聖書箇所:マタイの福音書6章14−15節
説教題:『赦し、赦される』
1. 忘れることの恵み
発達障害の事例の一つに、数年前の嫌な記憶が生々しく甦る「タイムスリップ現象」というものがあるようです。多くの人は時間の経過とともに記憶が薄れますが、過去の嫌なことや、人から受けた仕打ちなどを忘れることが出来るというのも、一つの恵みと言えるかもしれません。それによって私たちが前を向いて歩めるよう守られている側面があるからです。過去の傷を握りしめ続けることは、本人の自由を奪う足枷となり、現在の平安を損なう大きな要因となります。
2. 聖書が教える「赦し」の本質
マタイの福音書6章14節から15節で、イエス・キリストは「人の過ちを赦すなら、天の父もあなたがたを赦してくださる」と語られました。ここで使われているギリシャ語「アフィエーミ」には、自分の元から「手放して解き放つ」という意味があります。
私たちが誰かを赦せない状態とは、相手の失敗を握りしめ、苦々しい思いを心の中心に住まわせ続けている状態を指します。一方、赦すべき対象として挙げられている「過ち(パラプトーマ)」は、正しい道から足を踏み外すことを意味します。相手の過ちを手放し、心から許すことは、相手のため以上に、自分自身の回復と自由のために不可欠な選択なのです。
3. 双方向の赦しと「一万タラント」のたとえ
赦しを考える上で重要なのは、それが常に双方向であるという点です。マタイ18章に登場する「一万タラントの借金を免除されたしもべ」のたとえは、この真理を鋭く突いています。
このしもべは、一生かかっても返せない莫大な負債(一万タラント)を主人に赦されながら、自分にわずかな借金(百デナリ)がある仲間を容赦なく投獄しました。彼は「返してもらう権利」という正しさを主張しましたが、自分が受けた計り知れない赦しを忘れていました。結果として、彼は自らが用いた「容赦のない秤」で裁かれ、主人の憐れみを失うことになります。
神の目から見れば、人間同士の争いは「五十歩百歩」に過ぎません。私たちは皆、神に対して一万タラントの負債を抱えた罪人であり、まず自分自身が赦された存在であることを忘れてはならないのです。
4. 悪を容認することとの違い
注意すべき点は、赦すことが「相手の悪を肯定する」ことではないという点です。罪や悪は依然として悪であり、容認されるべきものではありません。しかし、聖書は「復讐はわたしのもの」という主の言葉を引き、裁きを神に委ねるよう教えています(ローマ12:19)。
私たちが自ら復讐の剣を振るうのではなく、相手を赦して神の怒りに委ねることは、「善をもって悪に打ち勝つ」歩みです。正義感ゆえに赦せない葛藤が生じる時こそ、立ち止まって祈る必要があります。
5. 結論:赦し、赦される歩み
赦しは、感情的には非常に困難な課題です。しかし、私たちが相手を赦す時、神との関係が回復し、神の赦しの恵みを豊かに受け取ることができます。主の祈りにある「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、自分に負い目のある者を赦しました」という言葉を胸に、赦し、赦される一人のしもべとして、信仰の歩みを進めてまいりましょう。
