イエスを罪に定める大祭司

ルカの福音書14章43節~65節

さて、いよいよイエスが十字架に付けられ、殺される時が近づきました。イエスが弟子たちとお話されていると、イエスを捕らえる者たちがゲッセマネの園に近づいて来ました。43節「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人のユダが現れた。祭司長たち、律法学者たち、長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした群衆も一緒であった。」45節「ユダがやって来ると、イエスに近づき、『先生』と言って口づけした。」46節「人々は、イエスに手をかけて捕らえた。」また、50節「皆は、イエスを見捨てて逃げてしまった。」とあります。

1、イエスを罪に定めるための裁判

イエスは群衆に捕らえられ大祭司(カヤパ)の家に連れていかれました。そこに祭司長たち、長老たち、律法学者たちが集まり、最高法院(サンヘドリン)が開かれ、宗教裁判が行われたのです。この裁判は初めからイエスを罪に定めるための裁判で、そのために偽証する者も準備されていました。しかし、明確にイエスを罪に定めることができませんでした。そこで大祭司はイエスに尋ねました。61節「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。」イエスは彼に答えました。62節「わたしが、それです。あなたがたは、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」イエスはご自分がキリスト(救い主)であることを認め、旧約聖書に預言された再臨の主であることを宣言なさいました。それを聞いた大祭司は。63節64節「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『なぜこれ以上、証人が必要ですか。あなたがたは、神を冒涜することばを聞いたのだ。どう考えるか。』すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた。」ユダヤの国では、人が自分のことを神と宣言したり、神と同等の権威を持つ者であると宣言することは神を冒涜した罪に定められ、死刑の判決を受けることは誰でも知っていることでした。大祭司は、イエスを罪に定めることができず、イエスを罠にかけるために、「おまえは。ほむべき方の子キリストなのか。」と問いかけたのです。イエスは大祭司の罠に引っ掛かり、ご自分のことをメシヤ(キリスト)と認めてしまったのでしょうか。そんなことは考えられません。イエスは自分がメシヤ、神の子であること認めるならば、死刑の判決を受けることを知っていながら、大祭司の質問にご自分がメシヤ救い主であることを認められたのです。では、何故イエスは死刑の判決を受けることを知りながら、ご自分のことをメシヤ、キリストと認められたのでしょうか。ここで、イエスはご自分が神の子であることを正直に告白されたのです。イエス以外のものが、自分をメシヤ、キリストと証言することは偽りであり、それは神を冒涜することで、死刑の判決を受けることは当たり前のことです。しかし、イエス・キリストは本当に神の子であり、救い主としてこの世に誕生されたお方です。それゆえ、イエスはご自分のことを神の子と証しされたのです。しかし、大祭司や律法学者たちは、それを信じることができませんでした。それゆえ、彼らは、イエスを神を冒涜した罪に定め、死刑の判決をくだしたのです。それゆえ、イエス・キリストは一度も罪を犯すことなく、無罪でありながら、罪人として裁かれ、十字架に付けられ殺されてしまったのです。

2、イエスの十字架の死と私たちの救い

もし、ここでイエスがご自分のことをキリストではなく、預言者であると告白したなら、彼らはイエスを罪に定めることはできなかったでしょう。そうなれば、イエスは釈放され、死ぬことはありませんでした。もし、そうなったら私たちの救いの計画はどうなってしまうでしょうか。神の子イエス・キリストの誕生は、私たちの罪の問題を解決するための誕生でした。神の子イエスが私たちの罪を背負い、十字架で私たちの身代わりとして死なれることによって私たちの救いは完成されます。イエスが死ななければ私たちの救いの計画は完成されませんでした。それゆえ、イエスは、死を覚悟して、大祭司のことばを受け入れ、ご自分がメシヤ、キリストであることを認められたのです。聖書を読むなら、イエスはいくらでも逃げるチャンスはありました。また、ご自分の力を用いれば、ローマの兵隊を追い出すことも、十字架から下りることもできたことでしょう。しかし、イエスは最後まで、父なる神のご計画に従順に従い、死を受け入れられたのです。

当時、ユダヤ人たちはローマ政府に支配されていた故に、自分たちで勝手に公に人を死刑に定めることができませんでした。そのためには、ローマ総督の許可が必要だったのです。そこで、彼らはイエスをローマ総督ピラトのところに連れて行き、ローマ政府の正式な犯罪者として十字架に付けて殺す必要があったのです。悪魔の計画は、イエスを十字架に付けて殺すことでした。当時の十字架刑は、極悪人か政治犯を罰する極刑でした。他に、バプテスマのヨハネのように首を切られて殺されるという死刑の方法もありましたが、十字架刑は当時、一番苦しい刑罰でした。生きたまま十字架に釘付けにされ、死ぬまで長い時間苦しみを受けなければなりませんでした。また、十字架に付けられて殺されることは不名誉なことで、呪われた者として後世までも語り告げられました。それゆえ、悪魔はイエスのいのちだけではなく、イエスの教え(キリスト教)さえも葬り去ろうとしたのです。しかし、神様の計画はさらに悪魔の上を行きました。イエスを死より復活させることによって、私たちの救いを完成されたのです。もし、イエスが死より復活されなかったとしたら、悪魔の思惑通り、弟子たちは消えさり、キリスト教も誕生されなかったでしょう。しかし、確かにイエス・キリストは死より、復活されて弟子たちの前にその姿を表されたのです。それゆえ、弟子たちはイエスより勇気をいただき、イエス・キリストこそ救い主であり、死より復活された方として、人々に宣べ伝えることができたのです。本来、十字架は人を殺す忌まわしい道具でした。しかし、イエス・キリストが死より復活されることによって、あの、人を殺す道具が、神の愛を表す十字架に変えられたのです。

CSルイスが書いた「ナルニア国物語」という小説があります。ディズニーで映画化もされました。ピーター、スーザン、エドモンド、ルーシーの四人が、不思議なナルニアの国に迷い込んでしまいました。また、エドモンドが白い魔女に誘惑され、とらわれてしまいました。彼を助けるためには、アースランというライオンの助けが必要でした。アースランはエドモンドを助けるために、身代わりとなり自分のいのちを差し出したのです。しかし、彼は死よりよみがえり、四人と協力して白い魔女と戦い、勝利して、平和な国を取り戻したというお話です。ここで、CSルイスはアースラン(ライオン)をイエス・キリストに似せて描いています。エドモンドは私たち罪人を表しています。アースランはエドモンドを助けるために、自ら身代わりとなりいのちを差し出しました。白い魔女はこれで勝利を確信しますが、翌日、アースランはよみがえり、四人と協力して白い魔女(悪魔)を滅ぼしたのです。悪魔の計画はイエスをできるだけ悲惨な姿で殺すことでした。しかし、神の計画はその死より復活させ、救いの計画を完成させるところにあったのです。キリスト教の中心は、キリストの十字架の死と復活です。神の子が罪びとの身代わりとしてご自分のいのちを差し出さなければ、私たちの救いはありませんでした。また、イエス・キリストが死より復活されなければ、私たちの救いは完成されませんでした。大祭司、律法学者たちは、神が人として生まれ、罪びとの身代わりとしてご自分のいのちを犠牲にされたことを信じることができませんでした。そのことは、人間の知恵によって理解することではなく、聖霊の力と私たちの信仰によって受け入れる恵みなのです。