信仰の決断と悔い改め

創世記12章1節~8節

創世記の12章から50章まで、アブラハムとその家族、アブラハムの子孫について書かれてあります。これからアブラハムと神との関係、その子孫と神との関係について学びます。

1、神との出会いと祝福の契約

創世記の11章27節からテラの歴史が紹介されています。その中で29節「アブラムとナホルは妻を迎えた。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、ハランの娘であった。」とあります。また、30節「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。」とあります。当時、子をたくさん産む女性は、神の祝福を受けた者として、周りの人々から尊敬を受けました。しかし、その反対に不妊の女性は神より呪いを受けた者として周りから低く見られていました。また、一夫多妻の時代でしたから、妻が不妊の場合、他に妻を持つことは普通の事でした。この時まで、アブラムがサライの他に妻を持たなかったのは、彼女に対する尊敬と愛の故だと考えられます。しかし、二人にとって子がいないことは大きな問題であり、悩みでした。

 31節「テラは、その息子アブラムと、ハランの子である孫のロトと、息子アブラムの妻である嫁のサライを伴い、カナンの地に行くために、一緒にカルデヤ人のウルを出発した。しかし、ハランまで来ると、彼らはそこに住んだ。」とあります。テラがなぜ、カナンの地を目指したかわかりませんが、彼らは、カナンの途中ハランに留まり、そこに住んだのです。ここまでが、アブラムが神と出会うまでの道のりです。ハランに留まったアブラムに神は祝福のことばを宣べました。12章1節~3節「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。』」アブラムが神の祝福(契約)を受ける条件は、親族、父の家を離れること、神の示す地に旅立つことでした。4節「アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。」とあります。七十五才という年齢を考えると、アブラムにとってこの決断は大きな勇気を必要としたと考えられます。ハランの地で親族と共に生活することの方が安全で安心できる生き方です。それを捨てて、どこに行くとも分からずに、神に従う道を選んだ背景には、神への信頼と期待があったものと考えられます。また、この時点まで子のいない二人には、「あなたを大いなる国民とする」ということばは、子を得る希望を与えることばではなかったかと思います。

2、祭壇を築くアブラムと悔い改めるアブラム

 5節「アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。」7節「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。』アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあります。その前の6節には、「当時、その地にはカナン人がいた。」とあります。カナンの地にはすでにカナン人たちが住んでおり、アブラムがカナンの地を得る可能性はありませんでした。しかし、アブラムはそこに祭壇を築いたとあります。アブラムは、信仰によって神のことばを信じ、この地が自分の子孫に与えられることを信じたのです。それゆえ、アブラムは神に感謝しこの地に祭壇を築いたのです。また、彼はベテルの東にも主のために祭壇を築いたとあります。その祭壇はアブラムが神に祈る場でもあったのです。

この地を飢饉が襲い、アブラムはこの地から移動することを決心しました。アブラムは神に祈ることなく、食べ物があるエジプトの地に向かいました。ここで彼は大きな失敗をしました。アブラムはエジプトの国の繁栄を見て恐れ、妻のサライに妻ではなく、妹と偽ってくれるように頼んだのです。妻のサライがエジプト人に目を付けられた時、夫であれば、殺される可能性があります。しかし、兄であるなら、彼女の気を引くために、兄である自分に良くしてくれるだろうと考えたからです。アブラムはなぜ、神に信頼しないで、妻のサライに偽りを言わせたのでしょうか。そこにアブラムの信仰の弱さ、不完全さを見ます。この時のアブラムには神よりもエジプトの国が大きく見えたのです。この事は、私たちにも起こりえる問題です。神を信じていても、この世の権力や力を恐れ、神ではなく、自分の知恵に頼って問題を解決しようとする弱さです。結局、サライは王宮に召し入れられてしまいました。この危機的状況からサライを助け出したのは神でした。神はエジプトの王に災害を加えサライをアブラムに返すように働かれたのです。サライを取り戻したアブラムはどうしたでしょうか。創世記13章3節4節「彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。」とあります。これはアブラムの悔い改めの祈りです。「悔い改める」とは、罪を認めるだけではなく、方向を転換することだと言われています。今までの生き方を変えて、神の御心に従って歩むことです。神は私たちが弱く罪を犯しやすいことを知っていながら、私たちを愛して受け入れてくださいました。悔い改めた者を神が受け入れ、赦しを与えてくださることは神の恵みです。神が私たちの悔い改めの祈りを受け入れて下さらなければ、だれも神に近づくことはできません。私たちは罪が無い者ではなく、罪赦された者です。また、悪魔は私たちに近づき誘惑します。悪魔は巧妙で私たちの弱いところを知っています。ダビデはバテシェバと姦淫の罪を犯した時、自分の罪を認めて神に赦しを求めました。神はダビデの悔い改めの祈りを受け入れ、初めの子は病気で亡くなりましたが、バテシェバはもう一度身ごもり男の子を産みました。その子がソロモンでダビデの後継者となりました。神は私たちの弱さを受け入れ、私たちが罪を認め悔い改めるならその罪を赦し、祝福してくださる神です。完全な信仰はありません。私たちの信仰は信仰と不信仰の間で揺れ動いています。それゆえ、イエス・キリストは弟子たちに目を覚まして祈りなさいと教えられたのです。