神の愛とキリストの愛

ローマ人への手紙5章8節~10節

1、神の愛と祝福

創世記の1章で神は六日間で全ての創造を完成されました。31節「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。」

また、2章2節「神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。」3節「神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」とあります。神はすべての創造を六日間で完成されたのに、なぜ、もう一日、七日目を付け加えたのでしょうか。それは、人間を祝福するためです。しかも、神は人間を祝福するためにすべてのわざを休んで人間を祝福してくださったのです。ここに神の愛が表されています。また、この聖書の箇所が「安息日」の起源とされました。ユダヤ人は今でも厳格に安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を守り、一切の仕事を休みます。また、土曜日には会堂に集まり神に礼拝をささげます。イエス・キリストが十字架に付けられ殺されたのが金曜日です。また、イエスは三日目に復活されました。その日が週の初めの日曜日でした。私たちクリスチャンはイエス・キリストが復活された日を新しい安息日として礼拝を守っています。それは、神が祝福の日として安息日を設けてくださったからです。

2、神の愛と憐れみ

創世記の2章で、神は神に創造された最初の人アダムをエデンの園に住まわせました。そして、園にある木の実は自由に取って食べてよいが、17節「しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と命じられました。また、神はアダムを眠らせ彼のあばら骨から女を造り、二人はエデンの園で幸せに暮らしていました。しかし、3章で、蛇(サタン)が現われ女を誘惑しました。二人は神の命令を捨て、蛇の言葉に従い、善悪の知識の木から取って食べてしまいました。7節「こうして、二人の目は開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。」とあります。二人は、すぐには死にませんでした。しかし、神が歩き回られる音(声)を聞いて身を隠したとあります。二人は罪を犯し、神との親しい関係を失ってしまい神を恐れたのです。神は罪を犯した二人に対して、女には産みの苦しみを与え、男には労働の苦しみを与えられました。また、二人が「いのちの木」からも取って食べ、永遠に生きないように、エデンの園から追い出されました。しかし、ここで神は惨めな姿の二人をかわいそうに思い、21節「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。」あります。皮の衣を作るためには、動物の犠牲があったものと考えられます。その事が、後の律法(レビ記)によって、神がイスラエルの民に動物の犠牲をささげるように定めたことに繋がるのかと思います。またさらに、その動物の犠牲が、イエス・キリストの十字架の死に繋がり、神の子のいのちが人の罪の贖いとしてささげられたことに繋がると考えられます。神は二人の惨めな姿を憐れみ、皮の衣を与えられました。そこに神の愛と私たち罪人を憐れむ神の姿を見るのです。

3、キリストの愛と十字架の死と復活

イエス・キリストの宣教活動は三年から三年半の短い間だけでした。その間に、イエスがなされたことは、12人の弟子たちを選び、後の宣教活動のために彼らを教育することでした。また、神の国の福音を宣べ伝え、病に苦しむ人たちを癒されました。しかし、イエスの最大の働きは十字架の死と復活です。イエス・キリストは世界を支配する力をお持ちでしたが、そのためにご自分の力を用いることはありませんでした。あくまでも、父なる神の御心に従って生きることを第一とされたのです。その父なる神の御心が十字架の死だったのです。イエス・キリストは捕らえられる前に、ゲツセマネの園でこのように祈られました。マタイの福音書26章39節「それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた。『わが父よ。できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。』」イエスは三度、祈られたとあります。ここで言われた「杯」とは、十字架の死を意味していました。イエス・キリストは父なる神の御心を確認するように三度このような祈りをささげたのです。そして、イエス・キリストは、十字架の死が父なる神の御心と確信して、十字架の道へと向かわれたのです。神の御心とは、神の子であるイエス・キリストが人々の罪を背負い、十字架の上で自分のいのちを犠牲にすることでした。それにより、私たちの罪が赦されるためでした。偉大な伝道者パウロはローマ人の手紙5章8節~10節でこのように神の愛のすばらしさを証しています。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。」罪を犯したアダムとエバを、神は皮の衣を着せて、エデンの園から追い出されました。本来、彼らの罪の結果は死でした。しかし、神は二人を憐れみ皮の衣を着せてエデンの園から追い出されたのです。そこに神の愛と憐れみを見ますが、父なる神はそれだけではなく、私たちの罪の赦しのために神のひとり子イエス・キリストを犠牲にされました。また、イエス・キリストはご自分のいのちを犠牲にされました。信仰とはこの神の愛に応えて生きることです。初めに神が、私たちに対して、これほど大きな愛を示してくださいました。私たちはその神の愛に対してどのように応えるべきでしょうか。