アブラムの選択とロトの選択

創世記13章5節~18節

私たちは、普段の生活の中で、色々な選択をしています。例えば、何を着るか、何を食べるかなど。また、私たちは人生の中で大きな選択を迫られます。どの学校に入学するか、どのような仕事に就くか、だれと結婚するかなど。そして、その選択は私たちの人生に大きな影響を与えます。今日は、アブラムとロトの選択から彼らが何を考え、何を求めてその選択をしたかを学びます。

1、ロトの選択

エジプトの王から妻のサライを返してもらったアブラムは、彼が以前に築いた祭壇の場所に戻り、主の御名を呼び求めたとあります。これは、アブラムがエジプトでの失敗を悔い改めて、新たな気持ちで信仰によって歩むことを決心した表れではないかと思います。

5節「アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。」とあります。神はアブラムだけではなく、一緒にアブラムに付いて来たロトをも祝福し、二人の財産が増えていきました。しかし、ここで問題が起こるようになりました。6節7節「その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちとの間に起こった。そのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。」とあります。アブラムたちは移住者です。先住の民族カナン人とペリジ人たちへの遠慮もあったでしょう。彼らが住むには十分な広さではありませんでした。そこで、アブラムの財産とロトの財産が増えると互いのしもべたちが争うようになりました。ここでアブラムがロトに提案したことは驚くべきものでした。アブラムの方が年長者で、ロトは彼に付いて来た者です。それなのにアブラムはロトにどの地を選ぶか選択権を与えたのです。9節「全地はあなたの前にあるではないか。私から別れて行ってくれないか。あなたが左なら、私は右に行こう。あなたが右なら、私は左に行こう。」アブラムがロトに命令して、私が右に行くからおまえは左に行けと言うこともできたはずです。しかし、アブラムは先にロトに、彼が行きたい場所を選ばせたのです。ここにアブラムの知恵と神に信頼する信仰を見ます。

ロトはヨルダンの低地を選び、ソドムに天幕を移したとあります。10節~12節「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったので、その地はツォアルに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。ロトは、自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。そしてロトは東に移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだ。一方、ロトは低地の町々に住み、ソドムに天幕を移した。」とあります。明らかに、ロトがソドムの地を選んだ理由は目に見える繁栄でした。聖書は11節「ロトは自分のためにヨルダンの低地全体を選んだ。」と記しています。ロトは目に見える繁栄を求めてソドムの町へと下って行ったのです。しかし、その地は13節「ところが、ソドムの人々は邪悪で、主に対して甚だしく罪深い者たちであった。」とあります。後に、この彼の選択は、彼自身だけではなく、その家族、子孫にまで禍を招くことになってしまいました。

2、アブラムの選択

ロトがアブラムから別れた後、神はアブラムに言われました。14節~17節「ロトがアブラムから別れて行った後、主はアブラムに言われた。『さあ、目を上げて、あなたがいるその場所から北、南、東、西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地をすべて、あなたに、そしてあなたの子孫に永久に与えるからだ。わたしは、あなたの子孫を地のちりのように増やす。もし人が、地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えることができる。立って、この地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに与えるのだから。』」神はもう一度、アブラムに対して、彼の子孫の繁栄とカナンの地を与えることを約束されたのです。アブラムはどうしたでしょうか。18節「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木そばに来て住んだ。そして、そこに主のために祭壇を築いた。」とあります。神はアブラムにもう一度、この地を彼に(彼の子孫に)与えることを約束されました。アブラムは神の約束を信じて、主のために祭壇を築いたのです。

イエスはマタイの福音書6章19節でこのように言われました。19節~12節「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。」私たちの心は何を求めているでしょうか。ロトは自分の欲望を満たすために繫栄した町を求めてソドムへと向かってしまいました。アブラムは神のことばを待ち望みました。24節「だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。」とイエスは言われました。「仕える」という言葉を「支配する」という言葉に変えてみるとよくわかります。心が富に支配されている人はさらに多くの富を求め、心が神に支配されている人は神の御心を求めるようになります。私たちの心は何に支配されているでしょうか。

へブル人への手紙を書いた著者はアブラハムの信仰をこのように表現しました。へブル人への手紙11書8節「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」9節「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。」10節「堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。」13節「これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」15節「もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。」16節「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」この世の財産もこの地上での生活には必要な物です。しかし、物に支配される者はこの地上での生活で終わってしまいます。しかし、私たちの人生は、死で終わるものではありません。私たちクリスチャンはその先にある天の御国での生活に憧れる者です。神は私たちにどのようなすばらしい世界を準備してくださっているでしょうか。それこそが私たちが待ち望む故郷であり、その天の御国を待ち望むことが、私たちの信仰の喜びなのです。