聖書箇所:マタイの福音書6章25−30節

説教題:『心配しないで信じる者に』

1. 人間の本性と「思い煩い」の現実

私たちは日常の中で絶えず思考を巡らせて生きていますが、統計によるとその思考の大部分はネガティブな内容であり、しかも前日と同じことを繰り返し考えていると指摘されています。人間の脳は本質的に不安を増幅させやすい傾向を持っているということです。例えば、確率的には交通事故より遥かに低いはずの飛行機事故に対する過度な警戒のように、客観的な発生確率がゼロに等しいような事柄に対しても、一度囚われるとそれが動かしがたい事実となって心を支配してしまいます。多くの場合、人間は実際に悲劇が起こったから苦しむというよりも、まだ起こっていない事柄に対する「不安に思うこと自体」によって、自らの精神を深く消耗させ、苦しめているのが現実です。

2. 「心配する(メリムナオー)」の語源的本質

イエス・キリストはマタイの福音書6章25節から30節の箇所において、何を食べようか、何を着ようかと、衣食住に代表される日々の生活や命のことで思い煩うのをやめなさいと教えられました。

ここで「心配する」あるいは「思い煩う」と訳されているギリシャ語の動詞「メリムナオー」は、語源を遡ると「分割する」という意味の言葉と「心」を意味する言葉の組み合わせに由来しています。聖書が指摘する心配の本質とは、ただ単に明日のことを予測することではなく、「心がバラバラに分割され、二つの事柄の間で引き裂かれている状態」を指します。私たちは神という真理の光だけに目を留めるのではなく、同時にこの地上の欠乏やリスクにも目を向けようとするがゆえに、心が分裂し、内なる平安を失ってしまうのです。

3. 天の父への信頼を促す二つの自然の証拠

イエスは、私たちが衣食住の心配に囚われて心が引き裂かれないために、二つの自然の営みに目を向け、その背後にある神の御意思を注意深く観察し、悟るようにと促されました。

 空の鳥の観察:鳥たちは将来のために種を蒔くことも、収穫を倉に蓄えることもしません。それにもかかわらず、彼らが日々養われているのは、天の父が彼らを支配し養っておられるからです。神は私たちに、自分の力では到底作り出せない「いのち」という最も尊い最高のプレゼントをすでに無条件で与えてくださいました。そうであるならば、そのいのちを維持するために必要な食べ物や衣服という副次的なものを、神が与えてくださらないはずがありません。私たちは鳥よりも遥かに価値ある、神の愛する子供たちです。

 野の花の観察:ガリラヤの野に自生する素朴な花々は、自らを美しく見せようと思案したり、努力して紡いだりしているわけではありません。人間の科学技術をもってしてもゼロから作り出せないその精緻な美しさは、神の創造の御業によるものです。今日咲いていても明日には炉に投げ込まれてしまうような野の草花でさえ、神が歴史上のどの栄華よりも美しく装ってくださるならば、神の形に造られた最高傑作である私たちに対して、なおさら良くしてくださらないわけがないという確信へと導かれます。

4. 人間の限界の承認と神の主権への委ね

さらにイエスは、人間がどれほど思い煩ったとしても、自らの意志で寿命をわずかでも延ばすことも(身長を高くすることも)できないという現実を問いかけられました。これらは人間の努力や心配の領域を遥かに超えた、完全に神のご支配の領域に属することがらです。

現代社会は老後の資金問題、病気のリスク、不安定な社会情勢など、あらゆる手段で人々の不安をかきたて、すべてのリスクを自分のコントロール下に置かなければならないような錯覚を植え付けます。しかし、将来のために落ち着いて今できる最善の備えをすることと、不安に支配されて心を摩耗させることとは全く異なることです。人間としての限界を素直に認め、自分ではどうしようもない領域、すなわち神の主権に属する事柄に関しては、自らの手から完全に手放して全能の神の御手に委ねてしまうことが、聖書の教える正しい重荷の降ろし方です。

5. 結論:信仰の回復と日々の歩み

私たちが思い煩いに支配されるとき、そこには冷静に現実を見分けることができない人間の知的な弱さや、客観的な根拠よりも自分のネガティブな感情を優先してしまう心の弱さがあります。しかしそれ以上に、神を徹底的に信頼しきることができないという「信仰の薄さ」が根底に潜んでいます。

イエスが語られた言葉は、根拠のない空虚な気休めではなく、万物を支配される全能の神の確かな約束です。私たちの命と生涯に必要なものは、すべて天の父がすでにご存じであり、備えてくださいます。私たちは自分自身の領域ではない神の領域にまで神経質になって目を奪われるのをやめ、衣食住の必要を信頼のうちに主に委ねる必要があります。そして、全能の主の御手とその正しいご支配に信頼を置き直し、不必要な心の重荷を降ろして、今日という日に与えられている自らのなすべき務めへと、落ち着いて静かに励んでいく歩みが求められています。