アダムとエバ

創世記3章1節~24節

先週まで、新約聖書からペテロの人生を通して神の働きについて学びました。今日から旧約聖書の創創世記に登場する人物を通して神の働きについて学びます。一回目は、アダムとエバの夫婦を取り上げます。

1、神と人間の関係について。

創世記の1章において神は六間で天地すべてのものを創造されました。また、神は創造の六日目に人間を造られました。その時、神は人間をご自身に似せて創造されたとあります。神はなぜ、人をご自身に似せて創造されたのでしょうか。ここで26節「われわれのかたちとして」「われわれの似姿に造ろう」7節「ご自身のかたちとして創造された」「神のかたちとして人を創造し」と言う言葉は、外見を神の姿に似せてと言う意味ではありません。このことばに対して、いくつかの解釈があります。その中で一番わかりやすい解釈が、神との親しい関係、神とコミュニケーションができる存在として人間を創造されたと言う解釈です。神は、なぜ人をご自身に似せて人を作られたのか、それは、26節「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのものを支配するようにしよう。」とあるように、神は人をこの地上を管理する者として創造されたからです。それゆえ、神は最初の人アダムに語り掛け、罪を犯したアダムとエバは神の声を聞いて恐れ、身を隠したのです。創世記の2章においても、人間の創造について記されています。これは、人の創造が二回行われたと言うことではありません。1章の人の創造については、六日間の創造の中における人間の創造について記された箇所です。2章では人間の創造にポイントを置いて説明された箇所です。この個所で注目する点は7節「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は、生きるものとなった。」という言葉です。(1)人間は大地のちりで形造られました。神は人間を特別な素材から造られたのではなく、ただの「ちり」から形造られたのです。それは、人が取るに足りない者(価値がない者)であることを表しています。(2)神はそのような価値のない者に、「いのちの息」を吹き込まれました。それで人は生きるものになったとあります。この「いのちの息」が何を表すものなのかは色々な意見があります。「霊」「魂」などと言われますが、はっきりと断言することはできません。ただ、1章の人の創造(神の似姿に創造された)を考え、神が人の鼻にいのちの息を吹き込まれる姿を想像すると、そこにも、神と人の親しい関係を表しているのではないかと思わされます。

2、アダムとエバの夫婦(創世記2章18節~25節)

神は最初の人アダムを造られましたが、神は人が一人でいるのは良くないと思われました。そこで、神は彼にふさわしい助け手を捜されました。しかし野の獣、空の鳥は彼の助け手にはなれませんでした。そこで、神は彼を眠らせ、彼のあばら骨を取り、その骨から一人の女性を造られたのです。神はなぜ、アダムのあばら骨から女性エバを造られたのでしょうか。24節「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

とあります。夫婦とは「男と女の心と体が一つになることです」それゆえ、神はあえて、アダムを眠らせ、彼の体の一部、あばら骨を取り出し女性エバを造られたのです。

3、アダムとエバの罪(創世記3章1節~7節)

創世記の3章の前半はアダムとエバがどうして罪を犯してしまったのかについて記されています。へび(悪魔)はなぜ、エバを選んで誘惑したのでしょうか。それは、神の戒めを直接受けたのは夫のアダムであり、エバはその戒めをアダムから聞いたからです。へび(悪魔)が巧妙なのは、よりだましやすい方、弱い方を選ぶと言うことです。そこにへび(悪魔)が賢く、巧妙さが表されています。へびはエバにどのように語り掛けたでしょうか。3章1節「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」彼女は直接神から聞いたわけではありません。夫のアダムから聞いた言葉でした。それゆえ、確信がなく、あいまいなところがありました。それゆえ、彼女は正確に神のことばを答えることができずにこのように答えました。2節3節「私たちは園の木から実を食べてもよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけな。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と神は仰せられました。」へび(悪魔)は彼女のあいまいさに付け込んで神の戒めを否定しました。4節5節「あなたがたは決して死にません。それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」誘惑の中心は、「人が神のようになり自分が善悪を決める者になる」ということです。それは、神から離れ、自分が神のような存在になることでした。アダムがどこからエバと共にいたかは分かりませんが、二人は神の戒めを退け、へび(悪魔)のことばに従って、善悪の知識の木からその実をとって食べてしまいました。しかし、二人の目は開かれましたが、神のようにはなることができませんでした。7節「こうして、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」とあります。創世記2章25節「そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」とありました。神の支配のもとにあるとき、二人は裸でしたが、恥ずかしいとは思いませんでした。二人が罪を犯し、神との親しい関係を失った時、ふたりに恥ずかしいと言う感情が生まれたのです。それゆえ、二人はいちじくの葉をつづり合わせて腰の覆いを作りました。また、二人は神の呼びかけに恐れて、木の陰に身を隠したのです。

4、神の赦しと贖い。(創世記3章8節~24節)

神はなぜ、人に9節「あなたはどこにいるのか」と呼びかけたのでしょうか。神は全能の神です。神はアダムとエバの居場所を知っていながら、二人に呼びかけました。なぜなら、二人が自ら罪を認め神の前に出ることを望まれたからです。では、二人は自分の罪を認めたでしょうか。アダムは自分の罪を認めず、妻エバに責任転嫁して言いました。12節「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」エバも自分の罪を認めず、へびに責任転嫁して言いました。13節「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました。」そこで、神はアダムには労働の苦しみを与えました。また、エバには、生みの苦しみと夫に支配される苦しみを与えました。そして、神はへび(悪魔)に対して女の子孫イエス・キリストの十字架の勝利と、へび(悪魔)の敗北について預言されたのです。しかし、神は罪を犯した二人のいのちを奪うことはされませんでした。それどころか、ふたりの哀れな姿を見て21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」とあります。神はふたりの罪を覆うために、動物を殺し皮の衣を二人に与えられたのです。これが、後に祭壇にささげれる、動物によるささげ物につながります。旧約の時代、人々は、祭壇の前で牛や羊を屠り、その血を祭壇に注ぎ、肉を焼いて煙にしました。それが、罪が赦される条件でした。しかし、動物の血では人の罪は完全に赦されませんでした。それゆえ、新約聖書の時代、神の子イエス・キリストが人として誕生し、十字架の上で、私たちの罪の身代わりとしてご自身のいのちを犠牲にされ、死より復活して、私たちに救いの道を完成されたのです。私たちは、そのイエスの贖いによって罪が赦され、永遠のいのちを受ける者とされました。罪を犯したのは、アダムとエバでした。しかし、神はふたりのいのちを惜しみ、神自ら、動物を屠り皮の衣で二人の罪を覆われました。私たちもアダムとエバの子孫として罪を犯してしまいました。神は、私たちのいのちをも惜しまれ、私たちの罪を赦すために一人子を犠牲にしてくださったのです。そこに私たちに対する神の大きな愛が表されているのです。