ルカの福音書23章39節~43節
4月12日にイエスの十字架を背負ってイエスの後に従った、クレネ人シモンのお話しをしました。彼はイエスの弟子でもない、イエスと全く関係ない人でした。彼は十字架を背負い歩かされている犯罪人イエスを見つめる群衆でしかありませんでした。彼のような人々は、イエスの周りにたくさんいました。それなのに、兵士がシモンを選び、イエスの十字架を背負わせたのです。彼は災難に思ったことでしょう。なぜ俺があの忌まわしい十字架を背負って歩かなければいけないのか。彼は自分の不幸ゆえに神を呪ったかもしれません。しかし、彼を選んだのは兵士ではなく神でした。この後、彼は家に帰り家族にこの事を話したでしょう。また、後に彼と家族はクリスチャンとなり、教会で良い働きをする者になりました。彼は、イエスの十字架を背負うことによって新しい人生を歩み始めたのです。
今日は、実際にイエスの右と左に十字架に付けられた二人の犯罪人についてお話をします。当時、十字架に付けられて殺される者は、人殺しなどの重罪を犯した者か、革命などでローマ政府に反抗した者たちに限られていました。十字架の刑は当時一番重い刑罰でした。また、人々は、十字架に付けられて殺された者を「呪われた者」と呼び、忌み嫌いました。それは、本人だけではなく、その家族まで差別される恐ろしい刑罰でした。イエス・キリストは無実でこの刑罰を受けていましたが、この二人は、どのような罪を犯したのか記されていませんが、明らかに重い犯罪を犯した者たちです。そのうちの一人がイエスに言いました。ルカの福音書23章39節「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った」あります。彼は本当にイエスがキリスト(救い主)と信じて救いをお願いしたわけではありません。「イエスをののしり」とありますから、「おまえが本物のキリスト(救い主)だと言うのなら、自分とおれたちを救ってみろ」と罵声をあびせたということです。すると、もう一人が彼に言いました。40節41節「すると、もう一人が彼をたしなめて言った。『おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。』」42節「そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』」イエスの右と左に十字架に付けられた犯罪人は、同じ苦しみを受けていましたが、イエスに対する態度と、求めるものが違いました。前者は、イエスをののしり、今の肉体の苦しみからの救いを求めました。後者の犯罪人は、第一に自分の罪を認めています。そして、この十字架の苦しみがその報いであることも認めています。私たちが天の御国に入るためには、自分の罪を認めることが第一です。神が創造されたエデンの園は、罪が無い世界でした。そこからアダムとエバが追い出されたのは、彼らが神に対して犯した罪の結果でした。私たちが天の御国に入るためには、この罪の問題を解決しない限り天の御国には入ることが出来ないのです。二番目に彼は、イエス・キリストが罪が無い方、無実の罪で十字架に付けられていることを信じました。当時、エルサレムにいる人たちは、イエスが何をされたお方なのか、良く知っていたことでしょう。その情報は良い噂もあれば、悪い噂もありました。ある人はイエスを預言者と信じ、ある人は悪霊に支配されていると言う人もいました。その中で、彼は、イエスが預言者、また、それ以上の存在と信じて、イエスに「あなたの御国に入られるときには、私を思い出してください。」とお願いしたのです。彼は、この肉体からの苦しみから助けを求めたのではなく、明らかに、イエスの国、天の御国のことを求めてのことばです。これはまさに彼の信仰告白でした。イエス・キリストは彼の信仰告白を受け入れて、43節「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。』」と言われたのです。「パラダイス」は正確には天の御国ではありません。天の御国はイエスの再臨の後に現れる新しいエルサレムのことです。では、「パラダイス」とは何かというと、再臨の時が来るまでに死を迎えた人たちが、再臨の時を待つ特別な場所だと考えられています。それは、イエスの国であり、また、神が共におられる所と考えられます。
イエスが生まれる前、律法学者パリサイ人たちは、神の戒めを守ることによって天の御国に入ることが出来ると教えました。そのために彼らは、律法(旧約聖書)を研究し、それを守ることに熱心でした。しかし、彼らは、神のことばである律法に先祖から伝わる言い伝えを加えたため、律法が増大し、一般の人々は、これらの膨大な戒めを守るために苦しめられていました。しかし、イエスの教えは、神の教えに忠実な教えでした。それゆえ、律法学者とイエス・キリストが対立し、律法学者たちは自分たちの教えを守るために、イエスを十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、イエス・キリストの死は、神の御計画でもありました。神は私たちの罪の問題を解決するために、罪の無い神の子イエスを私たちの罪の身代わりとして、十字架でいのちを取られたのです。人間はどんなに努力しても、罪の無い者になることはできません。神はそのことをご存じでした。それゆえ、私たちの正しい行いではなく、イエスを神の子と信じる信仰による救いの道を備えてくださったのです。それゆえ、私たちは神が備えてくださった救いの道を通って天の御国に入るのです。そのためには、自分の罪を認めて悔い改めることが必要です。バプテスマのヨハネもイエス・キリストも宣教の初めに人々に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と教えられたのです。「悔い改める」とは、自分の罪を認めて、神の教えに従って歩むことです。
イエスの十字架を背負わされた、クレネ人シモンは、イエスの十字架を背負うことによって新しい人生を歩むことになりました。イエスと共に十字架に付けられた二人の犯罪人にとって、これは救いの恵みを頂く最後のチャンスでした。しかし、犯罪人の一人はイエスをののしり、救のチャンスを失ってしまいました。もう一人の犯罪人はイエス・キリストの前で、しっかりと信仰告白をしました。彼はこの後、イエスの約束通り、パラダイスに迎え入れられたことでしょう。私たちはどうでしょうか。救いのチャンスは、生きている時だけです。神は常に私たちに救いの手を伸べておられます。私たちの救いは、私たちの行いの正しさではなく、神の約束のことばにあります。イエスを神の子と信じる者はみな救われる。これが神の約束です。私たちはその約束を信じる者なのです。