス様が、「悔い改めないなら、皆同じように滅びます。」と2回言われたように、本当の宗派は、悔い改めを求める宗派です。ルーテル教会は「日々悔い改めである」といった宗教改革を行ったマルティン・ルター博士の信仰を伝える教会です。当小針福音ルーテル教会もそのルターの教えを守り、悔い改めを求める宗派です。是非当教会の礼拝に出席され、悔い改め、イエス様とお会いしてください。イエス様とお会いすると、あなたの人生は180度変わります。父なる神様に祝福にされた幸な人生を送る者とならせていただけます。神様に守られ導かれた素晴らしい人生を送らせていただきましょう。



人の全ての考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。



©2019 Rev. Manabu Wakabayashi