聖書箇所:マタイの福音書 6:16-18

説教題:『真の報いを求める』

1. 断食の誤解と真の意味

ダイエットや健康法として語られることもある断食ですが、聖書が教える断食は単なる身体的メンテナンスではありません。断食とは、一定期間食事を断ち、神様の前に集中して、祈りと悔い改めをもって主を求める信仰的実践です。
旧約聖書において、断食は主に二つの文脈で現れます。

悔い改めと嘆き:罪を犯した者が、自らの砕かれた心を外的な形として表し、神との関係回復を真剣に求める姿です(ヨエル 2:12-14)。

「しかし、今でも──主のことば──心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰れ。」衣ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深い。
怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。

ヨエル書 2:12-13

真剣な祈りと願い:絶体絶命の危機に際し、生きるために不可欠な食事さえ断って、自分の全存在を神にゆだねる姿勢です(エステル記 4章)。

「行って、スサにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食してください。三日三晩、食べたり飲んだりしないようにしてください。私も私の侍女たちも、同じように断食します。そのようにしたうえで、法令に背くことですが、私は王のところへ参ります。私は、死ななければならないのでしたら死にます。」

エステル記 4:16

2. 偽善への警戒

イエス様は、当時の宗教指導者たちが断食を「人に見せるためのパフォーマンス」としていることを厳しく戒めました。彼らは断食中であることを誇示するために顔をやつれさせ、人からの賞賛を求めました。イエス様はこのような人々を、舞台で演技をする俳優を指す「偽善者」と呼びました。
彼らは人からの評価という「報い」をすでに領収しており、神からの報いを受け取ることができません。信仰の実践(施し、祈り、断食)において共通する過ちは、「神との関係よりも、人の目を気にすること」にあります。

3. 隠れたところにおられる父との関係

イエス様は、断食するときにはむしろ頭に油を塗り、顔を洗い、日常と変わらない身だしなみを整えるよう教えられました。それは、断食が「人に対して」ではなく、隠れたところにおられる「父なる神に対して」なされるべきだからです。

結論:動機の純粋さを問い直す

私たちにとって重要なのは、何をしたかという形式以上に「どのような動機で行ったか」です。人からの賞賛という一時的な報酬に満足するのではなく、誰も見ていないところで神様が報いてくださることを期待する歩みが求められています。うわべだけの宗教生活ではなく、心を主へと向け、一点に全てを集中させる真実な信仰者として、主との深い交わりに生きることを目指しましょう。