律法と福音(自己義と神の義)

ガラテヤ人への手紙3章23節~29節

教会とは神に罪を赦された人々の集まりです。しかし、神が建てられた教会にも問題はあります。それは、教会もまた罪人の集まりだからです。新約聖書に登場するパウロが伝道して建てられた教会にも様々な問題がありました。今日は、ガラテヤの教会に送られたパウロの手紙から、ガラテヤ教会の問題を通して、今の私たちの問題を考えます。

1、律法とパウロ

パウロは律法に熱心なパリサイ人でした。彼は、ユダヤ教(律法)に熱心であるがゆえにキリスト教を激しく迫害した人です。彼にとって、大工の息子イエス・キリストがメシヤ(救い主)であるとは信じられないことでした。また、そのイエスが十字架で殺され、三日目に死より甦り天に昇って行かれたと証言するイエスの弟子たちの伝道の働きは許せないものでした。それゆえ、彼はイエスの弟子たちを捕らえ、牢獄に入れていたのです。しかし、イエスの弟子たちを捕らえるためにダマスコに行く途中、彼は復活したイエス・キリストと出会ったのです。そこで、彼は自分の間違いに気づき、自分の罪を認めて悔い改め洗礼を受けました。以前の彼は、神の戒め、つまり律法を守ることが、神に喜ばれ救いを得る方法だと考えていました。しかし、彼はその律法を守ろうとしても完全に守ることが出来ない自分を見出し、心の中で苦しんでいました。そんな時に、復活されたイエス・キリストと出会い、イエスの十字架の死は自分の罪の身代わりであり、イエスの十字架の贖いなしに罪の赦しがないことを悟ったのです。それ以後、彼はユダヤ人が罪人と嫌う異邦人にこのイエスによる救いを宣べ始めたのです。

2、律法と福音

「律法」は神がイスラエルの民にモーセを通して与えられた神の戒めです。この「戒め」に問題があったのでしょうか。そうではありません。問題は、律法を完全に守れない人間の側にあったのです。パウロは律法についてこのように説明しています。ガラテヤ人への手紙3章24節「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」律法という神の義の基準がなければ、私たちは罪が何であるか分かりませんでした。罪とは、新約聖書のギリシャ語ではハマルティヤという言葉が使われています。その意味は「的外れ」という意味で、神の戒めから外れた行為(思い)を罪と言います。養育係はいつまでも子どもを教える責任があるわけではありません。子どもが成人すれば、その役割は終わります。それと同じように、律法はイエスによる救いが完成することによって、その役割を終えることになったのです。しかし、ユダヤ人でキリスト者になった人々は、律法を捨てることが出来ず、イエス・キリストによる救いプラス、ユダヤ教の律法をも守らなければ救われないと教えたのです。その具体的な例が「割礼」です。神は、アブラハムを通してその子孫に「割礼」を受けるように命じられました。イエスの時代、ユダヤ人たちは、生まれて八日目に割礼を受けさせることを義務付けていました。しかし、その事は異邦人にとっては、大きな障害となっていたのです。パウロはこの「割礼」を異邦人にも強制することに大反対しました。なぜなら、救いは、イエス・キリストの贖いを信じる信仰によってのみ与えられるのであり、ユダヤ教の律法(割礼を含む行い)によって救われるのではないことを、自ら経験を通して学んだからです。パウロがガラテヤの教会を去った後、このユダヤ人キリスト者たちがガラテヤの教会に来て、先程の教えを彼らに宣べ伝え、ガラテヤの教会の人々も彼らの教えを受け入れ、イエス・キリストによる救いだけではなく、律法を守ることに熱心になるクリスチャンが増えて行ったのです。それを聞いたパウロは、ガラテヤの教会にこの手紙を送り、初めの教えに戻るように教えたのです。

3、自己義と信仰による義

私たち日本人は律法という神の戒めを信じている者ではありません。しかし、暗黙のうちに、正しい人は天国に行き悪い人は地獄に落ちると考えていないでしょうか。この「正しい人」とは、良いことをした人で、「悪い人」とは、殺人や強盗などの犯罪者を指しています。そうすると、普通の人は皆、天国に行き、極一部の犯罪者だけが地獄に落ちることになります。人間が義の基準を考えるとそのようになってしまいます。しかし、天国は神がおられる所であり、神の御住まいです。天国に入れるかどうかは、神が決めることであり、その基準が律法なのです。ユダヤ人たちはその律法を守ることに熱心でした。しかし、それは自己満足となり、自分を自分で義とする「自己義」に陥ってしまったのです。しかし、神はイエス・キリストにより、神の義を示されました。「神の義」とはイエス・キリストの贖いを信じる信仰による義です。しかし、私たちもイエスによる救いを信じていても、良い人間、良いクリスチャンなることを目標としていないでしょうか。良い人間、良いクリスチャンになることは悪いことではありません。しかし、それが目的になる時、内側でなく、外側を飾るようになります。そして、信仰の本質からそれてしまいます。イエスの時代の祭司たちは、まさにそのようになり、外側だけを立派に見せる偽善者になってしまいました。イエスは彼らの偽善を激しく非難しています。「神の義」とは、立派な人間になることではなく、神がなして下さった贖い(救い)を信じ、神を褒めたたえることです。神が私たちに求めることは、神の愛に応えることです。

ルカの福音書19章に、イエス・キリストと出会った取税人の頭ザアカイの話があります。彼は、取税人という仕事で大金持ちになっていました。しかし、また彼は取税人という仕事のゆえに、ユダヤ人から嫌われ、ユダヤ社会からは疎外された者でした。彼は、イエス・キリストが自分の町に来たということで、イエスを見に行きました。しかし、彼は背が低く、群衆が邪魔してイエスを見ることが出来ませんでした。そこで、彼は木に登り、木の上からイエスを見ようとしました。ところが、イエスは木の上のザアカイを見つけて、5節「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」

と言われたのです。ザアカイは急いで木から降りると、イエスを自宅に招き宴会を開きました。そこで、彼はイエスに言いました。8節「主よ、ご覧ください。私は財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」なぜ、彼はこのようなことを言いだしたのでしょうか。それは、彼がイエス・キリストの愛を受け、その愛に応える生活をしたいと願ったからではないでしょうか。神は私たちを愛し、ひとり子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして、十字架の上でいのちを取られました。神は私たちに対してそれほど大きな愛を示してくださいました。私たちはその愛に応えどのように歩むべきでしょうか。ザアカイは自分の罪を認め、神に喜ばれる道を選びました。私たちは、神の愛に応えどのように歩んでいるでしょうか。