神様からのクリスマスプレゼント

ヨハネの福音書3章16節

世界中でクリスマスがお祝いされますが、日本のクリスマスの主役は、イエス・キリストではなく、サンタクロースのようです。以前、教会におられた方で、サンタクロースが大嫌いと言う人がいました。その理由は、先ほどのように、クリスマスの主役をイエス・キリストからサンタクロースが奪ったからだと言っていました。確かに、クリスマスは世界中で祝われますが、イエス・キリストの誕生よりも人々の関心は、クリスマスプレゼントやクリスマスケーキに思いが向いているように思います。私も子どもの頃は、クリスマスはサンタクロースからプレゼントをもらう日だと思っていました。しかし、クリスマスとプレゼントは関係がないわけではありません。イエスの誕生を祝福してプレゼントを贈った人々がいました。今日はクリスマスプレゼントの由来について考えます。

1、東方の博士たちからのプレゼント(マタイの福音書2章1節~12節)

イエス・キリストの誕生を神様は、星を通して、東方の博士たちに知らせました。東方の博士たちは星に導かれ、はるばる旅をし、エルサレムに到着して、当時の王、ヘロデに謁見し、ユダヤ人の王として新しく生まれた方を拝みにまいりましたと言いました。伝統的にこの博士たちの人数が3人と言われていますが、もっと多くの人たちであったという意見もあります。当時は砂漠に盗賊も多く、大金を持って旅をするのに、警護の人間も必要だったと言う意見です。この博士の到来に、ヘロデ王だけではなく、エルサレム中の人々もヘロデ王と共に驚いたことを考えると、三人でひそかにヘロデ王に謁見したと言うよりも、多くの警護を従えてエルサレムの町に来たのではないかと思われます。そして、ヘロデに送り出された博士たちは、星に導かれて、幼子のおられる所を発見し、彼らは幼子に、宝物の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたとあります。これが、幼子にささげられた最初のクリスマスプレゼントです。

2、神からのプレゼント(ヨハネの福音書3章16節)

最初にヨハネの福音書3章16節を読みました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。イエス・キリストは人が努力して神になったお方ではありません。その逆で、神であられるひとり子のイエス・キリストが幼子として誕生したということです。なぜ、神の子が人間の幼子として誕生する必要があったのでしょうか。そこにクリスマスを祝う本当の意味があります。マタイの福音書1章21節に「マリアは男の子を産みます。その名をイエスと付けなさい。この方が、ご自分の民をその罪からお救いになるのです。」とあります。旧約聖書の時代、神はイスラエルの民に、牛や羊など動物の犠牲を祭壇でささげることによって罪を赦すと約束してくださいました。しかし、動物の血やいのちでは、私たちの罪の完全な身代わりにはなりませんでした。私たちの罪が完全に赦されるためには、罪の無い完全ないのちが必要でした。しかし、この地上には、罪の無い者は一人として存在しません。神だけが、罪の無いお方です。しかし、神は私たちのように死ぬことはできません。それゆえ、罪の無い神が人として生まれ、私たちの罪の身代わりそして誕生しなければ、私たちの罪の問題は解決しませんでした。そこで、神は、私たちの罪の問題を解決してくださるために、神のひとり子であるイエス・キリストをこの世に誕生させ、十字架の上でいのちを奪われたのです。私たちは、イエス・キリストの身代わりの死によって罪が赦され、天の御国に招かれるというのが聖書の教えです。それゆえ、クリスマスは神の子が私たちの身代わりとして死ぬために生まれてくださった特別な日なのです。

3、神の恵みと報酬の違い(マタイの福音書20章1節~16節)

このぶどう園で働く労務者のたとえ話は、神の恵みと報酬の違いを分かりやすく説明しています。この主人は朝早く出かけて、労務者と一日1デナリの報酬で契約を結びました。その後、主人は九時頃、十二時頃、十七時頃に出かけて行って労務者を雇いました。しかし、彼らとは、一日いくらの報酬を与えるとは契約を結びませんでした。仕事が終わり、監督が労務者に賃金を払う時が来ました。監督は、最後に雇われた者から賃金を払いました。しかも、彼らは、一時間しか働かなかったのに、一日の労働賃金1デナリが支払われたのです。彼らはどんなに喜んだことでしょう。また、それを見ていた朝早くから雇われた者は、自分は朝早くから働いたのだから、一デナリ以上もらえると期待しました。しかし、彼らに支払われたのも、一デナリでした。聖書には、彼らは不満を漏らしたと記されています。当然のことです。12節「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じ扱いにしました。」それに対して主人は彼らに言いました。13節~15節「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、1デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」この世の仕事では、このようなことは成り立ちません。しかし、イエスはこのたとえ話は、天の御国のたとえだと言われました。天の御国は、まさに、神からの私たちに与えられるプレゼントです。このたとえ話で、朝早くから雇われた人は、当時の律法学者パリサイ人を表しています。彼らは、神から与えられた約束「律法」を守ることによって天の御国に入ろうと努力していました。しかし、イエスは、天の御国は人間が努力して入るところではなく、神からの一方的な恵み「プレゼント」だと言われたのです。

ここで、問題になるのは、私たちはどちらの立場に立っているかということです。朝早くから雇われた人は、一生懸命努力して、または、正しく生きた人だけが、天国に入れると信じている人です。午後5時ごろに雇われた人は、自分の罪がわかり、自分の力、努力では天国に入ることができないことが分かり、神に恵みを求める人々です。プレゼントは報酬ではなく、恵みです。神は、私たちが自分の力ではなく、イエス・キリストの恵みによって救われるために、ひとり子イエス・キリストを人としてこの地上に誕生させてくださいました。私たちは、それを信じて、その救いをいただくだけです。確かに、救いはただでいただくものです。しかし、そのために、神はひとり子のいのちを犠牲にし、イエス・キリストはご自分のいのちを犠牲にされました。それゆえ、神の与える恵みの救いには大きな犠牲がともなった、お金では支払うことができないほどの高価な贈り物なのです。クリスマスは、神が私たちを愛し、私たちの罪の問題を解決するために、ひとり子イエス・キリストを幼子として誕生させてくださった特別の日です。このプレゼントは、ただで、だれも受け取ることができます。ぜひ、今年のクリスマス、この大切な神からのクリスマスプレゼントを受け取っていただきたいと思います。