幸いなことよ 弱っている者に心を配る人は。
わざわいの日に 主はその人を助け出される。

詩篇 41:1

(BHS44:1-2)אַ֭שְׁרֵי מַשְׂכִּ֣יל אֶל־דָּ֑ל בְּי֥וֹם רָ֝עָ֗ה יְֽמַלְּטֵ֥הוּ יְהוָֽה׃

「弱っている者」と訳されているדָּ֑ל(ダル)は、「貧しいもの」とか「立場の弱い者」という意味のある言葉です。「心を配る者」と訳されているמַשְׂכִּ֣יל(マスキール) の元になっている動詞שָׂכַל(サーハル)は、「顧みる」、「懸命に扱う」、「教える」、「指導する」、「良い成功をおさめる」という意味があるようです。「幸いなもの」と訳されるאַ֭שְׁרֵי(アシュレー)は、אָשַׁר(アーシャール)「幸いな」という言葉をもとにしています。創世記30:13「レアは、『なんと幸せなことでしょう。女たちは私を幸せ者と言うでしょう』と言って、その子をアシェルと名づけた。」という御言葉にも使われていますね。

בְּי֥וֹם רָ֝עָ֗ה (ベヨーム・ラーアー)は直訳すると“in the day of evil(悪の日に、悪の時に)”という意味。英語訳では、”In the day of trouble”とか、”When the times are evil”と翻訳されているようです。

מָלַט)יְֽמַלְּטֵ֥הוּ)イマルテフー(マーラト)は「救う」とか「助け出す」という意味で、主語はיְהוָֽה(YHWH)です。YHWHはヤーウェとか、ヤハウェと発音されると考えられています。これは主の御名を表しています。

※ユダヤ人は主の御名をみだりに唱えることがないように、「主」という意味の「アドナイ」という発音で朗読しました。יְהוָֽהに下につけられた点々や線は、母音を表す符号なのですが、このアドナイの母音符号がつけられているのだそうです。YHWHにアドナイの母音符号をつけて読むとYeHoWaHのようになりますが、これがイェホバやエホバという誤読につながりました。

1. 「弱っているもの」への視座

詩篇41:1の「弱っているもの」は、ヘブライ語で דָּל (dal) と言います。これは単に経済的な貧しさだけでなく、病気、社会的地位の低さ、あるいは精神的な無力感の中にいる人を指します。新約聖書において、主イエスはこの「弱っているもの」をご自身と同一視されました。

「まことに、あなたがたに言います。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」

マタイの福音書 25章40節

イエス様は、私たちが社会的に弱い立場にある人々に心を配ることは、神ご自身に仕えることと同義であると教えられました。これは、詩篇41篇が教える「心配り」が、単なる道徳的な善行を超えて、神との関係に深く根ざした霊的な営みであることを示しています。

2. 「心を配る」という能動的な愛

「心配る」と訳されているヘブライ語 שָׂכַל (sakal) は、単に同情するだけでなく、相手の状況を正しく理解し、何が必要かを賢明に判断して行動する姿勢です。それは積極的かつ具体的な行動なのです。

兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。

ヤコブの手紙 2章15-17節

3. 「主はその人を助け出される」:神の報いと守り

詩篇41:1の後半は、他者に慈愛を示す者に対して、主が「わざわいの日」に救いをもたらすと約束しています。山上の垂訓の中で、イエス様はこの報いの原理を明確にされました。

「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

マタイの福音書 5章7節

ここで興味深いのは、詩篇41篇が「わざわいの日に助け出される」と述べている点です。クリスチャンであっても「わざわいの日(困難な時)」を免れるわけではありません。この詩篇41篇を歌ったダビデも、多くの困難を経験しました。しかし、他者に心を砕いてきた者は、自らが弱り果てた時に、神からの特別な慰めと支えを経験するという約束があるのです。

ある青年は、自分の信仰を兄たちにからかわれ、また仲良くしていた親友の死を経験して、神様の存在を疑うようになりました。そして、自らの「セオドア(神を愛する者)」という名前を恥じて、略称の「テッド」という署名をするようになりました。この青年は無気力と失意のうちに、ある心理療法家のもとを訪れ、カウンセリングを受けるようになったのですが、その対話の中で、自らがハリケーンの日に無謀にも港を訪れ、酷い目に遭ったことがあると話しました。彼は海にさらわれ、その中で死にかけるのです。しかし、波は彼を港の方に押し戻し、彼は奇跡的に助かったのでした。

彼はそれを「たまたまですよ」と説明しましたが、心理療法家は鋭くツッコミをいれました。「君は『神がいるなら、なぜこんな不幸が起こるのか』と色々な事例を挙げる。けれども、もっと低い確率で奇跡的に助かった時には、その幸いに対して『これは偶然だ』と言うんだね。」

私たちは苦しみに合うと、すぐに信仰が揺らいでしまいます。神の存在を疑い、「神がおられるなら、どうしてこのような悪が・・・」と言うかもしれません。しかし、そのような悪、災いの日に、主によって助け出された経験に目を向けているでしょうか。上に挙げたような極端な例ではなくとも、私たちは日々、多くの恵みを頂いて生かされています。それらの良いことに対して、「神がおられないなら、どうしてこれほどの恵みが・・・」と言うべきなのではないでしょうか。

4.結論

主は私たちの行った良い行い、私たちが示した憐れみを見て下さっているお方です。日本語の諺にも「情けは人のためならず」という言葉がありますが、それらの良い行いは、良い報いとして、必ず自分に返ってくるのです。なぜなら、主は憐れみ深いものに対して、憐れみ深く、豊かな恵みを注いでくださるお方であるからです。

そして、その恵みは、私たちの良い行いには比べものにならないほど豊かに、日々私たちの上に注がれています。私たちの健康な身体は、私たちのどんな良い仕事に対する報酬だと言うのでしょう。日々太陽がのぼり、食物が備えられているのは、私たちに相応しい報いでしょうか。そうではありません。それらはすべて、神様の恵みなのです。

たしかに、わざわいの日は誰もが経験します。神を信じている者にも、悪を行う者たちに対すると同様に、わざわいは降り注ぎます。しかし、それらのわざわいの日々にあっても、主が救いの道を備えて下さっていることを信じることが出来ます。わざわいに目を留めて神を疑うのではなく、主の恵みと救いに目を留めて歩んでいきましょう。

主の恵みによって生かされている幸いに気付き、感謝することができますように。そして、弱っている者に心を配り、具体的な助けを与えられる「生きた信仰」の道を歩んでいくことが出来ますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン